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第五十三話『情動は雨季の如く』

 その早馬がガルーアマリアの大門を駆け抜けたのは、ラルグド=アンの報告書より数日遅れてであった。


 当初こそ都市内の混乱を防ぐ為という名目の為緘口令が敷かれたが、言葉を檻の中に監禁するなど不可能なもの。その事実は尾ひれと背びれをつけ加えて、都市全体へと這い広がっていく。


 ――曰く、紋章教徒の反乱により領主が磔にされた。曰く、すでに幾名もの領主の首がガーライスト王国の城門に晒されている。


 事実は歪曲され、平和に慣れ親しんだガルーアマリアの市民たちを大いに恐れさせ、大いに熱狂させた。


 しかしそれは何処までも、対岸の火事。


 これほどまでに面白い見世物はない。何処まで脅威が広がろうと、此の聖域に火が及ぶことはそうあるまい。


 何故なら此処は城壁都市ガルーアマリア。歴史上、一度たりとも失陥の汚点を持たぬ聖なる都市。


 *


 その日、カリアが随分と上機嫌だという事は、衛兵団本拠において一つの話の種となっていた。


 ガーライスト王国騎士の身でありながら、今は衛兵団にて客人身分としての待遇を与えられている彼女。その容姿は研ぎ澄まされた剣を思わせる端正さ。その剣技は女の細腕から繰り出されるとは思えないほどの鋭さを持っている。


 まるで、誰もが憧れる騎士そのもの。


 客人身分と、そう呼ばれながらも衛兵団の中、特に平隊員達の中では彼女の機嫌の良しあしで、その日の話題が出来てしまう。それは人望や、恋慕というよりも、一つの羨望。


 カリアが衛兵団を拠点として以来、彼女の事は大なり小なり、団員たちの噂話となる。それは今日も変わらない。


「ご機嫌……よろしいようで、カリア、様」


 その男の発した言葉に、様付けはいらんと、カリアは窓際から振り返るようにして言った。客人として彼女に宛がわれた私室、その窓から見える風景は、やけに広い。


 噂の通り、カリアの機嫌はどうやら悪くないらしい。言葉は柔らかいものではないものの、何処か頬は緩んでおり、瞳は何時もの鋭さが和らいでいる。


 事実、カリアは胸に埋まった心臓をそのまま弾ませんほどに浮かれていた。瞳の煌きはまるで幼い子供のよう。少なからずその喜びの色が態度に出てしまったからといっても、不思議ではない。


「私は客人でしかない。尊ばれる必要も、畏まられる意味もないだろうに」


 それでも尚、喜びを押し殺したような、平静を保った声でカリアは告げる。


「そうは、いきます、まい。少なくとも……私のような男には、致しかね、ます」


 軽く肩を竦め、窓を背にカリアは銀髪を揺らす。


 この男は、どうやらそういった性質らしい。権威主義者というわけもでないだろうが。格式に則った礼儀作法や、慣習を人一倍重く受け止めようとする。此の男の影響かは分からないが、衛兵団の大多数がカリアを様付けで呼ぶようになってしまった。


 小さな息を吐き出しつつ、まるで爬虫類のようにぎょろついた瞳をしたその男に、続けて言葉を投げ渡す。今度は幾分か、怪訝そうな声色を伴って。


「しかしその顎はどうした、副隊長。よもや、朝起きていたら妖精の悪戯でそうなった、というわけでもないだろう、ええ?」


 その男の風体は、何処までも奇妙と言って良かった。その特徴的なトカゲのような瞳。それだけでも目立つというのに、今はその割れた顎を支えるように口元にスカーフを括りつけ、言葉を発する時は手で顎を支えて話している。


 そうしない事には、上手く言葉が形を成さないのだとか。


 カリアの言葉を契機に、一瞬、室内の空気が淀んだ。


 男より悪臭を隠そうともしない醜悪な感情が、零れ出る。言葉にしたわけでも、態度に出したわけでもない。ただ、感情を確かに空気へと滲ませた。あくまで、僅かな一瞬だけであるが。それだけで鼻を隠したくなるほどの、悪臭を孕んだ感情。


 カリアの長い睫毛が瞬き、男の靴が微かに鳴る。


「……気にされる、ような、ことではありません」


 これだ。思わずカリアは胸中で深い吐息を漏らす。


 明らかに気にすることだろう、それは。よもや衛兵団の副隊長の一人が、見回り中に顎を割られて帰ってきたなど、前代未聞という他ない。


 だが、同行していたはずの隊長、ヘルト・スタンレーも、その部下たちも全て黙して語らない。まるで、何もなかったとでも言うようだ。実際、衛兵団の中では何もなかったと、そういう事になっている。


 その為か、顎を割られてまだそれほど時間も経っていないだろうに、この副隊長も早々に出張ってきてしまっている。


 流石に本来の任務は困難と思われたのか、カリアの護衛として、そして恐らくは監視としての役割を宛がわれてはいるが。


 男の頑なに物事を話そうとしない様子に辟易し、思わずカリアの唇が閉じる。すると、殆ど間を置かずに男がその手で顎を支えつつ、言葉を噛むように紡いだ。


「カリア様は……何か良き事が、天より与えられた、のでしょう、か」


 なるほど、どうやら話題を早々に戻そうという事らしい。自分の事を話したくないのは相変わらずのようだとカリアは両眉をあげる。


 ただ、カリアとて、その言葉が嫌だったわけではない。己の胸中を擽り、恍惚とした感情を思い出させてくれる。


「ああ。勿論、私とて天気の良しあしで機嫌が変わるほどの小娘ではない。昨日、父上から手紙が来ただろう。封蝋が成された、な。遠く離れた場所であればこそ、親しい者よりの手紙は嬉しいものだ」


