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第六十六話『神々と求める盟』

 ――かつて世界が一つであった頃、神もまた一つであった。


 そう、聖女マティアの唇が開く。滔々と、まるで子供たちに物語を読み聞かせるような、優し気な口ぶりで。


「古代の神は多くの姿を持ちながらも、本質的には一つだけでした。豊穣、知恵、雷、そして運命など、併せ持つ性質は数多くあれど、全ては同じ神だったのです」


 ガルーアマリア壁内、その酒場の一階に、透き通るような声が響き渡る。


 話しだすうちに、マティアの瞳がゆっくりと閉じられていった。しかしそれでいて尚、言葉からは滑らかさが失われない。その言葉の一つ一つが、彼女の内に溶け込んでしまっているようだった。


「不敬ではありますが、分かりやすく言うのであれば、意識の集合体とでも言うのでしょうか。それゆえに、神を神と指し示す言葉も一言しかなかった」


 だが、ある時代。人類の中で文明が興り、階級が生まれ、大規模な社会が産声をあげた頃。神の中にあった、二つの意識が諍いを始めた。


 最初は、単純な事だった。社会が複雑化するにつれ、懊悩し、嗚咽を吐き出す人々。彼らを見て、未だ名前もない神の複数ある意識、その一つがこう言った。


 ――彼らの生き様の、なんと憐れで、哀しみの多いことか。私が此の手で、その苦しみから救ってあげましょう。


 その憐憫の情と共に人へと手を差し伸べかけた意識を、神が内包するもう一つの意識が押しとどめた。


 ――何を言われる。見るが良い、彼らの生きる様を。その知恵を以て、苦悩し、嗚咽をあげながらも決断をする。その葛藤と選択の中にこそ、生がある。彼らから生を剥奪すると仰るか。


 他の多くの意識体の留める声も聴かぬまま、二人は自らと相手を引き離すかの様に声を重ねる。


 ――彼らは悩み多き者。知恵を持てばもつほどに、苦しみ嘆く。ならばそのようなもの無いほうが良いでしょう。悩みもなく、障害もなく、目の前にそびえたつ壁もない。願う彼らの手に授けましょう、此の幸福を。


 ――なるほど、貴様がそうであるならば、もはや我らが一つであるのは今この時まで。貴様は彼らから知恵を奪うと良い。私は彼らにそれを上回る知恵を授けよう。


 ――おお、憐れかな、私よ。我が一つの精神よ。我々が分かたれて、一体何になるというのか。


 長くの間、複合した意識として、一つの神として存在していた彼らが、その小さな諍いを原因として別れ隔てようとしていた。それは、決して譲り得ぬ互いの主張の為。


 その手を互いに取り合えるのであれば、一つであっても構わない。むしろそちらの方が調子が良い。だが互いがその手を振り払うのであれば、もはやそれは二つだ。同一の存在のままではあり得ない。


 ――では互いに名を与えよう。いずれ人間は貴様の甘美なる救済の手を払うだろう、アルティウス!


 ――愚かな者。ただ知恵と機会を運ぶことしか出来ぬ身。いずれ人間は貴方の運ぶ苦悩を見限り私の下へと至るでしょう、オウフル!


 その日より、世界は神とともに別たれた。この地上にはありとあらゆる国家、宗教、文明が生まれ、そのどれもが諍いを始めだす。もはや一つの神の統治のもと、平和であった世界は失われた。世界は喧噪と、争いの言葉を吐き出す口を、大きく開いてしまったのだ。

 

 *


「……と、いうのが語り継がれる事の多い、我ら紋章教の神オウフル様と、大聖教の祀るアルティウス、その成り立ちです。といっても、今のは孤児院の子供に聞かせる程度のものですが」


 聖女マティアが、こほん、と喉を鳴らす。人前で話す事に随分と慣れているのだろう。その所作の一つ一つに、緊張や焦燥による乱れが感じられない。


 といっても聴衆は、大して興味もなさそうに銀髪を指でくるりと弄っているカリア、それはもはやただの教養であり知らぬはずがないでしょう、ともで言いたげなフィアラート・ラ・ボルゴグラード、そうして当然、その話を知っている紋章教徒たるラルグド・アン。後は素直に拍手を送っているウッドと、その妹セレアルの五名。


