第六十七話『幼馴染』
頭の芯から鈍い痛みが這い出して来るのを感じていた。
思わずこめかみを指で強く押さえつけるが、痛みが引く気配らしいものはなかった。どうやらこの鈍痛を取り除いてやろうと思えば、頭を直接割らないといけないらしい。
アンや聖女様が来るという話だったが、今暫くベッドから立てそうにない。酒場二階のベッドに転がったまま、眉間に皺を寄せる。
質の良いエールだからと言って、昨夜は少し飲み過ぎた。思わず純粋な水分を求めるように、舌を出す。混ぜ物をしていないエールなどというのは、この身体には上等すぎるらしい。身体を巡る血流と共に、酔いがそのまま駆け回っている気分だ。
しかし、まさか俺も良い酒に浮かされて頭に鈍い痛みを生み落とすほど飲んだわけじゃない。無いと、そう信じたい。此の頭に、思い浮かぶものがあったからだ。
ようやくベッドから這い出ながら、枕元に手を伸ばす。噛み煙草を口に咥え、半身だけを起こして、鼻と口に匂いを通す。歯の上に煙草を転がし、瞳を細める。脳裏には、紛れもない一人の人物が浮かび上がっていた。
――陽光を反射し、淡く輝くその金髪。見るだけで頬を染めてしまいそうになる笑顔。思い浮かべたのは、アリュエノその人に、他ならない。
情けない。なんと情けないことだ。その姿を思い浮かべただけで、目尻に熱いものがこみ上げる。
懐の内ポケットの中には、アリュエノから預かったハンカチがある。今の俺と彼女を繋ぐものといえば、もはやそれ一つだけでしかない。
片や、大聖堂に身請けされ、将来的にその才能の片鱗を見出される偉才。
片や、紋章教徒に与し悪名を轟かせた凡庸な男。
この二人の何処に、接点らしきものがあるだろうか。
幾ら此処で名をあげたからといって、流石にアリュエノを迎えにいくのには分が悪い。というより方向性が完全に食い違っている。もはやそれは迎えにいくのではなく、襲撃にいっているのとそう変わらない。
感情のまま、己の猛る情動のままに動いた結果が、此れというわけだ。
全く、当然の報いというものだろうか。だからといって、アリュエノを諦める心は胸の何処にも湧いてでてはいない。ただ、その道筋の困難さにどうしても眉間に皺が寄る。どうしたものか、と。
それにこう言ってはなんだが、此の選択に俺は、恐らく後悔をしていないのだ。
勿論、どうしたものかと悩みはする。頭を捻りはする。もしかすると胸中に、未だ状況への実感が浸透していないだけなのではとも思う。ただただ、俺の矮小な頭脳が現状を理解したがらず、己を正当化しようとしているだけなのかもしれない。
だが、それでも。どれほど疑ってもやはり、後悔らしきものは此の胸に無かった。
かつての頃、俺は理性をこそ大事にしていた。
本能のまま、感情のままに生きるなど、力ある者だけが押し通れる道。弱者は、低劣な庶民は感情を露わにする自由などない。ゆえに、全てを押し殺して、ひた隠しにして生きて来た。
その結果、得られたものはなんだったか。
何も、得られなかった。ただ、手の中にあったものも、そうでないものも、全てを取りこぼすだけの日々。ただ、生きているだけの生活。
なるほど、心の中で思い浮かべるだけでも憚られる。鳩尾の辺りを重い何かで撫でられたような、そんな感触があった。
――だから、今は心地良い。感情のままに、生きられる此の時が。例えいずれこの道の先で、絶対の死に相まみえるだろうとしても。
二日酔いを覚まし、懊悩をそのまま飲み込む為、テーブルに置かれた陶器へと手を伸ばす。確か水が入っていたはずだ。妙に、喉が渇いていた。
そんな時に、ふと、頭の中で詮無い疑問が瞬間的に渦巻いた。
――大聖堂。アリュエノ。待てよ。そういえば、あいつ。なんで救世の旅の時には……。
酔いが、未だ手元を狂わせるのだろうか。ベッドの上から伸ばした手が僅かにずれ、コップが、テーブルの上から滑り落ちていった。
*
――ガシャンッ
大聖堂の礼拝堂にて、黄金の瞳が見開かれる。その色が示すものは、紛れもなく驚愕。手元からはコップが滑り落ち、割れはしなかったが大きく音を立てた。
淡い色の唇が小さく震えるのを、前歯で噛んで抑えた。
「あら、どうなさいましたの。アリュエノさん」
大聖堂の礼服に身を包む面々が、立てられた音に敏感に反応し、アリュエノの顔を覗き見る。向けられた瞳は心配や、様子をうかがうものではない。そこに含まれるのは、好奇の色に過ぎない。
アリュエノの瞳が、瞬く。
次には、その瞳から動揺や驚愕の色が全て失われ、本来のように。此処にきて当然のように張り付けてきた表情へと変貌していた。
「いえ、何もない、何もないのよ。ただ、こんな事が起こるだなんて、神の怒りを知らない人たちがいるものね、って」
可能な限り柔らかい笑みと、包み込むような声を。