 再び、踵を返してカリアは窓辺に立つ。


 それ以上に言う事はないと、無言の内に語らせるように。


 男も、それ以上追及する気はないようだった。むしろ、此処最近あまり機嫌が良くなかったカリアの心情に下手に足を踏み込み、上機嫌であるのを損ねることは避けたい様子ですらある。


 ――実の所、カリアの機嫌は昨日まで最悪の苛立ちを見せていた。


 特に、紋章教徒の反乱の報を聞いてからそれは顕著だった。周囲は皆、故国にての異端者たちの反乱がカリアの胸を痛めているのだと噂しあったが、それは違う。


 彼女の胸中を暴れまわり、掻きむしっていたのは、焦燥感。


 幕はすでに開き、役者はぞくぞくと壇上にあがっている。にも関わらず、自らはその端でただ立ちすくんでいるような感覚。一人、役割だけを与えられ、後は放っておかれている様な感覚が、カリアには気に食わなかった。


 ああ、思わずこんな役割は投げだし、舞台に駆け上がってやろうかと思う程に。


 そんな折、とうとう、その手に手紙が渡った。


 封蝋が成されたそれ。カリアの家、バードニックの家紋を真似たそれは実に不細工なものだったが、意図は一目でわかった。


 ――紛れもなく、ルーギスからの手紙であろう。


 実物としても、贋作としても、その不細工な封蝋の造形はあり得ない。だとすれば、こんなものを送りつけてくるのはこの世に一人だけだ。


 それを目にし、手に取った瞬間の喜びをカリアは言い表せない。身体中の血がその足を速め、エールを注ぎ込んだかのよう。


 心臓は期待と不安を飲み込んで、かつてない程に大きく躍動する。大型魔獣との戦いですら震えなかった指先が、僅かに振動を帯びていたのをカリアは覚えている。


 その内容自体は、単純なもの。


 現況と、今後の方針を伝える程度。封蝋をつけたとはいえ、検閲される事を恐れてであろう。婉曲な表現に隠された真実をゆっくりと、カリアは拾い集めた。


 衛兵団と紋章教徒の勢力を拮抗させる事で両者を疲弊させ、果てに紋章教徒達を瓦解させる段取りを練っていると、概ねそのような事が手紙の内には書いてあった。後は決行の時刻や、その手段を遠まわしに。

 結果として、紋章教徒達を瓦解させた栄誉をその手にいれると、そういうことだろう。


 手紙に含まれた意図を拾いきった時、思わずカリアはくすりと、喉を鳴らしたのを覚えている。何とも、奴らしいおおざっぱで、粗の多すぎる計画だと。


 だが、馬鹿にする気や、嘲笑する気分にはならなかった。その喉が鳴ったのは、むしろ微笑ましいものを見るような、そんな穏やかな感情が胸中を揺らしていたから。


 そうして手紙を胸元にしまい込んだ時、その穏やかとも言える表情は、笑みを浮かべたままに、余りに鋭利で冷たいものへとすり替わっていた。


 天使と悪魔が、時に表裏一体として描かれるように。緩やかで包み込みような笑みは、鋭利で刺し貫くような笑みへと一瞬にして変貌していた。

 

 ――馬鹿者め。お前が此処でどれ程の功を成そうと、名を挙げようと、世がそう変わるものか。


 カリアは、表情に笑みを張り付けたまま、臓腑全体が氷柱に貫かれている事を理解した。


 そう、この世界は、生まれが全てだ。騎士に生まれた者は騎士に、貴族に生まれた者は貴族に。庶民に生まれた者は庶民。そうして、貧者に生まれた者は、貧者へ。


 それは、変わらない。変わらないのだ。それを不変とする者達が、王や貴族となり国家を統治しているのだから。


 カリアはそれをよく理解している。むしろ上に立つ者であったからこそ、余計に。例えルーギスがどれほどの功をあげた所で、世界は決して認めようとしない。


 冒険者として功を挙げようと、一体どれほどのものが得られようか。貧乏貴族ほどの土地を得られることすらないだろう。


 ああ、なんと悍ましい。なんと、癪に障る。あの男は、ルーギスは、どれほどの苦悩と憧憬の末に栄光に手を伸ばそうと、決してその手に得られることはない。この世界に、奴を認めるほどの度量はない。


 ――ならば、もう。貴様はこの世界そのものを変革の渦に飲み込ませるしかないのだ、ルーギス。


 カリアは窓に映った己の顔が、恍惚とした、見る者を蕩けさせるような表情をしている事に、気づかなかった。


 此の世界は何処までも狭量で、貴様をとても認めようとはしない。今のままでは、貴様は栄光を手にする所か、指先で触れることすらできまい。


 だが、安心しろ。安心するが良い。心の奥底から。


 私が、栄光への道を舗装してやろう。私が貴様を、高みへと共に連れて行ってやろう。


 そう、あの黒髪の魔術師でもない、貴様の傍らにいない幼馴染を名乗る女でもない。この、私が。


 その表情は、美しく。その胸中は、何処までも冷徹に。カリアの銀色の瞳が、その意志を示すかのように、窓の中で煌いた。

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