第四十八話『白昼の決闘』
思考は信じられないほど澄みきっていた。
あの男と、かつて遠く及ばぬと思っていた男が、目の前に立っているというのに。
肺の中を冷たい空気が埋め尽くし、一瞬の無音が、空間を覆う。
――ギィン
ナイフが空を裂いて鳴き声をあげる。その音が口火を切った。
右足を突き出し、肘に余裕を含ませたまま、左右のナイフを走らせる。狙う先は、首筋と、手首。
初撃の構想は決めていた。何度も頭の中で夢想した。この男と、ヘルト・スタンレーと戦う事があるなれば、必ず先手はこう取ると。
ただでさえ勝機は薄い。だというのに先手まで相手に譲っては、自ら首を断頭台に差し出すようなもの。間合いを測り、常に主導権を得て戦わねばならない。
――ガィン――キンッ――
勿論、それがこの男を相手にする上で、どれほど困難な事かは理解してた。敵はヘルト・スタンレー、英雄殿。
奇襲染みて狙ったはずの二筋が、白光に弾かれる。
各々タイミングをずらし放ったはずの一撃を、ヘルトは一つは真正面から、もう一つは手首を返し軽々と。その両手剣で、なんて小器用なことをやってのけるのか。
「……貴方たちは手出し無用。寄らば斬ります」
俺の凶行にサーベルを抜きかけた衛兵たちに、背中越しにヘルトは命じた。
騎士道精神とでもいうのだろうか、実にありがたいことだが、一人でどうとでもなるという余裕にも聞こえてしまうのは、俺の卑屈なる精神故だろう。
こちらは焦燥で胃が弾けそうだというのに、奴の声は冷淡そのもの。余裕綽綽とでも言うのだろうか、汗一つかいてはいない。
思わず漏れでそうになる荒い息を無理矢理に喉奥に押し込め、目を細める。
この決闘まがいの戦いは、以前カリアと事を構えた時の、酒場決闘とは全く性質が違う。あれはいわば遊戯の延長だが。これは紛れもない命のやり取りだ。多少の犠牲を負ってでも、奴の、ヘルトの首を取れば良い。
ヘルトの構えはその両刃剣を胸のあたりに据えたもの。こちらの攻撃を、否応なく打ち払ってしまう為の構え。しかしその構え自体に、殺気や敵意のようなものはない。如何にして、こちらを押さえつけるかとでも考えているのだろう。
ああ、腹立たしい。余りにも腹立たしい。だが彼我の戦力の差は歴然。先ほどの一撃で、ヘルトも俺の力量を察したことだろう。取るに足らぬと。
当然、当然の判断だ。ゆえに、俺がつけ入るのは一点しかない。一瞬で、息を肺に掻き入れる。
――キィィイン――ギンッ――
足元で起こした砂埃を目隠しに、膝を割る一撃。次には半身を回転させ、脇腹を抉らんと銀の半円を描く。それはいずれも、一つ届かない。
銀の光を跳ねさせる先には、常にそれを弾き返す白があった。空を裂く銀の一閃が描かれる度、耳を劈く音が周囲に響き渡る。
一撃毎に態勢を変え、上段、下段、中段。角度、タイミング、速度。ありとあらゆる手段を用い、ナイフに空間を切り取らせる。
呼吸はない。肺は空気を求め暴れ狂い、何度も身体を運ぶ脚は早々に根をあげはじめている。だが理解した。この頭は痛感している。この男の間合いで呼吸を漏らせば、その間にこちらの胴体が弾け飛ぶ。
ヘルトに殺意はない。敵意もまた存在しない。だが時折感じる、その黄金の視線。こちらの命を、首を、どうやって掻き切ってやろうかと、夢想でもしていそうな凶悪な視線が、時折見えた。その優し気な顔つきには、全く似合わない狂暴さが瞳に煌いている。
無理矢理に心臓が理解する。この男がその気になれば、胴体は一瞬で二つに分かれ、頭蓋は陥没し、手足は裂ける。そう、一つの呼吸の内に。
一つの息を得ることは命との交換。奴の思惑も、意図も知りはしない。今はただ、こちらの連撃をさも余裕ありといった様子で捌き切り、表情は汗一つかかぬ冷静なもの。
――やはり勝機は、一手しかない。
脳内が足りぬ呼吸に切迫しだし、視界が僅かに明滅する。
命と精神をすり減らしながら放たれたはずの銀光は、まるで用を成さないとでもいうように、ヘルトは手首と腰の駆動で打ち払っていく。
あちらからの、手だしは未だない。腹立たしい、しかし、有難い。助命されている、しかし、それでは勝機がない。
大地を深く蹴り、数歩分、背後に下がる。
此処にて一撃を加えられれば、恐らく絶命は免れ得ない。しかしそれを承知しているだろうに、ヘルトは、その足元を動かす仕草すら見せなかった。
「……お互いに、剣を降ろしましょう、ルーギスさん。こんなことに、意味はありません」
再び吐き出される、その言葉。それは、先ほどとは少し意味が、違う。
