第七十話『浮かぶ疑念と信頼』
――ギェェェエエエッ
耳を塞いで尚、脳髄に衝撃が駆け回るその大音量。
まさに、猿叫。
周囲の獣はとうの昔に逃げ出し、逃げ出せなかったものはすでに絶命している。
鶏が首を絞められている時に出す、断末魔の叫びに近い。大型の猿に似た獣、その叫び声は腹に空いた大きな空洞からひりだされている。もはや生物としての輪郭を成しているとは言い難い。ゆえに、魔獣。
しかし、今であれば、逃げるにしろ、立ち向かうにしろ、多少の猶予はある。
あの大声は威嚇そのもの。獲物を見据え、逃げるならば逃げれば良い、そういう意思の表明に近い。逃げようが逃げまいが、あの猛獣にとってさした差はないのだ。狩りそのものを楽しむのが奴の習性なのだから。
といっても、恐らく他に道がない以上、奴が陣取る領域を進む以外に選択肢はないのだが。
「……それで、ルーギス。もう撃ってもいいのかしら。どう、あの大口なんか。如何にも何か食べたくて仕方がない、って感じで調度良いんじゃない」
魔力を指の先に凝縮しながら、フィアラートが呟く。
その眉間にはひどく皺が寄っている所を見るに、恐らくあの大猿の大音声で叩き起こされたのだろう。彼女が寝起きの折、特別機嫌が悪いのは、貧民窟の生活で体験済みだ。
黒い尖った瞳は今にでも大猿に魔力の渦を叩き込まんとしている。此の寝起きの悪さだけは、いい加減どうにかならないものだろうか。
「おい、待て貴様。貴様のような貧弱な魔術師には荷が重かろう。それなら、私たち二人の方が良かろう。なぁ、以前のように、二人でやれば良いだろう、ええ?」
以前のように、というのは、猪に似た大型魔獣を指しているのだろうか。あれは、俺は殆ど関与していない気がするが。
カリアは、何処か自慢げに、それでいてあてつけるように、フィアラートへと告げた。フィアラートの殺意ともとれる魔力の塊。その方向性が、一瞬、カリアを向いた気がする。
そんなもの気にも留めないとばかり、肩にしなだれかかるカリアに、思わず目を細める。心臓の鼓動が、少し早くなったのを感じた。
どうにも、この様子はおかしいのではないかと、最近になって気づき始めて来た。カリアは勿論、フィアラートに関してもだが。
彼女らの中に、言わんともしがたい。俺にとっては含羞とも言える情念が芽生え始めているのは理解していた。
カリアは焦がれるような執着を、フィアラートは誰かに寄りかからずにおれない依存心を抱えている。それは、確かだろうと、そう思った。
そうして、それらの感情がこの身に注がれていると知った時の歓喜のほどはもはや疑いもない。喜ぶべきではない。頬を歪めるべきではないと理解している。彼女らは、かつて己を踏みにじり、暴虐を尽くした魔女達。
そんな者たちの感情を一身に受け、この心の奥底に沈殿する情念を揺れ動かすなど、まるで道化の様なものではないか。
ああ、だがそれでも。尚も、尚のことこの身はそれを歓喜していた。
愚かな事だと理解していながら。かつて、カリアにこの喉を締め付けられた時も、フィアラートに幾度もの言葉を求められた時も。
そう、俺という凡人は、彼女達から向けられる好意に近しい、それらの感情に、何処か喜びを覚えてすらいたのだ。何という、愚か。何という、凡夫。
――ああ、だが、しかし。最近では違和感のようなものも、同時に感じていた。
カリアの、他者を焼き尽くしてしまうほどの強烈な執着を、フィアラート・ラ・ボルゴグラードの、相手を共に沈み込ませてしまうほどの依存を、俺は見たことがあっただろうか。
ない。少なくとも、かつての旅の折、こんな姿を俺は見たことがない。
ふと、思う。俺は、何処かで、板を踏み間違えているのではないかと。そうして、一度踏み間違えたその先には、もう板は存在しないのではないかと、そう、不意に思ってしまった。
馬鹿らしい。もしそうだったとしても、次の一歩を無理矢理にでも踏み出してやればいいだけだ。考えを振り払う様に、立ち上がったままのマティアに声を投げる。目の前の大猿を振り払う為の手段を伝える為。
「聖女様。どうです、奴らにワインでも奢ってやりましょう。いい気分になって、見逃してくれるかもしれませんぜ」
そう、あえて気楽な声でいいながら、馬車奥のワインを指さす。
ガルーアマリアから運び込んできた、本来はエルフの王への贈呈品のそれ。未開封の樽に入ったワインは、未だ酸味もあふれ出ていない上等品だ。出来る事なら俺がそのまま飲んでしまいたい所であるのは間違いない。
しかし、そう言った時のマティアの顔と言ったら、何と表現したものか迷ってしまう。眉は潜まり、頬はわなわなと震え、僅かに赤らんでいた。まるで踵の底から感情を捻りだしているかのような、一瞬の間。
