第五十四話『三つの選択肢』
「思考誘導の魔術? 使えないわ、そんなの。文献で見たことも、人の口から聞いたこともないもの」
腕を強張らせ、ばつが悪そうに唇を小さくするフィアラート。
その言葉を聞いて、さぁ、っと顔が青く染まっていくのが分かった。
次に掛けるべき言葉が、上手く喉を通ろうとしない。思考が、僅かに鈍重になっているのがわかる。
もしも、彼女の言葉が本当だとすれば、貧民窟の住人を懐柔する計画は、その端から、いや根本から崩れ落ちていくことになる。
「……あ゛ぁー……名前は違うかもしれんが。ともかく優雅な花の香りで人の意識をうっすらと奪う、そんな魔術だ。欠片でも良い、頭の片隅に入ってないかね」
かつての旅の折、その幻想的な光景を見た覚えがあった。
その細い指先より花びらを舞わせ、風を揺蕩わせ、混乱の渦にあった人々を落ち着かせる、そんな魔術を。かつての旅ではその魔術をもって、ガーライスト王国にて勃発しかけた暴動をも食い止めた実績があった。
その魔術があれば、如何な無気力と諦観にその身体を抱き留められた人々であっても、少なからず意思を取り戻せるのではないかと、そう想定していたのだが。
まさか、この時分のフィアラートがその魔術を使えない所か、よもや認知すらしていないとは、完全に想定の外だった。
「無いわね。というより、甘く見すぎよ。人の思考に作用できる魔術なんてそう簡単に手が届くものじゃないし、それに、その……」
黒い瞳が、露骨に逃げるように逸らされる。
細い指がくるくると回され、唇が言葉を探すように開いたり、閉じたりを繰り返していた。まるで、言い難い何事かをどうやって形にしたものかと、考えるように。
暫くの時間、瞳がうろついていたかと思うと、ぽつりと、ようやく喉からその言葉が零れ落ちた。
「ええと……今、私、魔術が使えないのよ……少なくとも、ガルーアマリアに敵対するような事には……」
酷く気まずそうに部屋に滑り落ちたその言葉。ちらりと、様子をうかがう様にフィアラートの瞳がこちらを見つめる。
一瞬、僅かな間ではあるが、凍ったように室内が静まり返る。瞬きも出来ず、眼球は固定されたようにフィアラートを捉えたまま動かない。
「ふぇっ」というラルグド=アンの声が、僅かに場を暖めた。
「あぁ゛ー……なるほど、いや、そうだよなぁ。不思議ではあったんだ。都合よく神様が手を差し伸べたでもないだろうに、どうやって、あの惨状から俺を救い上げたのかってな」
つまり、ヘルト・スタンレーとの間に取引があったのだろうと、言外に告げる。
それを肯定するように、相変わらず気まずそうに目線をうろつかせたまま、フィアラートがこくりと軽く顎を引いた。都度、こちらの様子を伺うように、視線が向けられる。
仕方がない。此ればかりは仕方のない事だ。フィアラート単独で、俺をあの場から救い出すというのは余りに話が上手すぎる。何等かの代償を差し出してしかるべきだ。むしろ、あの場で拘束されて身動きが取れなくなる、というような事がなかった分、十分旨味のあった取引だと考えるべきだろう。
ヘルトの意図はある程度しか汲み取れないが、奴の正義がどう判断を下したのかは、少し興味が湧く。あのトカゲの乱行を考えるに、恐らくであるが、身内の行動が奴に何等かの譲歩の余地を生み出したのだろう。
でなければ、俺が平然と貧民窟で悪巧みをしていられる理由がない。
「別に、何が悪いわけでもねぇさ。なら次の策に指を伸ばせばいい」
そう、出来る限りフィアラートを責め立てぬよう、言葉に棘を持たせぬように気遣い、そう言った。
