第六十三話『願わくば』
空間だけでなく音すらも切り裂いてしまいそうな、ヘルトの一撃。白刃が夜の中、豪速を伴って俺の臓腑を断ち切らんと振るわれる。
その一撃に呼応するかの如く、右腕のナイフを最短の直線距離、最速の突きをもって首筋へ。
天才は、一突きで殺さなくてはならない。二振りの呼吸を許せば、間違いなく俺は敗北する。この一突きで、奴の首を掻き切り絶命させる。銀色が、僅かに揺れ動く。
同時、左手に構えたナイフをヘルトの白刃に沿わせるように、その軌道に置いた。防げるとは思えない。しかし、逸らすか、いなすか。最悪その軌道を修正できれば、それで良い。その間、俺が奴を殺す。
それはまさしく、一つの呼吸の間。吐息をつけば、この攻防は終わると予感していた。打ったはずの一手は間に合うのか、間に合わないのか。首筋を汗が撫でる。
——ガィンッ——キンッ
瞬間の攻防の間に、確かに聞こえた。二つの音が入り混じった奇妙な混成音。
一つは、鉄がその強度を超え、自らの絶命を告げる音色。左手に構えたナイフが、白刃の軌道を変えることはもちろん、逸らすことすら叶わずへし折られた事を理解した。
危惧は、していた。一連の攻防を経て、ナイフの刃は散々に痛めつけられている。何時その天寿を全うしてもおかしくないと理解していた。だが、此処でか。
いや、違う。ヘルトの全力と相まみえれば、例え初撃であったとしても、ナイフはへし折れていた。今まではあくまで小手調べでしかなかったという事。
その音に合わせて、もう一つ。こちらはより単純だ。ナイフと合わせ最後まで尽力をつぎ込んだ左手首が、白の閃光に跳ね飛ばされ、へし折れた。感覚は、もう無い。その代わり、胸中に、熱く焦がれるものを感じていた。
予感がした。直感的で、理屈も何もない、予感。
此の侭では、俺の手より伸びる刃は、ヘルトの首皮一枚抉る事はない。その前に、俺自身の胴体が両断され、燃え滾る情動のまま絶命する。
不味い。少しでも軌道がずれなければ、死ぬ。届け、間に合え。必死で切り取ったはずの時よ、間に合ってくれ。届け。届け。届け。
その狭間、ヘルトの黄金の瞳が、獰猛な獣のように輝いた。
*
薄くなった夜の中、カリアは恍惚とした表情で両者の攻防を見守っていた。
その手には銀の長剣。本来、ルーギスが危機となる間際には、振るわれる予定であったはずのもの。
だが、もうそれも必要ない。いや、カリアにとって、振るうべきものではなくなっていた。銀の大きな瞳が揺れ動く。白い頬は眼前の光景に朱色すら帯びていた。
ルーギスの銀色の刃、ヘルト・スタンレーの白刃。両雄の武器がまるで旋律を描くかのように互いに夜を切り裂く。決してルーギスの状態は良しと言えない。むしろ、あっ、と声を出す間にその首を刈り取られてしまいそうな気配すらある。
だが、それでも、カリアは胸の奥底からこみあげてくる喜びに近しい感情を押し殺すことが出来なかった。常に整っていたはずの表情は崩れ、今この時ばかりは感情のあるがままに委ねている。
あの男が、ルーギスが紋章教徒の側に立ち、刃を振るっている。意志を胸に、その蛮勇を振るっている。それはまさしく、己の指先に導かれて。
ああ、これ以上に歓喜する事があるだろうか。カリアの踵が痺れたように動く。ルーギスは、己の思うままに、いわば己の為に戦っているのだ。あのフィアラートとかいう魔術師も、きっとこの戦いを何処かで見ている。だが、この戦いばかりは貴様のためではない、この私のために。
カリアの心臓の動悸が止まらない。事は上手く運んだ、運びすぎた。流石にヘルト・スタンレーとの決闘まで至るのは、少々不味い。最悪の場合はヘルトの首を後ろから掻き切ることも、考えた。
だが、もうそれも必要ない。カリアの長剣に、振るわれる兆しは浮かんでいなかった。あの男が、ルーギスが懸命に、命の限りを尽くして剣舞を演じている。
ああ、こうしてヘルトと並んでしまうと、その剣先は未だ未熟さがある。足取りも小器用さはあっても強者のものとは言いかねる。その身を覆っているのは凡庸そのもの。あの天才と相対して、とても生き残れるとは思えない。それでも、そうだとしても。その姿を見て、その覚悟を感じて、それを踏みにじることなど、どうして出来ようか。出来ることはその姿に、心からの敬意を示すことだけ。
ルーギスとヘルト、両者が、最後の攻防に移ったのが、見える。ルーギスの左腕がへし折られ、その右手のナイフは到底ヘルトの首筋に届くようには思えない。
