<< 前へ次へ >>  更新
70/664

第六十九話『聖女の懊悩』

 マティアの整った眉が、僅かに顰められ、唇が揺れる。


 暗闇の中、気づかれるはずはないと思いながらも表情を崩さないよう、マティアはそっと感情を諫めた。その胸中で猛るように動き回り、身を焦がしているのは、恥の感情。


 恥ずかしい。何故、私はあんな、考えることも知らぬ愚者のように、感情のまま言葉を並べた立ててしまったのか。馬鹿らしいにも程がある。


 マティアは自分の強みが、その理性と打算の内にあると理解している。


 顔に聖人を張り付け、胸中に毒蠍を潜ませることが世を渡ることだと信じている。幼き頃より聖人、聖女としての振る舞いを求められた彼女は、その事実を十二分に飲み込んでいた。むしろ、感情を露わにする生き方など不様この上ないとすら感じている。


 だからこそ、その白い頬を赤らめる。なんだ、今の醜態は。


 ――私は貴方に感謝などしていない。いえ、むしろ、怨んでいます。


 揺れる馬車の感覚が、妙に膝元に伝わってくる。マティアの頬が、必死にひきつりそうになるのを防いでいた。


 ああ、怨んでいる。怨んでいるとも。この肩に離れず居座っていた呪いが、後ほんの数瞬で、滑り落ちていくはずだった。私は全てを失うと同時に、聖女として生き、死んだという救いを得られたのだ。


 例えその結果が、紋章教の瓦解だとしても。そう思う事が、どれほど聖女として悍ましい考えだったとしても。一瞬の快楽が、確かにあった。


 しかし、だ。それでもやはりマティアは己の行動に首を傾げざるを得ない。例えこの胸中に煮えたぎるほどの怨みが居座っていたとしても、今、彼に思いのたけを伝える必要は全くない。


 もはや命長らえてしまったこの身は、聖女として最後までその義務を全うせねばならないのだから。


 精々今は、当たり障りのない感謝でも告げ、これからも上手くルーギスと名乗る冒険者を使ってやれば良いはずだ。マティアは理解している。それが最善の道であり、此処で彼ないし彼らと問題を起こす必要はないのだ。


 だが、胸中に渦巻く感情がどうしてもそれを許さない。


 これも、それも。やはり全ての原因は彼、ルーギスなのだ。


 情けない。聖女として訓練を受けた自分が、このような動揺を晒すなど、あってはならない。馬車の周囲には、信徒達も付き従っているというのに。マティアは再び、気づかれない程度に己の唇を噛む。


 事実、マティアはルーギスにその命を救われた。その部分において、感謝を告げる事になんら問題はない。だが、どうしてもその頭があの時の事を忘れきれない。マティアの胸を掻きむしる言葉が、未だ頭の中に居座っていた。


 ――こんな時まで、聖女面しないでくださいよ。


 私は聖女だ。何処までも、そう。何時であろうとマティアは聖女であった。だというのに、この男は、あろうことか私が聖女である事を、否定しようとした。


 いや違う、心にあるのはそれだけではない。やはり、命を救われた感謝の念もあり、しかし、絶命という形で全ての重責から解放される機会を奪われた怨みもあり。ああもう、分からない。こんな事は初めてだ。


 頭の中で、何人もの自分がそれぞれ違う主張を繰り広げているようだった。マティアは思わず瞳を瞬かせ、感情の渦に首を傾げる。


 これほどまでに感情を制御できないのは、それこそ子供の時分に戻ったようだ。理性の仮面を被る前、そう、まるで聖女でなかった頃の、己のよう。


 そんな訳がない。マティアはその表情を再び引き締める。


 私は過去から現在に至るまで、紛れもなく聖女として生きていた。それは今後、死ぬまで変わりはない。何故、このような不逞な男に感情を乱されねばならないのか、それがマティアには分からなかった。


