第四十一話『カリアという女』
すっかりギルドの出すエール、その苦みにも慣れたのだろう。個室に運んできたそれを、軽い調子でカリアは飲み干していく。
「以前は確かそう、雨季の空と貴様を評したのだったか」
思いのほか、彼女はその評し方が気に入っていたらしい。思い出す表情にはやんわりとした笑みが浮かび、座り込んだ椅子をゆらゆらと揺らしている。ほろ酔いの夢見心地な感触を、銀髪を揺らめかせながら楽しんでいる様だった。
しかし一見、気分を良くしているような様子から零れた言葉は、陽気さとはかけ離れた場所で生まれたような、そんな声色を纏っていた。
「あれは間違いだった。貴様は自分勝手にあちらこちらへ飛んでいき、そうして火薬をもって帰ってくる。なぁ、ルーギス。此れは一体なんと呼べば良いと思う? 新たな名前を付けねばならんな?」
変わりやすい天気のように、その機嫌は悪天候となったらしい。
銀髪が逆立って見えるような怒気と、舌で人を刺してしまおうかという厭味がその言葉に含まれていた。
それは、幾ら学識のない俺とはいえ容易く理解できるもの。いや、俺であるからこそ、余計に理解できた。以前の旅で、カリアの怒りの向け処はその大半が俺相手だったのだから。
しかし、その憤激の理由はどうにも曖昧だ。どうにも、掴みどころがない。
「抑えてくれよ。別に、喉を涸らして怒り狂うような事じゃないだろう。お前も察してたんじゃないのかね、あの聖女の寝床から這い出るには、それ相応の取引が必要だったってことさ」
同じくエールで舌を濡らしながら、ため息をつくようにしてカリアの厭味を受け流す。此の女はこうなってからが随分と長い。いやしかし、暴力も加わっていた以前と比べれば当然、現在の方が大幅にマシではあるのだが。
その銀の瞳が瞬き、まじまじとこちらの瞳を見つめる。まるで、嘲弄や憤怒の意思が掻き消え、いつの間にか呆れへとすり替えられたというような、そんな表情。
非常に、馬鹿にされている気がしてきた。
「それで、相手の条件を唯々諾々と飲み込んで、紋章教徒への協力を受諾。加えて、そう加えて、あの女を手下にしたと」
あの女、とはフィアラート・ラ・ボルゴグラードの事を指しているのだろう。どうにも、刺々しい表現が入り混じっている様に感じる。そこまで、仲が悪かったとは、以前の旅の時は思わなかったが。
「人聞きが悪いなんてもんじゃないな。もう少し脚色を加えるくらいはしてほしいもんだ」
肩を竦めて視線を俯かせると、そのまま声を地に向けて放つ。言葉そのものを地に這いずらせるよう、声の調子を抑えて言った。
「それに、あくまで協力さ。相手はこちらを途中までは良いように利用して、何処かで切り捨てる腹積もりだろう」
だから、こちらも同じようにしてやるだけさ、と瞼を軽く掻いてカリアに告げる。
そう、当たり前だ。紋章教徒も、そしてラルグド・アンさえも、この俺を信用などしているものか。こんな何処から来たともしれず、品格も、学識もあるとはとても言えない。俺にあるのは精々がかつての知識だけ。こんなみすぼらしい男を相手にして、誰が信用などするというのか。まぁ、元々、信用などされた事がないような人生だ。そういう取引には慣れている。疑われている人間が、どう動けば良いのか。疑いの芽を刈り取ってやるのには、何が必要か。
地下神殿でのやり取りをみるに、少しは使えるかも知れぬ、出来ればガルーアマリア陥落までの火種にくらいなれば良い、感触までは分からないが、予想するならば聖女の胸中はこの程度だろう。
で、あるならば。そう、であるならば。こちらとて手の平を返さない道理はない。エールの苦みが、喉を通り、吐き出しそうになった弱音を洗い流す。
「……奴らが俺を利用するなら、俺も奴らを利用する。それが道理というものだ」
エールが入った容器を、カリアとの間に置かれたテーブルに音を立てずに置く。
「奴らが城壁都市に攻め込み、愛しのマリアに手を掛けた瞬間。そこだ、今こそ幕が開かんとしたその時。その時に、奴らの頬骨を殴り砕く、その為の下準備さ、全てはな」
ぐい、と拳を握りこみながら、目を細める。
やらねばなるまい、それくらいは。凡夫が名を成すのに最も都合が良い場所、それが戦場だ。そして何とも幸運な事に、俺はその結末と、過程の一部をこの脳髄に埋め込んでいる。
素晴らしい、素晴らしい好条件だ。なら、後はそれを利用してやるだけ。振り子のバランスを、指で弄ってやるだけさ。アリュエノの為であるなら、それ位の危険は踏んでやろう。
「ふん、なるほど。それで、あの女。フィアラートを悪だくみの絨毯の上に乗せた理由は? よもや貴様、その場その場で手を出す女が必要なのか」
馬鹿言ってんじゃねぇ。あの女、フィアラートに手を出しでもしたら、その瞬間にあの旅での光景が蘇って吐いちまう。喉に流れ込んでいたエールが、逆流して口内に戻ってくる。えぐみと、僅かな甘みが口内に広がっていった。
