第四十六話『トカゲと我が宿敵』
衛兵がその目つきを強め、もはやどのようなものも間に合わぬと、誰にもそう思われた瞬間。
一瞬。そう、それは一瞬の邂逅だった。青光と銀光が、混じる。不思議なことに、何一つの音が奏でられることはなかった。
誰も言葉を発さず、何物も音を立てず。誰もが息を呑んで、その光景の証人として仕立て上げられる。
少女の右腕を食らわんと振り落とされたはずのサーベルは、何かに弾き飛ばされ、その身体を曲げて宙に踊る。そうしてそのまま、からん、と気の抜けたような音を立てて地面に身を伏せた。
それは、余りに唐突に現れた。何の脈絡もなく、何の予兆もないまま、風と共に砂塵を引き連れて。
「いよぉ、嬢ちゃん。遊びの度に命を賭けるのは、そろそろやめにしてくれよ」
緑の衣服を纏い、その小脇に少女セレアルを抱えながら、肩を竦めてルーギスは言った。
セレアルの口が、一瞬安堵したように緩まり、そうして次には不満げなものへと変わっていく。どうして、また助けられてしまったのだろうと。そう悔やむようにして。
しかし、それにしてもこの男はどうやって現れたのだろう。セレアルの瞳は揺れ動きながら、未だ落ち着かぬ心臓を宥める。
どう足掻いても、人には間に合わぬ距離。もはや自身の右腕は、サーベルによって身体との別れを避けられぬ所まで至っていた。だというのにこの男は、恐らくは手に持ったナイフでサーベルを弾き飛ばして、己を助けている。それはまるで、魔術や魔法のよう。
瞬きの間に、砂塵を纏い、空を切断しながら、この男は現れたのだ
「――誰だ、貴様。今、自分がしている愚行を理解できているのか」
ルーギスの人間業とは思えぬ登場に、呆気にとられる衛兵団の中から、唯一その男が声を発した。その瞳をぎょろつかせ、爬虫類のような目つきを強めながら。
「相も変わらず愛想がないねぇ、トカゲの旦那。何をしたもなにも、知人の妹がいた所に、不思議と落ちてきそうだったサーベルを跳ね飛ばしただけ。違うかい?」
*
こいつは嫌な奴と出会ったものだと、僅かに眉を顰める。
名前までは知らないが、爬虫類の如きぎょろりとした目つきをした衛兵。あれには見覚えがある。かつての頃、ガルーアマリアを訪れた折には、確か衛兵の隊長身分だったはずだ。
利己主義で、何処までも排他的。ついた綽名がトカゲ。何でも自分の身勝手な栄達の為には、部下だろうがなんだろうが切り捨てることが所以らしい。勿論、その目つきも綽名をつけるのに一枚噛んでいるのは疑いのない所だが。
「……その娘は盗人の仲間だ。罪人を処罰するのは我ら衛兵の役目。邪魔をするなら貴様も来るべきところに来てもらう事になる」
その瞳を細め、不愉快な調子を言葉から隠そうともしないで、トカゲは言った。その悪意すら籠っているであろう視線に睨まれるのは、気分の良いものじゃない。
トカゲはその調子のまま言葉を続ける。盗人はガルーアマリアを訪れた商人から物品を盗み取り、そしてそいつは逃げやすい貧民窟へと逃げおおせた。その幇助をしたのが彼女、セレアルだとそう告げる。
「なるほど、随分と仕事に精が出るねぇ。そりゃあ無抵抗な少女の腕を斬り落とそうとするくらいだものな」
「ふん、出来る事ならその無駄に回る舌も斬り落としてやりたい所だ。わかったのであれば、その娘を引き渡せ」
それとも、貴様も盗人の仲間か、とより目つきが強まった。その手が、腰元のサーベルにかかる。
相手を警戒させないよう、ゆっくりと瞳を動かし、周囲の様子を軽く伺った。
衛兵の数は、トカゲを含めて五人。しかしどうにも、貧民街の人間は頼りになりそうにない。
だからといって、フィアラートが駆け付けてくる状況になるのは、勿論不味い。態々隠れるようにいっておいた意味がなくなる。
となると、万が一ナイフを引き抜くことになれば、一人に対して五人を敵に回さねばならない。
流石に、それは宜しくない。無謀にも程がある。そのような無茶無謀を通せるのは真に力のある人間だけであり、せめて奇襲や罠でも張れるならともかく、真正面から一人で多数とやり合うなんてのは正気を母親の腹中に置いてきたのと同じだ。
まさしく、それはカリアのような人間の事をいうのだが。
「此処が壁の中なら一考しますがねぇ。しかし不思議だな、貧民窟だぜ此処は。旦那、わかるだろう、ガルーアマリアじゃねえんですよ、これが」
トカゲの眉がぴくりと上がり、後ろに備えていた衛兵の身体が僅かに強張る。
真正面から敵対するのが良い選択でないならば、舌を潤滑にするしかない。このトカゲという男は、何だかんだと頭は悪くないはずだ。確か、以前はそうだった。なら、自分に理がないと思えば、多少恰好はつかなくても引くだろう、そのはずだ。
「……意味は分かっているのか、貴様」
「ええ、勿論。貧民窟では法律も、あんたたち衛兵団の権限も通じないはずでしょう。だっていうのに、どうして当然のように取り締まりを? 理由がないでしょう」
そう、城壁都市ガルーアマリアがその法的な統治を行っているのは、まさしくその壁の中のみ。
壁の外で軒を連ねている貧民窟の住人なんぞは、城壁都市の市民でもなければ、浮浪者ですらない。ただ野営をしているだけのならず者だと、そう彼らは言い繕っている。
それは一見不都合が多そうだが、ガルーアマリアにとってはそちらの方が都合が良い。貧民窟をも国家と認めてしまえば、彼らを少なからず市民の一部と認めなければならない。