その萎れかかっていた黒い瞳の輝きも、少しは戻ったように見える。あの場での最善を尽くした彼女を責め立てるのは、流石に酷というものだ。
だがその言葉の柔らかさに反して、俺の胸中は慌てふためいている。紛れもない焦燥が胸の中からあふれ出さんばかりに、次々と生み落とされていた。
不味い。非常に不味い。こう言ってしまってはなんだが、貧民窟の住人の説得に関しては、完全にフィアラートの魔術を宛てにしていた。
例え、件の花の魔術が使えずとも、その魔術の煌きを通して人々の心を焚き付ける事くらいは可能ではないかと、そう踏んでいたのだ。
フィアラートの視線を受け止めつつ、ちらりとアンに目を向ける。
その僅かにひくついた表情が、言外に物語っている。もしかして他に案が、ないんですかと、そう問うている。
「……二つ、案はある」
アンの表情に応えるように、二本、指を立てた。
名案とは、とても言えぬものだが。むしろ、案と言えるすら怪しい。
その後ろ暗さとでもいうのだろうか、自信の無さを隠す為、思わず手で口を覆う。アンと、フィアラートが唇を閉じきったまま、俺に視線を向けた。
*
「一つは、懐柔する事を諦める。短期的に見ればの話になるが、要は貧民窟が機能さえしなければ良いと、そう考える」
懐から取り出した噛み煙草を指に挟み、歯で軽く弄る。期待を込めたかのような二つの視線が、まるでそのまま身体を刺すようにすら感じた。
アンは、恐らくこの方策に感づいている。そうして、最悪の手段としてすでに検討しているはずだ。長期的に見れば損失が大きい故に、選択をしないだけで。
椅子にもたれかかったまま、脇腹を庇いつつ、言う。
「つまりは貧民窟を最初の標的にしてやれば良い。碌な防衛意識も防災の念もない場所だ。よく燃えるぜ。そしてよく死ぬだろう。貧民窟全体が火葬場に姿を変える」
怜悧さを隠さないアンの目が細まり、逆にフィアラートは言葉に動揺したように目を剥く。
当然だろう。俺だって、取りたい選択肢とは良い難い。だが、今更綺麗ごとを並べ立てられるほど清らかな身でもない。むしろ、相当に魂は汚れている。
大体、自らの栄達の為に戦場を利用しようとしている時点で、大聖教の唱える魂の清らかさだとか、正しき在り方、なんてものとは随分とかけ離れていると承知していた。
もし本当に死後の世界があるというのなら、間違いなく天使は俺を迎え入れてはくれないだろう。だが、神様が惨めに踏み躙られながらも清らかに生きろと、そういうのなら。そう言ってのけるというのなら、そんなのは御免だ。むしろこちらからその手を振り払い、唾を吐きかけてやりたいくらいでな。
「余り取りたい手段ではないですね、英雄殿。結果としてガルーアマリアの陥落を果たせても、遺産として残されるのが機能不全を残したままの都市では困ります」
最終的な手段としては別ですがと、アンはその顎を頷かせる。反対に、フィアラートは睫毛を瞬かせながら、唇を尖らせた。
眉間に寄った皺を見れば、恐らくこの意見には反対なのだろうということが、よく理解できる。
「そんな事をしないでも、言葉で彼らの心を変えてしまえばいいんじゃないの? 名将は、どんな惰弱な兵でも言葉一つで強兵に変貌させるわ。特に、貴方は口が上手いんだし」
フィアラートの声色は、何処か動揺している事を隠そうとするような色を滲ませていた。意見は否定したくない、だが、その手段を取りたいとは思わないと、そう言外に告げている。
「まぁ……二つ目の手段はそれだが。しかしねぇ、望み薄だぜ、奴らの気持ちはよぉく分かる。昔の俺みたいなもんだ、ありゃあ。諦観を友とした心には、もう何かを掴む力なんてないのさ」
