第六十話『鉛の岐路』
闇夜に浮かぶ二つ目の白い閃光を見上げ、思わず唇を噛む。予想外だ。何たる事だ。あの聖女様め。
どうすべきだ。俺は、どの選択肢をこの手でつかみ取るべきか、その検討が全くつかない。脳内の思考はぐるぐると同じ道を行き帰りし、どうにも答えにたどり着きそうにはなかった。
二つ目の閃光。あの聖女マティアが掲げたそれは、更なる進軍の意図を示すもの。つまり、都市内部への進行を行うと、そういうこと。
本来あり得ない何かがあったのだ。進まざるを得ない何かが。それを、内外に告げている。
あの女も馬鹿ではない。当然に、理解しているはずだ。現時点で進軍することの危険性を。むしろ時間は自分たちの味方であり、時を重ねればそれがそのままガルーアマリアを押しつぶしてくれることを、理解しているはずだ。
それを踏まえて尚、前に進むという。
そっと、顎元に指を這わせた。焦燥と困惑が熱を持って走り回る脳内を、冷ますように深く呼吸をする。
知らぬ内、壁に向き合っていた貧民窟の住人達も、空を見上げあの閃光の先を見据えていた。むしろ、瞳を奪われぬという方がおかしいだろう。
白い光が、勢いよく夜の闇を切り裂いたかと思うと、そのまま飲み込まれるようにすっと消え去っていった。
「ルーギスの兄ぃ、ただごとじゃねぇ。何だ、ありゃあ」
ウッドの呟くような声。全く答えないというわけにもいかない。
どこまで、話すべきだろうか。どこまで、意図を伝えるべきだろうか。焦りが舌をもつれさせそうになる。言葉を口の中に含ませながら、ゆっくりと舌で音を押し出した。
「紋章教徒の進軍を、伝える合図だ。奴ら、ガルーアマリアを前にして辛抱ならなくなったらしい。何、別に身構えるこたぁない。流石に聖女様も、貧民窟の住人を戦力に換算しちゃいないはずだ」
今でこそ、複数名がその闘争心を掻き立ててこそいるが、本来武器も何も持たぬ貧民窟の住人達。彼らがその身をもって戦場に躍り出るのは余りに不安要素が多すぎることだろう。
同列の戦場に立ったからといって、士気が同列とは限らない。不安と狂気は伝播するもの。一人が逃げれば、もう一人も逃げる。二人が逃げれば、次にはもう二人が逃げる。常に戦場に潜む悪魔は、人の心臓を鷲掴みにする機会をつけ狙っている。
ゆえに、此処で彼らが何等かの決断や決意を決める必要はない。決断を下すべきは、ただ一人。俺だけだ。
顎元に手を添えて、眉を顰める。
聖女が進軍を決定したということは、今夜の勝負で全てとはいかなくとも、今後の趨勢が定まる、決定的な何かが起こる可能性が高い。それは、衛兵団の崩壊かもしれぬし、聖女の死という形かもしれない。
であれば、俺ももはや闇夜の中で蝙蝠の如く羽音を立てずうろついている場合ではなかろう。今此処で、選択をしなければならない。功をあげるため、この手に栄誉をつかむため。そう、計画がこの手から零れ落ちたといっても、その目的は果たさねばならない。
「……ウッド。今から俺は奴らの大騒ぎに参加してくる。なぁに、少しばかり参加が遅れただけで、最初からその予定だ。遅刻した分参加費は多めに払わんとな」
瞳を細め、言葉を濁しながら、そう語る。真実であることには、違いはない。
戦場に足を踏み入れ剣を交わすというのであれば、そう、すべてを此処で決定する必要がある。
つまりは、紋章教徒と衛兵団どちらに与するかということだ。
本来は、互いに拮抗させた状況で両者を疲弊させ、紋章教徒の首魁を掻き切る。それが想定された道だった。
しかし、その状況はもう望むべくもない。不可能だ。取れなくなってしまった手を取り戻せるのは、精々が神か悪魔のどちらかといった所。今は現状をもってしてより良い方に与するべきだ。
————ああ、成程。当然の如く、衛兵団の手をとるべきだ。
すぅっと、冷静な頭はその選択肢が正しいと、そう告げた。
かつての歴史においては、確かに紋章教徒はガルーアマリアを陥落させた。
ゆえにこのまま据え置いても、すぐに完敗を喫するとも思えない。ヘルト・スタンレーの存在があっても、なお。
だが、間違いなく敗北する。この状況で突撃を図ったのであれば、まず間違いなく紋章教徒は敗走、下手をすれば聖女の命も危うい。
この考えが正しいかどうかなどというのは、勿論わからない。だが、俺が知るヘルトという英雄は、紛れもなくそれを成しえてしまう。
正直今のまま衛兵団に与するには、どうにも彼らとの関係が宜しくない現状ではある。副隊長格のトカゲの顎も割った。そこは、伝手を持つカリアの手を借りるしかない。それかもしくは、単独で聖女の心臓を握りつぶしても、それはそれで構わない。
