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第五十七話『黄金と謀略』

 その夜は酷く静かだった。


 衛兵団の私室にて、ヘルト・スタンレーは窓を通して都市の光を黄金の瞳に映している。


 その光は賑やかで、活発だがどこか騒々しい。ガルーアマリアの、彼の故郷の繁栄を示すもの。子供の頃より、この光を見てヘルトは育った。


 その光が、最近どこかくすんで見えるのは気のせいだろうか。肌が、ひりつく。どうにも眠ろうという気にはならない。異様なほどに瞳は冴えている。


 この所、このような気分は続いていた。しかしそれに反するように、都市は平和そのもの。日常が続き、皆都市でのゆったりとした空気を謳歌している。


 その空気を共に謳歌するはずだった学院の同窓、フィアラート、彼女は彼の所に身を寄せたらしい。


 ヘルトの指が、僅かに顎を撫でる。貧民窟での邂逅、そうして彼、ルーギスを救い上げたことからもそれは伺い知れる。


 それは、何故。


 ヘルトにはその理由が分からない。貧民窟は罪人と、国捨て人の集積所。その場所に、フィアラートがわざわざ身を寄せる理由は、恐らくルーギスの存在に他ならない。だとしても、それはあまりに不可解だ。


 幾ら道理を説いても、彼女は都市に戻ろうとはしなかった。最後まで、ルーギスを庇いたてた。都市に敵対するような事に魔術を使わぬと、誓いの詞を交してすら。全ての真実と正義は、彼女を動かすことはできなかった。


 正義に、反発する行動。しかし、それは己も似たようなものかと、ヘルトは自己嫌悪と僅かな笑みが混ざったような表情を浮かべた。


 ガーライスト王国にて勃発した紋章教徒の反乱。胸が湧き立つようにざわつく。地下神殿にて向かい合った武装した紋章教徒達。彼女たちが、この騒動に何らかの関与をしていることは、間違いないだろう。


 もし、もしもと、ヘルトは思う。もしも、あの時、叔父が学院に出向いた時に全てを話していたならば、今回の事態は防げたのではないか。そんな意味もない想像がヘルトの脳裏を覆った。


 であるならば、それは己の正義に反したがゆえの罰。信義を乱したが故、神が与えた苦役。それが真実であれば、ヘルトは全ての責任を取らねばならないと、そう受け入れている。


 不可解といえば、貧民窟の出来事にしてもそうだ。


 副隊長と部下達は、何もなかったと、あの出来事は全てなかった事なのだとの報告をした。刺青をいれた少女も、決闘のような出来事も、何もなかったと。


 その報告に、全身を行き渡る血が濁流となる思いだった。あり得ない。副隊長の専横も、己の身勝手な私闘も。全ては規律を逸脱した行為だ。であるならば、それらは全て報告されるべきなのだと、ヘルトはそう理解する。事実、その報告を団長へと提出した。


 結果は、すぐに告げられた。貧民窟においては、何もなかった、そう判断すると。


 愕然とした気持ちがヘルトの全身を覆った。正気の沙汰とは思えなかった。事実、この瞳で見た事実が、無かった事とされている。衛兵団の中では、それが真実となった。


 胸中に一つの懐疑を芽吹かせつつ、ヘルトは瞳を細めた。眼前に映るガルーアマリアの光が、相変わらずくすんでいる。


 ――おや、隊長殿でも思い悩むという、人間らしいことがあるのだな。


 そんな言葉が、いつの間にか部屋へと入り込んでいた。


 自然とヘルトの言葉が、扉の側へと向けられる。警戒がそれほど及ばなかったのは、その声が誰であるかが即座に理解されたから。


 カリア・バードニック。二つの房に分かれた銀髪と、髪と同色の大きな瞳。端正な顔つきと剣技は、今では衛兵団の隊員たちを惹きつけてやまない。あの副隊長ですら、敬い扱っているほどだ。


「すまないな。幾らノックをしても返答がないのでは、いい加減扉の奴が気の毒になった」


 *


 トカゲと、そう揶揄される副隊長はその特徴的な瞳をぎょろつかせ、隊員を睥睨しながら衛兵団本拠の廊下を闊歩する。地面と足が擦れるたび、僅かな振動が顎に痛みを走らせた。


 あの日から、まるで頭蓋に太い釘を打ちこまれたかのよう。不眠不休で働こうと、深く夜の中に寝静まろうと、その頭に張り付いた感情は拭い取れない。


 それは即ち、歯を噛み砕かんほどの屈辱と周囲を全てを巻き込むほどの憤怒。


 トカゲの目つきが強まり、眉間に強い皺が寄る。あの下郎がつけたこの傷が痛む度、胸は抉られた思いがする。貧民窟に住まう劣等の者が、泥を啜り地を這って生きるドブネズミが、この己に傷をつける。


 信じられぬ愚行。思いもよらぬ反逆行為。余りにも、不敬。溢れかえるどろどろとした感情が、トカゲの全身を悶えさせる。


 あの、年若い隊長も気に入らない。トカゲにとって、年下のものが家格だけで上の職位に就くだけでも気に入らない。気に入らないが、受けいれられはする。


 しかしあの時、かの下郎の命を剥ぎ取る事を、ヘルトが押しとどめたのは臓腑が煮えくり返る思いであった。貧民窟の人間には品位も誇りもない。卑怯も、正道もあったものか。その命よりこの身の名誉が大事であると何故分からぬのか。トカゲには、若き隊長殿の思うことがまるでわからなかった。