 万人の心を揺るがす聖女の言葉を前にしては、随分と少人数だった。


「生憎、これでもガーライストの出でな。そんな与太話は聞きなれている。むしろ聞かねばならんのは――」


 はぁ、と大仰なため息でも零れそうなほどの、カリアの退屈そうな声。そうしてゆっくりと紡がれるその言葉の終わりを、


「――ルーギスよね。まぁ、いいでしょう。後で……私が、伝えておくから」


 フィアラートが食い取った。


 煌く銀色の瞳と、揺らめく黒の瞳が一瞬、重ね合わさる。互いに、何故、此処にいるのだと、そう問いたげな視線ですらあった。時間にすれば僅かな間であったにも関わらず、視線の応酬が空気を存分に重くする。


 何処かそういう雰囲気が苦手なウッドからすれば、肺に入り込む空気が重い土の塊にでも変じてしまった気分だった。


「え、えぇ゛ー……ルーギス様、英雄殿は、まだ?」


 アンの唇が、空気に耐え切れなくなったかのように開かれ、無理やり言葉を宙に放り投げる。その努力を空回りさせまいと、ウッドが言葉を拾った。


「兄貴ぁ、まだ二階で寝込んじまってらぁ。もうちょい、かかんじゃねぇかぁ。何せぇ忙しかったからなぁ」


 なるべく周囲の空気を刺激させないように心づかったであろう、優しい言葉。セレアルの手が、ぎゅぅとウッドの手を握りこんだ。


 しかしその言葉も、棘を剥き出しにした花々を抑え込むことは流石に難しかったらしい。


「あれを寝込んでるとそういうのなら、ただ昼寝をしているだけの水鳥だって寝込んでいるようなものね」


 纏めた黒髪が揺れ動き、フィアラートの舌が空気を貫く。


「何、今の内に思い悩ませてやるというのも、度量というものだ。いずれ何が、いや誰が正しかったのかが分かってくる」


 再び、二人の視線がぶつかり合って絡み合う。


 今度はとうとう空気がその温度をも失ってしまったかのよう。寒風に凍えるように、酒場の床板が鳴った。


「――この場にいない者の事を語ることほど、意味のない事はありません。アン、本題を」


 まるでその場のいやな風を切り裂くような、マティアの言葉。


 カリアも、フィアラートもその言葉に思わず鼻白んだが、そのまま唇を開くような事はしなかった。


 二人とも、本来からして聡明さをその頭脳に宿している。先ほどまでのやり取りが、余りに建設的でない事は承知の上だ。


 それを承知の上でも、感情を剥き出しにせねばならないほどに、苛立ちの針が胸を突き刺していただけで。


 マティアに促され、喉を鳴らすと、アンがゆっくりと全員の前で口を開く。その声はマティアとは性質が違うが、こちらも聞き取りやすい。無駄な響きをもたない声だった。


「一先ず、事の流れを。我々は聖女マティアと皆様の信仰、そしてルーギス様のご活躍により、無事ガルーアマリアをこの手へと奪い返しました」


 奪い返したと、アンは言った。その眼が酒場の窓より外を見つめる。攻め落とされて尚美しさを減じさせない、紋章教徒達の聖域。此処へ足を踏み入れることを、自らの信仰の拠り所とする事を、どれほど望んだことだろうか。


「ですが、問題は此処から。正直な所、今の我らの勢力では守り切るにせよ、更に攻め落とし勢力を拡大させるにせよ、余りに手が足りません――故に、外にその力を頼みたいのです。同盟という形で」


 なるほど、同盟。しかし、一体何処と。


 カリアとフィアラートの瞳が、純粋な疑問としてそれを訴えていた。


 確かに、心情的には紋章教徒寄りといえる君主や、勢力が周囲に全くないとは言えないだろう。


 だが、それはあくまで心情でしかない。


 今回の反乱でいえば、紋章教徒が得たものは未だただ一つの都市。それがガルーアマリアであろうと、その事実自体は変わらない。


 むしろこれより先討伐の名の下に、諸侯軍の敵となり得る紋章教徒達と、好んで同盟を組みたいという勢力は中々出てこないだろう。


 加えて、この周辺は大聖堂を有するガーライスト王国の存在もあってどうしても大聖教の影響力が強い。


「勿論、諸勢力にも同盟や、助力を示唆する文書はすでに送っています。ただ、正直な所、彼らに期待をするのは酷でしょう。ですので……一つ。随分古い話ではありますが、かつて紋章教が同盟を組んだ実績のある勢力に近づきたいと考えています」


 アンの指が一本、立ち上がる。その喉が、僅かに唾を呑んだのが分かった。

 その勢力というのは、と、銀の瞳を丸めたカリアが、尋ねる。その細まった目は、どうにも訝しげな色を含んでいた。


「その勢力は、森と山に潜む民……エルフ。どうか皆さまには、彼らの王国、ガザリアの空中庭園へと足を運んでいただきたいのです」

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