そうして、手元にあった大聖堂が回覧させている記事を手渡す。まぁ、と他の者達の間でも、声が漏れだした。
記事には、一つの事実と、幾百もの造り上げられた言葉で悪人を飾り立てる文章が刻まれている。
――城壁都市ガルーアマリアが、悪なる者の手に渡る。首謀者は魔女マティア、そして、協力者の咎人ルーギス。
アリュエノは、その唇が言葉を発しようとするのを、必死に堪えていた。脳内では、何故、まさか、という言葉が幾度も生まれ落ちては消え、そして生まれ落ちるのを繰り返している。
此の回覧に載っている名前、ルーギスという名前がよもや己の知人だとは思えない。当たり前だ。彼は、普通の人間なのだ。そんな大それた事や、無理に手が届く人間ではない。こんな、大それたことをする人間ではない、その、はずだった。
しかし、詳細に記録されているルーギスなる者の出で立ち、恰好、背丈。その大部分が、己の記憶の中のルーギスと合致する。アリュエノは一瞬眩暈を起こしそうになりながらも、口の中を噛んで堪えた。
弱みは、決して見せられない。それが、アリュエノが此処で覚えた処世術であった。
大聖堂に修道女として、もしくは魔術の教育を受ける為に入れられるものは、その多くが上流階級の令嬢、もしくは豊かな商家の子供たち。彼らには、必ず後ろ盾がある。家名、財産、幼少より培ってきた数々の教養と学識。
だが、孤児であったアリュエノには、何もなかった。
その魔術素養を見込まれ、大聖堂上層部の肝いりで此処へと至ったアリュエノは、彼らにしてみれば大変面白くない存在だったのだろう。
家名もない。財産もない。学識もない。何もないただの小娘が、自分たちと肩を並べている。それどころか、その魔術素養は抜きんでている。
閉鎖された社会の中で、迫害の標的となるのには、十分な要素だった。
胸を覆う苦しみに奥歯を何度も噛みしめ、与えられる屈辱に何度も脳髄を揺らした。何度も、こんな所出て行ってしまおうかと、胃の中が重くなった。
そんな折には何時も、口の中に、あの味が蘇ってしまった。
あの日、ルーギスに貰った練り菓子の味。らしくもない、一番安いものではなく、少し高いものを態々無理をして買ったに違いない。本当に、見栄だけはしっかりと張るのだから。
その味が蘇る度、折れぬと心に決めた。決して弱みを見せず、毅然とし、何者にも屈さない。その顔を作り上げた。
もとより、魔術素養が抜きんでいたアリュエノが実技で実力を見せつけ、強気の態度をとることで、誰もが僅かな怯えをその心に飼い始める。
誰にも、底を見せてはいけない。誰にも、素顔を見せてはいけない。そうする事で、アリュエノは此の場、大聖堂で生きる権利を勝ち得た。
ゆえに、例え知人と思わしき人物が回覧に載っていようが、動揺するわけには、いかない。
アリュエノの表情は、もう、動いてはいなかった。しかし、その胸中にゆったりと張り付くものが、一つ。
――ねぇ、ルーギス。貴方どうして、そちら側にいるのかしら?
ぴくりと、誰にも気づかれない程度に、アリュエノの頬の端が歪んだ。妙に、粘着質のある感情が、胸の内側を這っているのが分かる。
ルーギスも、自分が大聖堂にいく事は知っている。己が、否応なしに大聖教に属することは重々理解していておかしくない。というより、しているはずだ。直接話したのだから。そうして、彼はいつか迎えに来ると、言っていた。そう、言っていたはずだ。
よもや次の再会が、紋章教徒側として紙面を飾る彼の姿とは、思いつきもしなかった。
「――確かに、最近馬車をよく見ますものね。こんな事が起こっていただなんて、思いもよりませんでしたわ」
ふと、思考が一瞬飛んでいたことに気付き、隣に座る者の言葉に、軽く頷く。
そう言われてみれば、確かに最近大聖堂の門が開く音と、馬の嘶きをよく聞く。なるほど、ガルーアマリアより避難してきた名家の人間や、令息令嬢を安全な場所に預けたい人間が、大聖教、並びに大聖堂を頼ってやってくるのだろうと、アリュエノは返事を呟きながら瞳を細める。
大聖堂のような宗教施設は、古くから戦場よりの一時的な避難場所、聖域として使われる事が多い。
当然、今回もその役割は変わらないだろう。特に、今回はその被害が紋章教徒の手によるものだ。大聖堂としては紋章教徒の卑劣さを、自分たちの寛大さを見せつけたいに決まっている。
しかしこうなっては、大聖教も手加減はしまい。紋章教徒を敵、邪教と認定するよう、各国に要請をするはずだ。アリュエノは、瞳を瞬かせる。金色の瞳が、僅かに煌いたようだった。
敵。そう、敵か。自分は、大聖教側にいる。紋章教徒が、敵となる。では、ルーギスは。あの回覧に名を載せた男が、自分の知るルーギスであったなら。
アリュエノの頬が、再度、歪んだ。