第五十六話『福音戦争』
城壁都市ガルーアマリアの大門の上部。
時は夜、もはやその大きな口は固く閉じ、朝の鐘がなるまでは誰に対しても開かれはしない。堅牢にして不陥、誰にも、無理やりこじ開けられるようなことはない。今までもそうだった。恐らく、明日もそうだろう。これからも、ずっと。誰もが、そう思っている。
衛兵団の見張りも気はそぞろ。早く交代の時間とならないものか、こんな退屈な仕事はない。何せ魚が泳がぬ生簀の中、魚をつけ狙う悪党が盗みに来れば報告しろといわれているようなもの。
もはや形骸化したこの仕事。見張りなどと、何の意味もないではないか。ただ時間と体力の無駄遣い。空を見つめて星を見つめる日々が続く。
見張りの胸の中に、いらつきと夜の街に繰り出せぬ鬱憤が段となって積み上がる。今日は、貧民窟の方がどうにも騒がしい。どうせまた、下らぬことで騒いでいるのだろう。どうせ、何もできないというのに。そうだ、この鬱憤は、明日あちらの方で晴らしてやろう。見張りは、僅かに頬をいやらしくつり上げた。
*
時を同じくして、ガルーアマリア大門付近に、暗闇に溶けるように同居する一団があった。
長い髪の毛を揺り動かした一人の少女が、吐息を漏らすように声を転がす。
「――あちらは、万事上手くいったようですね。なるほど勇者は見込み通り優秀でした」
貧民窟から轟く音声を耳朶に受け止め、銀の小手と膝当てをつけた聖女マティアは小さく顎を頷かせる。
正直にいえば、大した期待はなかった。上手くいけば儲けものとほんの少しの望みに金貨を賭けただけ。上手くいけば勿論良い。下手を打ったのなら、貧民窟もろとも、火葬場の骨となってもらえばいい話。何にしろ、悪くない結果になったのならば構わない。
「ええ、当たり前よ。ルーギスが失敗をするのなら、それはもはや世界の前提が間違えているということだもの」
傍らで黒髪の娘が、詩でも紡ぐようにそう言った。
僅かに目を細め、ラルグド=アンに視線を宛てる。何故かあの男、ルーギスよりアンと供にこちらへ送られてきた娘、フィアラート。
あの無駄によく舌と頭の回る男のことだ。殊勝にも人質を送るという柄ではあるまいと、マティアは僅かに唇の端を噛む。
アンをこちらに送り返すようには伝えたが、よもやおまけまでついてくるのは流石に想定の外だった。
マティアという少女は、物事が自分の思惑から外れることを酷く嫌う。忌み嫌っているといっても過言ではない。
それは、自分の計算が正しいと確信しているから。己の中に累積した知識智謀をどこまでも信望している。その結果として、理想にたどり着けないのは諦めよう。だが、最初から己の計算が狂うのは受け入れがたい。
「ご安心ください、聖女マティア。彼女は我らの邪魔をするようなことはありません。特に、英雄殿……ええと、ルーギス様に逆らうようなことはなさらないでしょう」
マティアの懸念を見てとったのだろう、アンが、宥めるようにそう呟いた。その言葉には、自分がフィアラートを連れてきてしまった事による後ろめたさも含まれていた。
相変わらず気の使い方を心得ているものだと一瞬その眉をあげ、マティアは問題はないと伝えるように、アンを手で制す。それに、アンに対しては紛れもない信用を置いている。彼女がその判断をもって連れてきて問題がないとそう判断したのであれば、それは間違いがないはずだ。
それに、その言葉の意味も理解できる。
見るがいい、あのフィアラートと名乗った娘の瞳に映る煌めきを。ルーギスという名前を呟く度に弾ませる胸の高鳴りを。先ほどの言葉とて、まるで恋の詩を発するよう。
しかしむしろ、それこそが不安の根源なのではないかとマティアはその怜悧な頭脳を揺らめかせる。フィアラートの感情が何処にまで至っているのかまでは察することはできない。しかし慕う感情というのは、時に信仰となり、盲目へと繋がる。
マティアは信仰による盲目、それの利便性と危険性、その両面をよくよく理解していた。ゆえに、フィアラートを全く手放しに受け入れることをしかねる。
何せ、自分自身、その信仰を抱きながらも、それを利用しているといっても過言ではないのだから。
