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第五話『才の瞬きと逃亡者』

「――了承した。そうだ、私はカリア・バードニックだ。ならば当然に、魔獣を打倒してみせよう。そこでみていろ、貴様」


 カリア・バードニックにとって、その名前は必ずしも誇らしいものではなかった。


 貴族の世界にとって、バードニックとは汚名に近しい。


 先の大戦で上級貴族でありながら、唯一その戦列に間に合わなかった家、バードニック。当主不在の混乱に押し流されるまま、戦争責任の大部分を押し付けられバードニックは貴族階級から騎士階級へとその身を落とす。


 騎士階級にも、当然名家は存在する。騎士階級と貴族階級との婚姻も珍しいものではない。ゆえに騎士階級自体が汚名というわけではない。だが、上級貴族から騎士階級への没落なぞ歴史上類を見るものではなかった。


 没落者バードニック。負け犬バードニック。その家名は嘲弄とともに語られた。カリア・バードニックにもその風評は当然に纏わりつき、侮蔑される者の感情を幼い日からよく知っている。


 家に縛られ、風評に縛られ、力に縛られ、何一つ自由になりはしない。それは騎士団に入ってからも同じだ。この鎖を断ち切れない自分が口惜しい。力ない己が恨めしい。


 ゆえに、彼女は力を得るとそう決めた。そう在るべきであると思ったのだから、そう在らなくてはならないと断言した。肉体を支配するのはいつだって己の精神であらねばならない。決して、周囲の鎖が決定するものではない。克服すべきだ。現状を口惜しいと思うのであれば、克服せねば何も変化はしない。


 二房に分けた銀色の、絹のようにきめやかな髪の毛を揺らし、再び少女は魔獣の眼前に立つ。その巨躯を自在に操り、一度は剣を跳ね飛ばされ敗北した魔性。手足の先から、悍ましい寒気が昇ってくるのを、カリア・バードニックは感じた。


「――だが不様は晒せまい」


 克己するようにそう呟く。その言葉にはどこか、嬉色すら混じっている。そんな事にカリアは気づきもしないが。


 魔獣の一瞬の隙を突き斬獲するなどというのは、至難の業。本来大型魔獣などというのは、複数の人間と罠、魔術によって打破するもの。真っ向から剣を交えるというのはもはや騎士物語の世界にしか存在しないものだ。


 だが、と未だ全身から煙を噴き上げさせる魔獣に向け、カリア・バードニックは駆けた。


 凡人ならばそれで良い、普遍であるならそれで構わない。だが私はカリア・バードニックなのだ。そう奴は言ったじゃないか。それこそが、根拠なのだと。誰だか知りもしない。そういえば、名前すら聞いてはいなかった。何処からか突如やってきた闖入者。見かけは貧相で、その恰好も立派とはお世辞にも言えない。


 しかし、奴はあの魔獣に一撃を与えた。奇襲とはいえ、魔獣に傷をつけて見せた。


 それは私が、できなかったこと。その奴が言った。私に、できないはずがないのだと。


 ――地面を這うような低さで魔獣の間合いへと入り込む。そこはもはや魔の世界。常軌を逸する、正気ではいられない場所。白色の影が二突き、猶予も無しに首横を薙ぐ。


 本来突進しか能がない猪型の魔獣に比べ、この大型魔獣はいやになるほどの器用さを見せる。二振りの牙を己の手足のように動かし、的確に空間を削り取っていく。こちらを抉り貫かんとする明確な殺意を込めて。


 それは人が持つ殺意とは明確に違うもの。魔獣が持つ凶意と言い換えても構わない。残忍であるとか、凶悪であるとかそのようなものではなく、もはや凶意は存在それだけで、脆弱な人間を死に至らしめるような濃密さを誇っていた。


 牙を掻い潜り、時に長剣を持って滑らせながら、時を稼ぐ。この魔獣に突進という隙を作らせるなら、ただ間合いを取るだけでは駄目だ。それはこちらが堪え切れず逃げだしたと、そう思わせなければならない。カリアは舞踏のような足さばきを持って、繰り返し目の前を掠める牙の応酬を捌き続ける。汗が周囲に飛び、その飛沫が白い顎に貫かれる。