 何にしろ、感情を露呈するという不様を晒したまま、終わるわけにはいかない。マティアは軽く吐息を漏らし、呼吸を整えながら、唇を動かす。


 ――何を不服そうな顔をしているのです。よもや、あの救助は私から感謝を貰うの為の行動だったとでも。所詮、勇者もその程度ということですね。


 そうして言葉を発しないまま、唇を閉じた。瞼が閉じられ。頬がひくつく。


 おかしい。取り繕いの言葉や、悪意を布切れに包む言い回しは、幾らでも頭に浮かんだはず。だというのに、何故、今此の時に胸に浮かぶのは悪辣というか、毒の混じった言葉ばかりなのか。そんな、感情のままに言葉を告げるなんてことは、幼少以来、親にすらした事がない。


 再び呼吸を整え、今度は頭の中で、ゆっくりと言葉を練る。


 ――言っておきますが、私は寝たりしませんよ。寝ている間、貴方が何をしでかすか、分かったものではないですから。


 そのまま夜が明けるまで、マティアが言葉を発することはなかった。


 *


 もうそろそろ、太陽が瞳を開こうという頃。不意に馬車がその動きを止める。丁度、風味がしなくなった噛み煙草を手元に吐き捨てた。


 結局、夜殆ど寝ることはなかった。大聖教側からの襲撃を万が一でもと、そう考えるとどうにも寝付く気分にはならなかったし、それに聖女様の様子も、どこか平時とは違った。結局どちらも俺が無駄に気を回しすぎただけだったようだが。


「聖女様――馬車前方に魔獣の影が」


 如何いたしましょう、と手綱を握ったままの護衛が言った。


 その言葉につられるように、ふと、前方に視線をやる。もう大地はその殆どが草木に覆われ、人の手が及ばない土地、つまる所、彼ら、エルフの領域へと至っているのが分かる。馬車も、もはや道なき道を蹄で割って通っているようなもの。その場では、当然に野生の猛獣や魔獣の領域に踏み入ることもあるだろう。


 馬車より馬数頭分前方。そこには、巨大な猿が鎮座していた。


 下手な馬よりかは遥かに大きい。加えて、ただ大きいだけではない。その眼球は不気味なほどに煌々と朱く光り、毛皮に隠れてはいるが実質的な口は腹にある。その腕や脚の筋肉ははち切れんばかり。筋の一本一本が鋼鉄で出来ているかのようだ。実際、指を弾けさせれば岩くらいなら軽く砕く。


「ふ、む……見たことはないな。新しい型の魔獣が増えているとは聞いていたが、奴らもその類か」


 馬車から身を乗り出してその見慣れた魔獣を見ていると、カリアが横から顔を出した。流石に、馬車の揺れで瞳を覚ましたらしい。それか、もたれかかってきていた頭を、横にずらした時に覚醒したのだろうか。銀髪が、すぐ隣で揺れ動く。


「他に回り道があるならば、それを。ないのなら……押して通るしかないでしょう」


 その言葉に、護衛騎士達がすぐさま周囲の探索に向かう。といっても、恐らくは無駄足だ。エルフの領域はその大部分が樹木に覆われており、彼らは道を作るためにそれらを伐採することを良しとしない。此の大きな道は、かつて此処がまだ人の領域であった頃に作られたものだ。


 マティアは、僅かに俺に視線を向ける。いざという時には、戦力として換算すると、そう言外に言っているのだろうか。


 正直な所勘弁願いたい。あれは俺のような凡人が真正面から戦って勝利しえる魔獣ではない。間違いなく完全武装した騎士が集団で立ち向かう位の存在だ。一目みただけでは、それほどの脅威には映り得ないのは確かだが。


「そういえば貴様は、新型の魔獣に関して造詣が深かったな。どうだ、あれは。貴様の隠し事が得意な脳は、あれについて聞き及んでいるか」


 こん、とカリアの指が軽く頭を叩く。こいつ、未だに俺が何か隠し及んでいるのかと疑っているらしい。隠し事があるのは事実だが、それは人間なら誰しもしているものだろう。


「ま。いざとなれば手はあるさ。それに、魔獣相手とはいえエルフの領域を土足で踏み躙るのは、余り宜しくもない」


 しかし、と指で顎を撫でる。そうか、もうこの頃には、エルフの領域周辺でこいつらは跋扈していたか。予想外という程でもないが、意外ではあった。


 やはり、というか当然にというか。無情なものだ。もうすでに、世界は大災害への準備をし始めているらしい。


 肺の奥を、妙に重たくなった空気が撫でた。

<< 前へ次へ >>目次  更新