カリアは、その胸中に全ての決断を預けていた。此処でルーギスが絶命するならば、その時は己も運命を共にしなければならない。それが彼を此の戦場に連れてきた、私の義務。ルーギスに対する、最大の敬意と誠意。
——しかし、ああ。願わくば——
その、最中。カリアは瞳を細めた。一時として、瞳を逸らしたくない攻防であるにも関わらず。陽光が、瞳を遮ろうとしていた。
戦場が、朝を、迎えようとしていた。
*
背に、陽光の暖かさを感じる。その光を、その煌きを、待ちわびていた。間に合った。
太陽が夜の帳を切り裂き、ようやく重い腰をあげてその威光を示す。その陽光を背にして、俺は立っていた。
黄金の瞳が、陽光を前に眩む。目が反射的にほそまったのが、見えた。胴を薙ぐはずの白刃の勢いが、止まる。脇腹を斬りつけながらも、臓腑には至っていない。
右手よ、ナイフの銀色よ。届いてくれ。此処この場を除き、この英雄の首をとれる日は来ない。この一突きで殺さねば、必ずこいつは復活を果たす。此処だ、此処で、殺し切らねばならない。
間合いは完全に肉薄を果たし、ナイフはヘルトの首筋へ吸い込まれるような軌道を、描いた。
——肉を、抉る音と感触が、手の中に生まれた。ああ、畜生。
それは、嘘のような光景だった。俺のナイフは、紛れもない一瞬、最短の距離に至ったはず。
それを、奴は、ヘルト・スタンレーは。無理やりに身体を駆動させ、上半身を捩り刃の先を首から肩へと変えていた。肩に突き刺さったナイフが、奴の血を浴びながら輝いている。
これだ、この信じられない反応の速度。肺から張り詰めた息が漏れ出るのを感じる。これが俺と、奴の。凡才と天才の、違いなのか。避けられるはずがないと、確信した。その首に突き立てられると、運命は告げていた。だと、いうのに。
肩を捩り、ヘルトがナイフを弾き飛ばす。そのまま、大上段に剣を構えた。こちらは、もう打てる手など、ない。
後、一手だ。後、一つが足りなかった。凡庸たる俺と、天才たるヘルトの差を埋める、何かが。胸が、身体の中が熱い。死の間際だというのに、臓腑は未だ沸き立っていた。
「暫しの別れを、ルーギス——我が好敵手」
ヘルトがそう言葉を零しながら、もはや後退すらままならぬ俺の頭蓋へと、白刃を振り下ろす。陽光が、刃を煌かせていた。
——ああ、願わくば。この手に。もう一振り。そう、もう一振りの剣さえ、あれば。
*
フィアラートの悲哀に満ちた嗚咽が、風に混ざり宙を舞った。
繰り返される命を懸けた攻防。その刃の一振り一振りに、フィアラートの胸は切り裂かれる思いだった。また、だ。また彼は、無理をする。ルーギスが渾身を尽くして尚、届かぬものへと手を伸ばそうとして。諦めれば良い。逃げれば良い。それで自身は構わない。それで平凡に、手の届く幸福を追い求める日々もあるはずだ。だというのに、何故。
それが出来ないことは、フィアラート自身がよくわかっていた。天才たちに届かぬと諦め、下を向いて暮らす日々。歯を食いしばり、それでも尚目を伏せねばならぬ日々。
それをルーギスは、承服できない。フィアラートは、それを地下神殿での一幕で、痛いほどに思い知っていた。私と同じ凡人であるのにも関わらず、命を落とす危険を果たしてさえ、手を伸ばそうとするその姿。ああ、その姿は理想。私の理想。
だからこそ、そんな彼だからこそ、フィアラート・ラ・ボルゴグラードは彼を黄金にするとそう決めた。だというのに、今この時、ルーギスは此の手から零れ落ちようとしている。
嫌だ。認めたくない。そんな事は、断じて認めたくない。私には、そんな潔さは持ち合わされていない。
だからといって、此処で武器を片手にルーギスを助けることもできない。魔術で、支援をする事もできない。今この場でフィアラートに出来ることは、何も無かった。
だから、瞳に涙を潤ませながら、フィアラートは詞を紡いだ。
それは、魔術ではない。この街に敵対する魔術を、今この時点でフィアラートは行使できない。だから、それはただの言葉。祈りの言葉でしかない。何の意味もないかもしれない。だが、何かの意味があると信じて。
紛れもない。この身こそが、彼に剣を埋め込み。彼を鋳造した張本人なのだから。
——願わくば、この手に幸福を
剣を振り下ろさんとするヘルトを前に、フィアラートの詞が、僅かに空間を揺らした。