いっそ、それならフィアラートが語った方がまだマシというものだ。
異国の少女、しかも美しい彼女の語る言葉であれば、耳を傾ける連中がいるかもしれない。もしくは、アンでも良い。彼女の対人での能力を思えば、少なからず響くものがあってもおかしくはない。
だが、俺は駄目だ。
「フィアラート。お前は、やはり何処か思い違いをしてる節がある。言葉には、人を動かす力があるとでも思ってるんじゃあないだろうな」
軽く、吐息を吐きつつ、言う。噛み煙草の風味が、肺にまで行き渡る感覚があった。
「いいか、言葉に力なんてものはない。大事なのは、何を言ったかじゃない、誰が言ったかなんだ」
名将は、言葉一つで弱兵を強兵に変貌させる。しかし、それはその言葉が重いのではない。彼が放った言葉だからこそ、重みを増すのだ。
同じ言葉を、凡将が吐けばどうだろうか。例え全く同じ言葉、同じ声の調子であったとしても、兵の受け止め方はまるで違う。
そう、言葉に力なんてない。言葉は人を変えられず、ただそれだけで何かを成すことなんて出来ない。俺は、それがよくよく身に染みている。
正しいはずの言葉が、間違いないはずの理屈が、泥を掛けられる事なんていうのは何度もあった。
何度、汚名をかぶせられただろう。何度、濡れ衣をこの身に羽織っただろう。
正しいはずの俺の言葉を、誰一人聞いてくれやしなかった。見たままの事を言っても、誰もその耳に入れようとしなかった。
誰もかれも、身なりがマシな方の言い分をよく聞く。ああ、そう、今となっては当たり前の話だ。正論なんてものは、何の力も持たないのだから。
目を細め、微かに顔を俯かせる。脇腹から這い上がってくる痛覚が、妙に鈍い。
「じゃあ、尚更、貴方しかいないじゃない」
部屋の中の空気が重く感じられていたその時、フィアラートの声が、ぽつりと部屋の中に放り投げられた。
ゆっくりと顔をあげる。彼女の瞳は何かを企んでいる様子もなく、ただ、純粋に疑問を呈しているだけのよう。
その小さな唇が、再度開いた。
「私はね、ルーギス。貴方の言葉を聞いて此処にいるの。どうにも、自分でも馬鹿だと思うわよ。本当に。でも仕方がないじゃない。それが良いと、心の奥底に響かされたんだもの」
その頬が、僅かに色を添えて、揺れる。
一体、何の冗談だろうか、これは。俺は、何だ。今褒められているのか。あの、フィアラート・ラ・ボルゴグラードに。俺の言葉どころか、存在の一切を認めようとしなかった、彼女に。
一歩、彼女が床板を鳴らして近づいた。思わず上げていた視線が、黒い瞳に吸い付けられる。
「その貴方が今更、自分には力が無いから、出来ないなんて言わせない。ええ、言わせないわ。貴方は鉛のままじゃ終わらせない。例え世界の理を捻じ曲げてでも、黄金にしてみせると私が決めたもの」
ぐいと瞳を近づけるフィアラート。彼女との距離が、驚くほどに縮まる。黒い瞳の中、映り込む自分の姿がよく見えた。互いの吐息が、交わりそうなほどの。そんな、距離。
そこで、アンには聞こえないような、俺にしか聞こえない程度の声で、フィアラートは囁いた。
――ああ、でも、貴方が逃げ出してしまいたいのなら、いいわよ。その時は、二人分の道を用意するわね。
三つ目の選択肢を掲げるように、彼女はそう言った。
それは、脈動する心臓を指で直接からめとる様な、甘い声。精神の支柱を撫でまわし、抗う心を丸ごと搾り取ってしまうような、そんな音色。
その小さな手が、傷口に触れる。それは、魔術の類ではない。恐らく、彼女は俺への干渉も封じられている。
だが、不思議と脇腹から痛みは漏れ出ない。何処か、暖かい感触だけがあった。