たとえ貧民窟に居を置こうとも、ギルドに置いた籍と市民権はまだ生きている。
ガルーアマリアに脅威を与えた紋章教徒、その首魁たる聖女の首を取ったとなれば、たとえ多少衛兵団との軋轢があろうと、相応の名誉が得られるとそう踏んでいる。少々、甘い見通しであることは承知の上だが。
一呼吸、噛み煙草の匂いを鼻に通す。体の奥底を、怖気が走るような何かが這いまわったような感触が、あった。なぜか、今すぐに戦場を駆け込もうという気になれない。足が、何かを求めるようにその場に杭を刺していた。それは、自分の想定が外れたからだろうか。
ああそう思うと、余計な事をしてくれたものだ、あの聖女様は。どうにも、俺の想定通りに事が運ばない。
いや、だがそれは当然といえば当然だ。歴史とは常に、強者の、天才の手のひらで弄ばれるもの。俺のような凡人が策を四方八方巡らせたところで、予想を外れてくるのは当然だ。重要であるのは、その先。予想を超えた先で、どの手を取るか。
数度噛みこんだだけの煙草を懐にしまい込み、細く息を吐く。
何にしろ、このままただ状況を見据えるだけでは、紋章教徒撃退の功がすべて衛兵団、ないしヘルトの手中に収まりかねない。それだけは、駄目だ。それだけはまるで承服できない。
それに紋章教徒の軍勢を壊滅させてしまえば、懸念していたこの町で彼らに襲われるといったこともなくなる。問題は、フィアラートの回収方法だけということだろう。
だから、当然だ。これが正しい。この方法以外に取るべき選択肢なぞない。なぁ、当たり前じゃないか。他に何かあるとでもいうのか。
————何故だ。なぜ俺は自分自身をも、己の舌で煙に巻こうとしているのだ。
ウッドが、暫しの間黙り込んだ俺に、不思議そうに瞳を向けているのが見える。
しかしそう思うと、貧民窟での一働きはある意味無駄骨となった事になる。仕方がない。今はもうかけた労力を惜しむ時間ではなく、これ以上の損を負わぬよう、不必要なものを切り捨てるべき時だ。
そうだ、そのはずだろう。彼らを、切り捨てるべきだ。貧民窟の住人も、いざとなればそう、フィアラートだって。
奥歯がかみ合わず、口内に歪な音を、立てた。
————思い出せ。俺は、何のために、この時代へと舞い戻ったのだ。何の、為に。
瞬きの間、そう、本当に一秒もないほどの時間。心臓を冷たいものが覆った。胸の中で、心臓がその機能を果たしているとは到底思えない。ぐるぐると自ら躍動し、血流を乱しているかのよう。瞳が、細まる。
確かに、ヘルトに功を与えない為、その功績を少しでも削ぐために、衛兵団へと与し聖女の首を取る。ああ、ない選択肢ではない。まさしく正義の使者だ。ギルドでの仕事は増え、順調に信用をこの腕に抱えられるだろう。
それで、その後彼らはどうなる。瞳が知らず開き、眼前の民衆を映し出していた。
明日にでも生きているかわからない、貧民窟の住人達。ウッドに、その妹セレアル。
彼らを切り捨て、踏みつけにするのであれば、話は簡単だ。それにそう、彼らが直接戦場に出て、死ぬわけではない。
ただ、今までと変わらないだけ。変わらぬ暮らしを、続けるだけのこと。下を向き、踏みつけにされ、嘲弄されるだけの日々が、戻ってくるだけのこと。
それに、俺の最大の目的は、アリュエノ一人だったはずだ。彼女を、誰よりも愛おしいと思える彼女の手を取るために、ありとあらゆる手段が肯定される。そうでは、ないのか。
「ルーギス……さん」
いつの間にか、こめかみを汗が舐めていた。聞き覚えのないその声は、ウッドの妹であるセレアルのもの。声を失っていたはずの彼女の、か細いけれど確かに存在するその声に、耳を傾ける。
「今から、都市に……いく、なら……間に合わな、い。良い方法……が、あります」
その小さな瞳に、俺の姿が、明瞭に映し出されていた。
この、全身を気味の悪い虫が這いまわるような感覚を、なんというのだろう。冷たい何かが背筋を撫でまわす感触を、どう言い表すべきだろう。
「都市の下水を……流す水路が……一人くらいなら、小舟で」
セレアルの言葉を補助するように、ウッド、そして長老が、言葉を付け加える。
彼らの言葉を聞くうち、ゆっくりと、胸の奥底にたまり込んだ泥を掬い取るような吐息が、漏れた。
ああ、なるほどと、すべての得心がいっていた。もはや胸中に迷いはない。いや全くないといえば虚言になってしまいそうだが。大方、定まった。
そうだ、俺が、何の為に戻ってきたのか。何のためにあの屈辱の時を踏み越え、この時代へと舞い戻ったのか。
それは————