マティアの眼前には、信仰の戦士達が彼女の言葉を今か今かと待ちかねている。でありながらも、落ち着いた様子を見せているのは多くの戦場と修羅場を渡ってきた経験故だろう。
今はもう、些事に拘わっている暇はない。
淡い唇を濡らし、まるで祝詞を告げるように、だが反面彼らに呪いを振りかけるように、マティアは舌で言葉を練る。
「――かつて、我らの神は無知なる我らに告げられた。我はただ全てを運ぶ者。人よ智恵をつけよ。自ら苦悩し、自らの意をもって決めよ。それこそが神意であると」
暗闇に染み渡り、光を放つような声だった。厳かであり、耳に静かに響くその音色。
整然と並び槍を構えた紋章騎士団の瞳が、思考が、その言葉に絡めとられていく。
「我らが主は運ぶもの。我らすべての運命の担い手。耳があれば聞き、瞳が開くのであればよく見なさい。その加護は我らの手に、そうして、決定は我らの意志に――」
朗々と告げられるその言葉の羅列。しかし、何処か歌を紡ぐような美しさがあった。何処か、心を湧き立たせるような、何処か、甘美で胸の奥を高揚させるような含みがある。
手を無理やりに胸へと差し込み、掬い上げるのではない。胸底より自ら感情の奔流が泡を吹かせてくる、そんな様子が目に浮かぶ。
フィアラートもその黒い瞳を瞬かせ、ある意味興味深そうにその言葉に聞き入っていた。なるほどこれが聖女たるものの言葉なのかと。人を惹きつけ、人に持ち上げられるカリスマとはこういうものかと。
思えば、ヘルト・スタンレーにも似たような部分があった。人が自らその手を差し出さずにはいられない。膝をつかざるを得ないと思わせるような、何か。これこそを、人はカリスマ、求心力と、そう呼ぶのだろう。
ああ、だが。フィアラートはその心地よい音色を堪能しながらも、頬を崩す。やはり、自身にとっては、アレが良い。あの音色が一番なのだ。かつて自分を呼んだ声が。
マティアの声が、一つずつその位をあげるように、大きさを増していく。
「――だが、見るがいいあの背徳の都市を! 彼らは、大聖教は我らの信仰と聖地を踏みにじり、あまつさえその盲信をもって、全てを神に委ねんとしている。主は言われた、大海に船を漕ぎ出すその時に、神に頼るような無様はやめよ、全ては我らの意をもって決せよと、そう仰られた!」
聖女と、そう呼ばれた少女の瞳が、信仰に揺らめく。
大聖教の教義は、人間の持つ全て、それらを神へと委譲すること。主に全ての管理を、生まれながらに悪である人間は意志を持たず、ただ神に頭を垂れるのみ。それこそが真の幸福であり、全ての人間が至福を得る方法なのだと、彼らは語る。
受け入れられない。そんな思考は、マティアには到底受けいられなかった。己の知識を、思考こそを最上と考える彼女には、到底受け入れがたい思想。言葉は熱を帯びながら、暗闇を駆けていく。
その言葉は、紋章教徒だけではない。その言葉に己の意志を重ね合わせ、マティア自身をも陶酔の中に沈みこませるように。思想を信仰に、信仰を狂信に、狂信を暴威に。精神を編み上げ、世界を塗り替えていく。
アンは聖女の言葉を前に、胸の前で指を重ね合わせる。己の信仰を確かめるため、これから行われる争いが、己の手にあると認識するため。
「錨をあげよッ! 船は漕ぎ出された! これから行われるは聖戦ではない。我らの意志を持って、我らの行いにより、この手を邪教の血に染め上げよ! それこそが神意である!」
――――ッ!
聖女の声に応じ、そして追随するように、声の塊が確かな圧力をもって暗闇に発される。
もはやその瞳には愛しのマリアの姿しか映らない。それの膝を屈させ、頭を踏みつけにするまでは解かれぬ呪いがかかっている。瞳の暗い煌めきがそれを物語っていた。
それを受け、マティアの槍が、天へと掲げられる。それは、天に祈りを捧げるように、しかして天に反逆をするように。真っ直ぐにさし示される。
槍の穂先より閃光が、迸る。
それは、都市内に潜む同士への狼煙であり、決起の証であり、そうして、歴史の転換点。
暗闇の中、空を駆ける一筋の光が告げていた。紋章教徒による一連の反乱が、福音戦争と、そう呼ばれる切っ掛け。即ち、城壁都市ガルーアマリア攻防戦、その開始を。