 息はとうにあがっている。数瞬の間、無呼吸でカリアは牙を捌いている。相手は常に必殺の間合い。こちらは一撃を挟ませることもできぬ間合い。その圧倒的な両者の間合いの差が、カリアの体力をかすめ取っていく。


 一つ――二つ――三つ。カリアはリズムを取るようにして、剣で白の閃きをいなし続ける。リズムが狂えば即死。間隔が変化しても即死。しかし敵はそれをしない。何故ならこのままでも十分自分は死に得るからだと、カリアは理解している。体力を奪われれば、いずれ捌ききれなくなる。魔獣にしてみれば、それまで追い込み続ければ良い話。一撃一撃は必殺の凶意を込めながらも、その行動は獲物を追い詰める為の行為に過ぎない。


 舐め切った事だと、カリアは殆ど考える余裕もない頭に思考を過らせた。だがそれは当然。もはや自分は相手にとって敵ではない。ただ無駄な抵抗を続けるだけの獲物に過ぎない。今の、ところは。


 一つ――二つ――三つ。一つ――二つ――三つ。リズムを取れ。間隔を崩すな。此処で死んでは死んでも死にきれない。白い顎が再び空間を食らい、カリアの銀髪を刎ねる。


「一つ――二つ――三つッ!」


 後方へと一足に、跳ぶ。止まるな。もう一つ後ろに跳び、長剣を腰に構える。肩の動きは呼吸に任せたまま。


 魔獣にとって、それはただの逃避行動。獲物が耐え切れなくなり、とうとう自ら死への道筋を選び取っただけのこと。


 今まではそうだった。これからも、そうに違いない。


 その魔獣は絶対の自信を持ち、両前脚を地面にめり込ませる必殺の構えから、顎を突き上げて、前方へと突進した。


 閃光が、走る。銀色の一閃が、魔獣の顎下をなぞり、首中までにすっと一筋の線を入れた。それは瞬き。まさしく一瞬の光景。誰が動き、何が起こったのか、未だ世界は理解していない。


 だが、数瞬。その場は赤に塗れた。大型魔獣はその首元から夥しい血しぶきをあげ、呪いの叫びをあげることすらできず、絶命する。魔獣には理解ができない。本来絶対的優位を持ち、確殺の一撃を放ったはずの己が地に伏し、そして命を奪われる。


 そして瀕死に過ぎなかった獲物が、その長剣に血を染みつかせて、勝者としてその場に立っている。何もかもを理解できないまま、魔獣は命を落とした。


 魔獣が倒れ伏す轟音の後に響いたのは、カリア・バードニックの声にもならない笑い声。己の中にあふれ出す感情を表現する方法が、それしか彼女には分からなかった。笑いながら、その瞳からは涙も溢れている。


 今、間違いなく己の武技は天上のそれに届きかけた。全てをこの両手が理解した。それがどうしようもなく嬉しくて。だが、その感触は少しずつ失われていく。抵抗なく肉を切り裂けた感触も、至上とも思える一撃の手ごたえも。それが余りにも悔しく、悲しくて、カリア・バードニックは笑いながら、涙を流していた。


 ひとしきり感情を吐露しを終えた後、ようやく落ち着いたカリアは、少し自慢げに、そして嬉しそうに後ろを振り向いた。


 今のを見たかと。そうだ、私はカリア・バードニックだ。貴様の言った通り、成し遂げたと。貴様がその初めての目撃者なのだ、光栄に思うが良いと。


 複雑な心境ではあった。最初にみすぼらしいと思った男に対し、真っすぐな好意を持ち合わす純粋さがカリアにはない。しかしこの時に、間違いなく彼への興味と、そして幾ばくかの敬意が、彼女にはあった。


 そうだ、名前も聞いていないじゃないか。名前を聞き、何処に所属しているのか、拠点はどこなのか。何故、ああも魔獣への知識を持っていたのか。そして、どうして自分の名前を知っているのか。興味は、尽きない。


 言い表せぬ思いを、笑みに込めてカリアが後ろを振り向いた時。


 ――そこには誰もいなかった。ただ、魔獣の死骸が転がるのみ。


 カリア・バードニックの頬が、溢れ出す感情を抑えきれず、歪に震えた。

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