第四十七話『悪漢』
「ルーギスさん。こんな事に意味はないでしょう、お互いに、剣を降ろしませんか」
白刃を煌かせながら、ヘルト・スタンレーが宥めるように呟く。
そう言葉に出してはいるが、剣を構えた姿には一切の隙がない。奇襲をと思い気軽にその懐に飛び込めば、頭蓋は二つに割れているだろう。
胸中から溢れださんとする感情を声にのせぬよう、出来る限り軽い調子を演出するように、返した。
「ああ、俺もそう思うよ。だが、お互いに曲げられないなら、もうこれは仕方がない」
こういう時もあるのさと、そう呟き噛み煙草を吐き捨てた。
両手に鈍い銀光を放つナイフを構え、ヘルトとは相応の距離を取る。とてもではないが軽率に戦える相手ではない。むしろ、奇襲や罠なしに戦いたいと思っていなかった。
何せ相手は、未来の救世者、紛れもなき天才、太陽の如き威容を示す者、ヘルト・スタンレーなのだから。
貧民窟に、砂埃が舞う。薄暗いこの街中で、この大通りだけは妙に陽光が差した。
嫌だ。ああ、いやだとも。こいつと正面から戦うなんて、正気の沙汰じゃあない。
*
「それで、その少女はもう?」
とっくに逃げちまったよ、と。未だ人込みで溢れかえる雑踏を指で示す。
何だかんだと、悪運は強いやつだ。子供一人だが、慣れ親しんだ貧民窟を駆け回るくらいわけはあるまい。
周囲の人込みを見渡してもその小さな姿がない事に胸を撫でおろし、ヘルトと視線を合わせる。
「……ルーギスさん、どうしてそのような真似を?」
ヘルトのそれは、至極純粋な問いのように思われた。事実を図りかねているような表情。全てを善と正義で割り切る彼には、どうにも珍しい困惑したような表情だった。
「わからん事を聞くじゃねぇか。知人の妹が腕一本、斬り落とされそうだったんですぜ。そりゃあ、手を差し出さずにおれんでしょう」
ヘルトの後ろに並ぶ衛兵を、目を細めながら見据える。
事実かとヘルトが問うと、流石に言い逃れはきかぬと思ったのだろう。衛兵は「はい、隊長殿」と敬礼をして答えた。
当たり前の話だが、貧民窟の住人に対する横柄な態度とは酷い違いだ。俺が誰かにとられた事もないような、丁寧な態度だった。
彼、ヘルトが何時、衛兵団の隊長格となっていたかは知らない。
以前の旅の折、そんな話は聞いた事もなかった。しかし、スタンレー家というのが、このガルーアマリアでは名の知れた名士である事は聞いている。
であれば、衛兵団も市民の集まりとはいえ家格により差が出るのは当然。完全に平等な組織など聞いた事がない。家柄の後押しとその腕前が、ヘルトを短期間に隊長格へと任じたというのは、まぁ分かる話ではある。勿論、他に理由があるのかもしれないが。
二言三言、部下の衛兵と言葉を交わすと、ヘルトは口元を抑えて黙り込み、そうして唇を一瞬尖らせながら言った。
「良いでしょう。その少女の確保を命じます。ただし、その場での執行は許しません。何があろうと、です」
思わず、目を見開き耳を疑った。何かの聞き間違いだったんじゃあないかと、瞼を瞬かせる。
こいつは一体、何を言っているんだ。理解が及ばない。先ほどのトカゲとの会話より、ずっと理解が遠くなった、そんな気分だった。
ヘルトという人間は、悪識を持った人間ではない。トカゲのように、自分の功績の為だけにセレアルを確保しようとするはずもない。だというのに、何故。
「……ここは壁の外だぜ、ヘルト・スタンレー。どういう理屈で、衛兵団が貧民窟に入ってくるんですかね?」
困惑を胸の棚に据え置きながら、言葉を選びとるようにしてそう、話す。
ヘルトは両眉を上げ、ゆっくりと、その首を横に振った。まるでこちらの意図など、全て見透かしているとでも言うように。
「ボクは貴方が事実を知らなかったのだと、そう理解します。ルーギスさん……少女には、入れ墨があったと部下より報告を受けています。であれば、ただ見逃すわけにもいかない」