「――貴方に少しでも温情を与えた私が間違っていました! 幾ら言語を尽くしても罵倒したりない愚か者です貴方は! 馬鹿な事を言っている暇があるなら……!」
大きく掌を開き、感情をそのまま吐き出すようになってしまった口の前へと押し立てる。僅かに、額から汗が流れた。
よもや、こうも冗談が通じない相手だったとは。どうにも俺の人を見る目がくるっていたらしい。これ位の軽口には、冷淡に返してくるものと思っていたが。計算高さに反して感情を露わにするタイプのようだ。
「分かった、すまない、俺が悪かった。しかし冗談じゃあないぜ。奴らにワインをくれてやる。それが最上の手だ」
少しずつ落ち着いていくマティアの表情を前に、ゆっくりと手を引く。そして言い聞かせるように、一つずつ言葉を練った。
「あの大猿は、魔獣の中では妙に欲があるタイプでな。人を襲う時も追っかけまわして狩りの真似事をしたり、人の嗜好品を好んだりする。それで奴らが望んで堪らないのが――」
「――ワインだっていうわけ?」
黒い瞳を丸くしながら、訝し気にフィアラートが言葉を継ぐ。その表情は、何故そんな事を知っているのかという、疑問にあふれているのが見て取れた。
「だってあれ、どう考えても未発見の魔獣よね。どうして、そんな事をしってるのよ、貴方。ねぇ?」
フィアラートの疑問は、何処までも尤もだ。未知なるものに対して、知識を振りかざすならその根拠を示すべきだろう。かつてカリアに助言をした時のように、なら後は野となれ山となれと、放り捨てるわけにもいくまい。マティアもまた、その瞳に浮かぶ色は疑念の色だ。
不味いな。どうにも、言葉が思い浮かばない。あの大猿は戦えば必ず犠牲が出る。それは護衛の騎士達かもしれないし、俺かもしれない。
しかし彼女達は聡明な女性だ。簡単に口先だけで丸め込むわけにもいくまいし、もはや生死を共にしていると言ってもいい彼女達をペテンに掛けるのも気が引ける。
どう、言ったものか。そう、舌が迷いに揺れ動いた時、強く響く声が、耳元を撫でた。
「別に信じられんのなら構わん――私はな、ルーギス。貴様こそが正しいと信じよう」
今日はどうにも、彼女は得意げでいたいらしい。二つの房にわけた銀髪を揺り動かし、にぃ、っと頬を割りながら吐き出されるカリアの言葉が、耳を擽る。
「私も根拠はない。以前、こいつが新型の魔獣の事を知っていたと、それ位のもの。だが、私は今更その言葉を疑う気にはならん。貴様はどうだ、魔術師」
銀の瞳が、細まりながらフィアラートを見据えたのが分かる。何とも、意地の悪そうな質問だと、そう思う。やはり、どうにも、妙な違和感が胸を撫でる。
フィアラートは唇を尖らし、その大きな瞳を見開きながら、カリアの視線に応えて、そうしてそのまま俺を睨み付ける。
何だ、俺が何をした。何もしていないぞ。そういった弁解の余地は与えないとばかりに、フィアラートは口を開く。その声には滲み出る情動が色をつけていた。
「……ええ、いいでしょう。結構。良く分かったわ。信じようじゃないの……絶対に、後で説明してもらうわよ、ルーギス!」
フィアラートが、黒い瞳の端に液体を溜めながら、言う。
思わず驚愕に瞳を見開き、肩を跳ねさせながら、勢いに押されるように頷く。参った。フィアラートという女性が、こうも情動を活発にさせるのはやはり見慣れない。かつての未来を知っているからこそ、余計に。
だが、良きにしろ悪きにしろ、フィアラートも俺の案に賛同した。
では、後は聖女様だけというわけだ。座り込んだ姿勢のまま上を見上げると、そのまま聖女様の視線とかち合った。その表情は、未だ憮然としている。どうにも、認めたくないというように、俺の提案など取り上げたくないというように。
随分と、嫌われたものだ。昨晩の言葉から分かっていたことだが、こうも露骨であるとやはり胸中から生気のようなものを、無理やりに吸い取られていく気分になる。かつての、旅の頃のように。
だが、好悪に関わらず、どちらにしろ早く決めてもらわねばなるまい。あの大猿の威嚇が、少しずつ大人しくなってきた。あれは、もう獲物をその手に獲ると、そういう合図だ。本能が、狩りを楽しむ習性を上回り始めている。
蹄の音が、周囲を騒ぎ立てた。
「――聖女様ッ、周囲に馬車が通れるほどの道は他になく。やはり此処より押し通る他ないかと!」
探索に向かっていた護衛の騎士の言葉。それが、恐らくは最後の一押しだった。
「……良いでしょう。勇者、いえルーギス。貴方の案を採用します。直ぐに準備を」
マティアの透き通るような声が、静かに馬車内に落とされた。