第四十二話『執着』
「貴様には三つの罪がある、心当たりはあるな?」
喉を抑え込んだ細い指が、ぐいと肉を圧迫するように押し込まれる。小さな嗚咽を漏らし、瞳を細めながらカリアの問いの答えをさがすべく、最大の速度を持って脳内を捏ね回した。
喉からは僅かな空気のみが供給され、それはとてもではないが十分とは言えない。肺が空気を求めて体内を暴れまわり、余裕を失った肉体はその意識を失わせようと四肢の力を奪い去っていく。
何だ。確かに、俺は少しばかり余裕を見せてしまっていたというか、上手く進む物事に有頂天になっていた節は否定しきれない。
だが罪、罪だと。そんな記憶はない。勿論、過去の事を持ち出されれば、それも真実とは言えないが。少なくともカリアに向けて罪科を負ったような覚えはなかった。
困惑する瞳が映し出す視界が僅かにかすみ、脳内は思考の巡回を拒否するように鈍くなる。
喉を抑え込む手の力加減が、紛れもなく本意のそれである事が理解できた。これは冗談や、じゃれあいなどではない。本気でこの女は、俺を締め落とそうと考えている。
「分からないか。一つは……『仲間』である私に何の相談もなく、二度も物事を決定させたこと。そう、二度もな」
一度目は許してやった私は随分と寛大じゃないか、と、そうカリアは付け足した。その浮かべられた笑みが、どうにもうすら寒い。
瞳を丸めながら、一拍遅れてその言葉を受け止める。
なるほど、ある程度の理解は出来た。詰まる所自分に話が回っていないにも関わらず、事態が変更されていく事が面白くなかったわけだ。一度目というのは、フィアラートの依頼を受けたことだろう。
その後、俺が紋章教徒の件まで浮かれ気分のまま、独断で決めてしまったのが、カリアの逆鱗に触れたということか。
顔を顰めながら、頷くように顎を震わせる。理解した。その点に関しては俺が悪かったと、そう示すように、視線を向ける。声を出そうとしても、締め付けられた喉からは妙にかすれた音しか響かない。
だが、カリアはその反応に何処か納得したように、その表情を緩める。
「次に二つ目。今回の件だが、聞けば貴様があの魔術師に手を出している間、私は裏方で馬車馬の如く働けとそう言ってるようにしか聞こえんのだがな。どうだ、ええ?」
そこで、ようやく喉に埋められた指の力が弱まった。
げほっ、と喉元に溜まった濁りを吐き出すように古い空気が喉から零れ落ち、新たな空気を取り込もうと肺が一心に活動を始める。
そろそろ本格的に思考が回らなくなってきた所だった。正気でいられるか、否か。思考が行えるか、否か。その点における冷徹なまでの見極めは、まるで拷問のそれだ。随分と手慣れたその様子に、一種の恐怖を覚える。
だが未だ、指は喉元から離れていない。ただ、力を緩められただけ。此処でカリアの機嫌を損ねるような事があれば、今度こそ締め落とされてもおかしくない。
ふとその時、俺の脳裏には疑問が芽を吹いていた。
しかし、何だ。それにしても何故こいつは此処まで憤激している。かつてのカリア、救世の旅の時の様子と比べるとあまりにも、そう余りにも様子が違う。それは勿論、年を重ねることで変化もあるのだろうが、それにしても随分と落ち着きがない。
執着。そうだ、何かに固執しているようなその様子。かつての彼女も確かに、ヘルト・スタンレーという人物に執着してはいた。だがそれにしても、余計に性質が悪くなっている様な、そんな感覚。
解放された喉をゆっくりと開きながら、痛めぬようゆっくりと言葉を練り上げて、言う。
「が……っ、は。そいつは、違うだろ。見る限り、あいつは、フィアラートはまだ何処か脆い。手を離して野原を駆け回らせても、その様子をじぃと見ておかないと、何時崩れるか分からん類だ」
今は、まだ。
そう、違うといえば、彼女。フィアラート・ラ・ボルゴグラードも、救世の旅の時と随分と様子が違う。
何をするにしても隙がなく、常に一人で立っている、自立した様子を見せていた彼女。怜悧な視線で、何事も見通すようであった彼女。
だが、今の様子を見れば、まるで寄りかかるものを求めている若木のようなもの。一人で立ち回らせることなど、想像もできない。戦々恐々とその背中を見守っていなくてはならないと感じさせられる。
その輝かんばかりの才は確信しているが、どうやら今のフィアラートは放っておけば仕事をしてくれる類ではないらしいと、そう思う。
ああ、思えば、そうか。もしかすると救世の旅での彼女も、俺が知らぬ所で、奴に寄りかかっていたのかも知れない。それゆえの、あの態度だったのだろうか。
「だが、カリア。お前は違う。違うとも。お前は強い女だ。一人で悪魔の首だって取ってきちまうような、頼りになる女だ。そうして」
そう、言葉を紡いでいくと、何処か手の力が緩んでいくような気がした。勿論、僅かではあるのだが。
「そうして?」とカリアは続きを導くように言葉を重ねながら、疑問符を置いた。
「誇り高い人間だ。お前はたとえ俺を気に入ろうが気に入るまいが、一度約束をかわしたなら、色魔に囁かれたって決して裏切ることはしない人間さ。そこはよく、知ってるもんでな」
そう、それだけは信望している。かつての旅の折、どれほど弱者に対して傲慢であり、理不尽であり、暴威を彼女が振るったかなどもはや覚え切れるものではなかった。
だが、それだけは覚えている。カリアという女は誇り高く、誰よりも矜持を貫く為の意思を持っている。その点においては、良い女だった。
一瞬、銀の瞳が丸く見開かれ、そして僅かにその唇から息が漏れた。俺の言葉に失笑したような、まるで仕方がないと、諦観したようなそれ。
「そうか、舌を回す程度の知恵はあるわけだ。それで、どうしてそうまで信頼できるという。何がお前にそう囁いた?」
「言っただろう」
こちらもカリアの反応に、仕方がないと、全くもって覚えの悪いやつだというように振る舞って、返してやった。
「お前が、カリア・バードニック――違うな、カリアだからさ」
何時かのように、そう返してやった。
一瞬、その眼を可笑しそうに細めながら、しかして満足したようにカリアは微笑み、喉から手を離す。
「了承した――この身はもはや騎士ではないが、信頼と期待には相応の行動で返すのが、高貴なる者の矜持だ」
やっと喉が自由になり、存分に呼吸が出来るようになった、悪魔の手中に命があるような地獄から解放され、ほっと肩から力が抜ける。
上手くいったかは分からないが、少なくとも納得はしてくれたらしい。
息を整えて確認するようにカリアを見やると――その、銀色の瞳がすぐ間近にあった。互いの呼吸が届きそうな、額が擦り合いそうな、それほどの距離。思わず、喉が鳴る。
「さて、忘れたわけではないだろう。貴様の罪は、三つ――三つ目だ、貴様、私に何かを隠しているようだな。どうにも、貴様の動きは不自然だ。成りあがるのが目的としても、急に過ぎる。私を仲間として動かしたいのなら、洗いざらい、話すことは必要だとは思わんか、ええ?」
間近で見る、カリアの端正な顔から放たれた表情は何処までも妖艶で、何者をも引き込むように魅力的で、そうして、気分次第で相手を地獄に突き落としてやるという意思を含んだ、果てしなく悪魔的な笑みだった。