それは困った事だ。今まで人ですらないと見下していた存在が、よもや市民の一員となるなど認められるはずがない。例え上層が認めようが、市民感情が許さない。
それに、万が一そのような事になれば、今まで貧民窟の住人を不当な安値で肉体労働に、売春にと、まるで家畜のように扱っていたギルドからも不満が噴出する。
交易都市であるガルーアマリアでは、安価な肉体労働は、それこそ国が溢れるくらいいても困らない。いればいるほど、経済は潤い、国は栄える。
貧民窟があってこその繁栄を享受しながら、しかして彼らを市民と認めれば都市は成り立たない。何とも歪な都市国家、それがガルーアマリアの在り方だった。
故に、その歪さを突いてやればトカゲのやつも、以前のように引くだろうと、そう、油断していた。
「――取り締まりは当然だろう。その理由は、貴様らが、劣等の民だからだ」
その言葉に、思わず目を丸くする。目の前の男が放った言葉に、今一理解が及ばず。思考は事実より一歩遅れながら脳内に走り寄る。
背筋や四肢の関節に、何か固いものが埋め込まれる感覚があった。
「多少舌が回るようだが、それで説き伏せられるとでも思ったか? その思考そのものが愚鈍だというのだ。貴様ら貧民窟の住人を、劣等の者らを、誰が統治してやっていると思っている。他でもない、我ら市民ではないか」
言葉を継ぎながらトカゲはその唇をより滑らかに、快活に、もはや俺だけではなく周囲全ての住民に告げるように言った。
「貴様ら劣等に法も、理屈も必要はない――我らが栄光、ガルーアマリアの軒先に張り付く黴どもが」
淡々と、当然の事実を告げるように発せられたその言葉は、冷徹さと侮蔑を隠そうともしない。
それは、恐らく彼の本心だろう。トカゲの、そう呼ばれた男の紛れもない本心。一切の包み隠しのない言葉。ある意味で、何処までも純粋な言葉だった。そうしてそれは、多くのガルーアマリア市民の言葉でもある。
顎を撫でさすり、一瞬の思案。胸中には、鉛を溶かしたような熱が浮かぶ。肌が熱く、瞳はといえば溶けだしそうなほどだ。
なるほど、どうやらこいつは、俺を、そして貧民窟の住人をその心底から舐め腐っているらしい。何も出来ぬと、高を括ってやがる。みくびりやがったわけだ。
そうだよなぁ。そのはずだよなぁ。どうしてって、以前、かつての旅の時。お前は同じような理屈に、さも説き伏せられたような姿を見せていたではないか。
そう、それを言ったのは確か、フィアラートだったか。
分かっている。理解している。かつての旅の時とは状況も違えば、俺の立場も、そして時代すら違う。だがそれでも、間違いないことはある。こいつは俺を甘く見たということだ。
沸き立つ臓腑が意のままに言葉を練り上げ、それを喉から押し出していた。
「違うでしょうに。もっと本心を言えば良いじゃないですか。成り上がる為、自分の功績の為、罪人らしい理由があれば誰だろうと、何処だろうと、その場で独断専行して処罰してますって」
トカゲの瞳が、ぎょろりと、より爬虫類のような様子をみせて俺を睨み付ける。
その瞳に映るのはまさしく軽蔑と憤怒。お前のような輩が、己の心を見透かしたような態度をとるなと、本来踏みつけにする対象に本意を突かれたが故の、逆恨みに近い憤激。
踵から這い上がる怖気をそのまま踏みつけにし、腰元のナイフに手を掛ける。
二本のナイフのグリップは、なるほどよく調整されている。悪くない持ち具合だ。背後に回っていたセレアルの背を、雑踏に逃がすように力強く押す。
ああ、全く御免だぜ。俺もあの女と、同じ立場になってるじゃあないか。所詮は理性も考えもない、ドブネズミでしかないということか。
心の中でそう愚痴を吐きながらも、理性を食い殺した感情という悪魔は、その表情を醜く歪めていた。どろりとした粘りのあるものが、臓腑にたまる。その感覚が、不思議と心地良い。
少し前からだ。自分の中に何かがある。異物があるのが分かる。そしてそれは、感情が昂れば昂るほど、俺に充足感を与えてくれる。
衛兵の連中も、俺の態勢を見てもはや言葉での解決には至らぬと察したのだろう。サーベルに手が掛けられ、トカゲの指示を待っている。
一瞬の静寂。次の瞬間には、俺が血塗れになっている姿が容易に想像できた。
だが、だからといって此処で引くような事ができるだろうか。出来ようはずがない。それでは、前の俺と何も変わらぬ。あのような、己の尊厳を売り渡すような生を、理性という皮で感情を窒息させる選択を、俺はもうしたいと思わない。
俺も、トカゲも、衛兵団の連中も、そして貧民窟の住人もが、一瞬の先に赤い塗料が飛び散る事を理解したその時。一つの声が、静寂を打ち破った。
「――副隊長、ボクはそのような独断を赦した覚えはないな」
声を受け止めた耳朶が、痙攣する。目が剥き出しになる思いだった。今まで熱に浮かされていたはずの臓器が、急速に冷え込んでいくのを感じる。
馬鹿なと、胸中ではその一言が告げられていた。お前は、此処にいないはずだ。福音戦争の折には、ガーライスト王国に叔父と共にいたのだと、そう言っていたではないか。
だが、聞き間違えるはずもない。見間違えるはずがない。
「今すぐサーベルから手を放し、説明を」
その高らかな声も、群衆を割って堂々として見せるその姿も、紛れもない。
ヘルト・スタンレー。我が宿敵、そのものだった。