 貧民窟の住民は、人間ではない。


 権利もなく、命に価値はなく、言葉に重みはない。ただのドブネズミでしかない。この認識は、トカゲが特異というわけではない。大なり小なり、ガルーアマリアの住民のだれもが、心の奥底に潜ませている認識。ゆえにトカゲには、ヘルトの行動に対してまるで理解が及ばない。


 顎を、再び割れるような痛みが襲う。


 ああ、彼女の姿が見たい。トカゲの瞳が、僅かに揺れる。カリア・バードニック。衛兵団皆の憧れであり、その凛々しさと美しさは、詩に詠われる戦女神のよう。揺れる銀髪に、心を動かされたことは少なくない。


 彼、トカゲにおいてもそれは変わりなかった。あの姿を見るだけで、顎の痛みが引いていく思い。そうして、傷をつけた下郎への憎悪も同時に高まっていく。


 そうだとも、あの男は、己に恥をかかせたのだ。あの戦女神の前で、情けない言い逃れをさせるようなことをさせ、弱さを見せつけてしまった。


 衛兵団の人間が、貧民窟の人間に傷つけられたなどと、あってはならない。ゆえにあの騒動は、何も、無かった。そう部下に言い含め、分からず屋の隊長殿はともかく、団長は首を縦に振った。


 しかし、応報はせねばならない。全てを贖わせる為、下郎の命を取らねばならない。


 トカゲの特徴的なその瞳に黒い火花が弾け、両手が震える。ぎゅぅと、強くその手が握られた。顎に再び、痛みが走る。


「すまないな。幾らノックをしても返答がないのでは、いい加減扉の奴が気の毒になった」


 決意を胸に潜ませ廊下を進む折、その耳に、トカゲが戦女神の如しと崇拝するカリアの声が、響いた。


 *


「いえ、構いませんよ。これでも悩むことは多いのです、至らぬ事は山とありまして」


 苦笑を浮かべながらヘルトはカリアに応える。彼女の立ち姿は、何時もと変わらない。如何にも堂々と、自信に満ち溢れた姿。


「そうでもあるまい。貴様ほど才に満ち溢れた人間が何かに思い悩むというのは、それ相応の事態があったということだ……紋章教徒共のことか?」


 それは、半分は間違いではない。


 カリアも、地下神殿での紋章教徒達を見ている。ならば、己と同様の懸念を抱えていてもなんらおかしくはないはずだ。ガーライスト王国での反乱が、こちらにまで飛び火し、大火を招くのではないかと。


 だが、半分は間違ってもいる。ヘルトは軽く頷き、カリアの言葉に同意を示しつつ、口を開く。


「間違いではありません、彼らは明確な脅威でしょう。その対応に思い悩まされるところは多い。ですが……より根本的な所に、一つ」


 その言葉は、予想の外だったのだろうか、軽く目を丸くして聞き返すカリアの姿。一瞬ヘルトの脳内で、悩みの正体言ってしまって良いものか戸惑われる。唇が、揺れた。


 そんな己の姿に、ヘルトは胸中で思わず辟易する。悩むなど、眉をひねらせるなど、本当に自分らしくない。この感情は、一体なんだというのだろう。正義と、そして善意。それらに依り行動を行えば良い。それこそが真実であり、大聖教にとっても正しくあるはずだ。


 今まで、その白の中で生きてきた。その白こそが正しく、そこから外れるものは全て悪だと理解していた。そこに、濁りが生まれた切っ掛けは、何であろうか。


 自問するまでもない。ヘルトの瞼に、緑衣の冒険者の姿が浮かぶ。


 彼は一体なんであるのか、正義であるのか、悪であるのか。味方であるのか、敵であるのか。どうにもヘルトには、割り切れない。理解しきれない。己の人生には、今まで生まれていない存在だった。


 これは興味だ。関心に他ならない。しかし、どうして興味などという個人的な理由で己は動いているのか。それがまた、不思議でならなかった。


「貴女の仲間であった、ルーギスと名乗る冒険者がいたでしょう。あの何処か、不思議な雰囲気のある」


 ぴくりと、カリアの銀色の大きな瞳が、より見開かれた気がした。ヘルトは、軽く足を鳴らす。


「ボクは彼が、正直な所よくわからない。悪辣に振る舞っておきながらも、フィアラートを助け、自ら罪を被ってまで貧民窟の住人を救おうとする。正義とも、悪とも分かりかねる。貴女は、彼をどういう人間だと思いますか」


 その言葉に、カリアは軽く肩を竦める。何を聞いているのだとばかりに、彼女は指先を空中に揺蕩わせた。


「蛮勇を振るう者で、冒険主義者かつ愚者だ。それは変わらん。だが、興味が湧いたのなら直接見に行ってみるが良い」


 黄金の瞳が、瞬く。カリアは顔に綺麗な線を描いたような笑みを浮かべ、ゆっくりとその唇を、開いた。


 ――何もかもが奴の思惑通りに進むなど、全くもって面白くないことだろう?



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