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第五十一話『兄妹と災厄の運び手』

「フィアラートにはともかく、ウッド、俺に礼を言う必要はない。そういう契約だろうに」


 出来る限り、なんてことないような、そんな調子を声に絡めさせて言う。


 空元気も良い所だとはわかっているが、沈痛な表情を顔一杯に張り付けている相手には、これ位の気遣いはしてやりたい。その表情が、ウッドの性根のやさしさ故であれば、余計に。


「……」


 セレアルが無言のまま、ぐいと兄の裾を引っ張ったのが見えた。その表情も、何処か痛みを伴っている。


 そう、俺とフィアラートが何故この兄妹と、貧民窟での生活を伴にしているのか。それは別に、彼らが紋章教徒だからというわけでも、ラルグド=アンの知人だからというわけでもない。まして彼らが俺を慕ってくれているから、というわけでも当然ないわけだ。


 それは、俺と彼らが交わした契約の上に成り立っている関係。


 俺はラルグド=アンからの支援物資、及び彼ら兄妹の保護を条件として差し出し、彼らは俺に貧民窟での住居斡旋と周囲を説得する為の緩衝材となる、そういう契約だった。


 貧民窟の住人を相手に、こういった中長期的な契約を取り交わすのは非常に厄介極まりない。


 彼らは己に必要なものさえ手に入れば、その後の事などどうでも良いからだ。その性質は経験でよくよく知っている。だから、情報なんかのやり取りなら問題はないが、今回のように、紋章教徒との繋ぎ役、なんてのは人をどうしても選ぶ。


「つ、ってもよぉ。普通じゃねぇよ、ルーギスの兄ぃ。契約つっても、オレァよくわかんねぇがよぉ……どうして、自分の命張ってまで」


 その点、ウッドとセレアル、彼らは適任だった。


 彼らはある程度の人望を持ちつつ、明確に保護を必要としていたから。己の力だけで生きていくことが最大の掟である貧民窟では、実に珍しく。


 兄であるウッドは、勇敢な男だった。親を亡くし、頼れる者もない中、その巨体をもってセレアルを育て上げて来た。貧民窟という劣悪な土壌においても、ねじ曲がることのない性根を持った男だ。


 セレアルは、その兄を憧憬の念を持って見つめていた。普段の様子からそれが良く分かる。今でも、それは変わらない。


 本来、保護など必要がない。ないはずだった。


 ウッドが巨体ゆえに貧民窟の若者の間で中心的存在となり、それゆえに衛兵団に目をつけられ、妹を守ったまま半死半生の目に遭うまでは。


「良いんだよ。俺には俺のやり方ってものがある。それだけは誰かに横槍入れられるこたぁないはずだぜ」


 指が噛み煙草を思わず探しかけ、すんでのところで押しとどめる。危ない。流石に被虐主義者でもないのに何度も激痛に苛まされるのは御免だ。


 貧民窟の住人への暴行。


 それは、衛兵団においては日常の一つ。貧民窟においても、住人が衛兵に痛めつけられるなんてのは風景の延長にあるといっても過言じゃない。


 法的な問題を胸に留めすらせず、ただ己の憂さ晴らしの為だけに貧民窟の住人に難癖をつける。そういう輩も、当然に存在するのだから。


「……」


 セレアルが目を伏せ、その手にもった古い喇叭を撫でた。


 そう、全ては日常に違いない。だが、ウッドと、セレアルにとっては別だ。それから彼らの日常は激変した。衛兵団によりウッドはその勇敢さを、セレアルは声を奪われた。今ではウッドは争いごとに近づくことすら出来ず、セレアルに至ってはその手にもつ喇叭が彼女の声だ。


 何とも、理不尽な事に、何とも、平等な事に、それでも世界の日常を続ける。


 世界の中で、この兄妹に起こった出来事に気を留める奴なんてのはいやしない。彼らの日常が悪魔の気まぐれで奪い取られ、襤褸のように扱われても、日常茶飯事、平々凡々と世界は過ぎ去っていく。なんとも素晴らしい。


 大聖堂が説く魂の平等だとかいうものの下に此れがあるのだから、余計に腹が捩れそうになる。


「そうね、気にすることじゃないわよ。私たちは、こうして住居も斡旋してもらってるし」


 フィアラートが、助け船を出すように言う。


 ようやく月光の当たらない影から出て来たかと思えば、その瞳の下に隈。加えて、少し腫れている。どうやら、その様子を見せたくなかったらしい。女心、というものなのだろうか。流石に、見なかったことにしておいてやった方がよさそうだ。


 ウッドとセレアルに物事を説くように、フィアラートは言葉を継いだ。


「というより、ルーギスは放っておいても怪我をするもの。気に病むだけ損じゃない?」


 こいつ、人が横たわって動けないからと、好き放題言ってくれるな。


 頬を僅かにひくつかせながら、だがそれもウッドとセレアルの慰めになるならばと口は出さなかった。


 大体、どうして命を張ってまで、などと聞かれても、答えられるはずがないのだ。よもや、言えるはずがないだろう。


 かつての救世の旅の折、誰もが俺を除くパーティーメンバーにしか礼も、声援も送らぬ中、お前ら兄妹だけが俺にも敬意を払ってくれたことを、今になっても未練たらしく覚えているなんて、恰好がつかないにも程がある。しかもそれが、一つの救いであったなんて、言えたものか。


 やや、瞼が重くなってきた。やはり傷ついた身体は、休息を必要としているらしい。フィアラートの話が落ち着いた折を見て、口を開く。

 

「ま。だが暫くはこの状態なもんでな。セレアルの嬢ちゃんも、外出は控えてくれや。こんだけ働けば、安静にしておけと神様も言ってくれるだろうよ――」


「――いえ、実はそうでもありません」


 その声は、流石に申し訳なさそうだった。声の出どころは、開いたままになっていた扉側。そこには、一つの影があった。


 月明かりに照らされ、少しずつ影の輪郭が露わになってくる。その小さな体に大樽を背負い、何処か引け目を感じるような笑みを浮かべたラルグド=アンの姿が。


 嘘だろ、と、唇が声を発さないままに動いたのが、分かった。


 彼女が此処に来るのは、一つの意味しかない。つまり、


「聖女マティアよりの言伝がこざいます……満月の夜、つまり、今日に、一つ目の烽火が産声をあげる、と」


 災厄を、運んでくるということだ。

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