身体は発汗をもって熱を逃がすも、それに追いつかぬほどの灼熱が胸中を覆い尽くす。吐き出される息が火炎となって口内を焼け焦がしそうだった。
奴は、ヘルトはこう言ったのだ。貴方の技量では己に傷一つつけることはできない。続ける事に意味はないのだと、そう言ってのけたのだ。
言ってくれる。ああ、言ってくれるものだ。しかしその通り。未だ年若いというのに、その剣技の煌きには一切の陰りがない。
カリアの長剣には、未だ甘さが混ざっていた。フィアラートの魔術は、未だ研ぎ澄まされていなかった。
だというのに、奴の、ヘルト・スタンレーの剣技は怖気すら感じる。
年若きにしてもはや完成されたような気色悪さ。その背後に控えている衛兵たちも、目を見張っている。その中にトカゲの姿が見えないのは、よもやセレアルを探しにでも行ってしまったのか。心臓が、より一層鼓動を早める。
英雄とは運命に選ばれ、勇者とは神の寵愛を受けた者だとは聞くが。こいつの場合もはや、その存在そのものが神によって手がけられたのではと疑ってかかるほどだ。
「余裕綽綽だねぇ。確かに、俺の剣技じゃ辛いわなぁ、真正面からなんざ最悪だ」
額から落ちる汗を拭い、舌を回す。
感情を悪戯にのせぬよう、胸中に憤怒を押し込め、糧とする為。今はまだ、言葉の羅列に感情を上乗せする必要はない。
砂埃が舞い、僅かに瞼を瞬かせる。
「ルーギスさん。ボクは貴方が……そう、嫌いではない。むしろ、興味すら抱いている。単なる盗みを働くようには、とても思えない。此処で斬り捨てたいとは思えない。引いてください。そうすれば、ボクは貴方に危害を加えないと、神に誓いましょう」
頬が、震える。瞳が思わず丸く固まり、肌がひりついた。
ヘルトが、興味を、何故俺に。
胸中は複雑だった。その言葉が意味する所は、何か良からぬ凶事が俺の運命に絡みついてしまった事を指し示しているのではないかという懸念。
しかして、かつて宿敵と思いながらも噛みつくことすらできなかった相手が、己に興味を持っているという僅かな高揚。
情けない。なんと情けないんだ。俺は奴に、ヘルトに全く手が届いちゃいない。だというのに、まるで奴に近づけたような錯覚を抱いている。
それに、まだだ。まだ、勝負は終わってない。
「何いってんだよ。俺はまだこの身に傷一つ受けちゃいないんですぜ。俺に武器を捨てさせたいなら、その剣をもって事を成しな、ヘルト・スタンレー」
我が言葉ながら、余りに安っぽい言葉に辟易する。
だが、それでも奴は来るだろう。例えそれが誘いと分かっていても、踏み破る。ヘルトという男はそういう性質なのだ。そこだけは、よく信頼している。
黄金の髪を揺らし、瞳に煌きを宿して、ヘルトの膝が一瞬、動いた。
――音は、無かった。
まさに、一息。
見開かれた双眸が輝き、獲物を食い殺さんと威を示す。
砂埃は舞い自ら邪魔をせぬようにと、彼の道を開く。間合いは余りに呆気なく詰まり、その地面がまるで彼の為にその身を縮めたのではないかと思う程。
その一瞬の後に、俺はすでにその白い牙の間合いだった。
ヘルトは中段に構えた両刃剣に、腰の駆動をもって弧を描かせる。
丁度俺の左側肋骨を打ち据える剣筋。豪速を伴うそれを、ナイフでいなす事など出来ようはずがない。受け止めるなど、狂気の域。数瞬の先には幾本の骨をへし折られ、地に伏せる己の姿が見える。
それは勿論、予測に過ぎない。俺の瞳にはその剣筋が見えようはずがなかった。光が瞬き、白い何かが近づいてくるようにしか見えはしない。
強烈だ。実際に立ち会ってみるそれは、理解の範囲を超えている。驚愕の他はない。
――だが、予想の外ではない。
それは既知だ。そして勝機は此処にしかないと、理解していた。
その動きを視界に収める以前に、極端に手元を低く置き、銀を煌かせる。一度だ。一度きりしかない。
その黄金が差し迫ったであろう、瞬間。
最も視界が悪い下段より掻い潜るように、ナイフを宙空へと舞い上げる。守るもののない股座より、相手の下腹を食い破る為の一撃。その姿は見えない。
完全に、予測と、予想、そして今まで見て来た経験を元にした、一撃。下手をすればなんの意味もない空を刈るだけの一撃。しかし、これが今己になせる最善。
白光が姿も見せぬまま、己が左腹を食い破らんと迫る。手元よりは銀の一閃が、怨敵の臓腑を掻き切らんと天を目指す。
この耳朶がその末に聞いたものは、風の嘶き。
そして感じたものは――身体を切り裂くような痛みだった。