まるで言い含めるような、宥めるような言い回し。相手に、温情を与えるような。どうにも、気に食わない言葉だった。
確かに、セレアルの首筋には、入れ墨がある。過去に罪を犯した、その証。
しかしなるほど、そういう理屈か。思わず合点がいき、口端が揺れた。ああ、すっかり忘れていたよ。
ヘルトは全くもって俺と話の合わない頑固者であり、そして悪たる者を決して許容しないという事を。
つまりこいつは、こう言いたいわけだ。入れ墨つきは前科者の証。例え少女であろうとも、かつてガルーアマリアにて入れ墨を入れられたものなのであれば、今回の疑いとて、そう簡単に晴れるものではない。むしろ黒に近いと。
なるほど全うだ。素晴らしい。これ以上ないほどの正当な理由だ。
「入れ墨を掘られた者は、本来ガルーアマリアに近づくことすらも許されていません。これは周辺都市国家とも連携を結んでいる条項です。ルーギスさん、貴方の言い分は分かります。ですが、此処はボクに任せて頂けませんか」
悪いようにはしないと、そう言いたいのだろう。
衛兵団の隊長格であるヘルトであれば、周辺都市国家に対しても手紙が送れる。
所詮副隊長のトカゲとは違い、ヘルトには入れ墨付きであればガルーアマリアを出ても追い込める権利があるというわけだ。
傑作だ。
任せろと、笑い話だ。何て、性質の悪い冗談だ。
手足は痺れる。喉は枯れ、言葉を放つことを拒否している。大人しくしていろと、長い年月、精神に巻き付いた蛇が囁くようだった。
俺とて、あの救世の旅でヘルトに感化されている部分がないとは言えない。彼の言葉が、何処か正しいようにも感じられる。いいや、事実正しいのだ。それに違いはない。
だが、やはり違う。俺と貴様は、絶対的に違う生き物なのだ。
「――仕方ねぇなぁ、おい。俺だ。俺を裁くが良い」
唐突なその言葉に、どういう意味かと、そう問いかけるようにヘルトが眼を大きくした。もう、後戻りは出来ない。
だが、セレアルの事を貴様に任せる。それだけは出来やしない。きっと、貴様は彼女を罰してしまう。そういう男だ。この男は理解していないのだ。
ああ、そうさ。入れ墨は罪を犯した証。窃盗か、切傷か、それとも詐欺か。陸でもないことこの上ない。
この男、ヘルトの頭の中に、罪を犯さざるを得ないなんて概念は無い。罪とは、如何なる時においても犯すべきものではないのだから。
そう、だから想像すらしないのだ。
医者を呼ぶ金はなく、薬を買う事すら出来ず。栄養のある食料すら持ってこれない。病気になった家族が弱り果てるのを、ただただ瞳を濡らして見守るだけの日々を。
幾ら神に祈ろうと世界は何も手を貸さず、この世に己を助ける存在などいないのだと、そう幼心が理解する残酷さを。
そうして、それでも諦めきれぬ者が、薬を求めるがあまり、栄養のあるものを求めるがあまり、罪に手を染めることもあるのだということを。
それは、ヘルトに限った事じゃない。分からないのだ、彼らには、強き者達には。強者の唱える理論に、弱者は含まれていない。
「その窃盗とやらの犯人は俺だと言ったんだよ。そして、あの餓鬼は共犯でも何でもない。ただの通りすがりさ」
それを許容しろとはとても言わない。罪は罪。罰は罰。ああ、如何にも正しい。
だが、その世界では生きれない奴もいる。
「それに捕まえても無駄足ってやつだ、あの餓鬼は喋れないんだよ。昔、今より餓鬼の時分に、兄貴が衛兵団に殺されかけたショックでな」
腰元から、ナイフを引き抜き、まるで何てことないことかのように、そう告げた。
もう、後戻りは出来ない。しようとも思わない。
思考は驚くほど落ち着いていた。きっとその奥深くで、理解していたのだ。
俺と、ヘルト・スタンレーは、その意志、生涯、魂、全てにおいて決して相いれない存在だということを。