せき込みながら、未だこちらをじぃと見つめるカリアに応えるように、唇を開ける。テーブルを挟んだだけの距離では、彼女はその機嫌を損ねた瞬間に掴みかかってきてもおかしくない。僅かに喉が奇妙な震え方をした。
「フィアラートは紛れもない才持つものさ。お前と同じでな」
その言葉が飛び出た途端、ややカリアの眉がつり上がった。なるほど、この話は手早くすませた方がよさそうだ。
「今は自信がないか知らんが、組織の中でなら間違いなく頭角を現す。紋章教徒の信用を安値で買い集める為にも、彼女の手が必要だった」
ほう、と呟いた後カリアは、賭けとは思わんかったのか、と、そう言葉を続ける。
「どちらに目が出ても良い賭けさ。五分五分だった。彼女が、フィアラートがこの手を取れば良し。取らなければ――」
そう、取らなければ、それはそれで、手はあった。優秀な仲間を差し出してでも、厚い協力を行う同士、としての道が。言葉にせぬまま鼻を鳴らして笑った俺を、カリアは大きなため息で迎え入れる。銀髪が大仰に揺れ動いた。
「それで、私に話した訳は。貴様のことだ、理由はあって当然だろうな?」
勿論と、そういうように顎を撫でる。
女中を呼んで、エールの継ぎ足しを運んできてもらうように頼んだ。
「お前には、此処、都市国家の自衛組織に伝手を作るか、出来れば、その手練手管で仲間意識でも育んでもらいたい。俺には取れん手だからなぁ」
女中が運んできた新しいエールは苦味がよく残る。流石にカリアもやや顔を顰めつつ、言葉の続きを促すように、唇を濡らした。
都市国家であるガルーアマリアにはその防衛機構として、貴族にて構成される騎士団ではなく、市民に依りて国家を守るための、自衛組織が存在する。
その組織は市民であれば誰もが所属出来、都市を守る盾となり矛となる。通常の国家とは異なり、市民が騎士団に代わり国家の守り手となるわけだ。それ故に、ガルーアマリアでは市民の声はとても強い。
そういった成り立ちからだろうか。自衛組織の者達というのは仲間意識、同胞意識というものが非常に強固だ。其処に俺のような余所者。しかも得体のしれないドブネズミが入り込もうとした所で、足蹴にされるのは目に見えている。そこはよくよく分かっている話さ。それが、俺の身の程だ。
だが、カリアは違う。カリアは、元騎士だ。しかも伝統あるガーライスト王国の。
自衛組織が否定しつつも、その心の底から舌を伸ばして欲するものが三つある。伝統と、物語と、品格だ。
これは市民よりその構成員を募集する自衛組織には、往々にして得辛いもの。
品格や伝統を得ようと、家柄や出自でその構成を固めてしまえば、市民による自衛組織という建前は崩れ去る。組織としての成り立ちに、自ら泥を塗りたくるようなもの。ゆえに彼らは、言葉では繕いつつも、その内心では何処か騎士という存在に憧れる。
そこに、その中身はともかく、風貌は美人といって差し支えないカリア。その彼女が元騎士として、言葉を上手く使って取り入れば、自衛組織の奴らも十分気を許してくれるだろう。
その内、作戦内容の一つでも、ポロリと零してくれるかもしれない。統制された騎士集団でないならば、余計に。
そう、カリアには裏を語り、フィアラートにはその内実を黙すのは、その為。
フィアラートはただその目の前に吊り下げられた目標の為に粉骨してくれればそれで良いが、カリアはそういうわけにもいかない。だから、全てを話した。それを成してくれるであろうと、信じて。
話を終えた瞬間、俺の喉首。そこの肉が、悲鳴をあげながら自らに食い込む異物の存在を訴える。
――ああ、断るとも。貴様、もしかすると何か勘違いをしてはいないか? 私は、貴様の都合で動く劇人形ではないのだぞ?
カリアの冷たく、何処か怒気を孕ませた言葉。その音が耳朶を打った瞬間、ようやく喉首に食い込んだものがカリアの細い指なのだと理解する。
その銀色の瞳は射殺すような視線でもって俺を迎え入れ、淡い唇は何がおかしいのだろう、ゆっくりとその表情に笑みを飾っている。
その表情を、俺が見たのは、二度目だった。かつては、救世の旅の折に、俺が、彼女の言葉に反逆した時。
今再び相まみえるその表情は、かつての時より更に俺を恐怖させ、困惑させた。踵の奥底から、悍ましさがよじ登ってくる。その表情は、人を恐怖させるだけではない、何処か人を惹き付けてしまう、美しさのようなものをも孕ませていたから。
思えば俺は此の時、思考が少しばかり、いや大いにおかしくなっていたのではないかと、そう感じる。
きっと、そうだ。彼女の、フィアラートの件が余りに上手くいきすぎた。俺の人生ではもうないだろうというほどの大成功。それで、俺は思い違いをしてしまったのだろう。俺の思惑は、上手く絵図を描けている、と。もしかすれば、この俺の想定は全て上手くいくのではないか、と。
その思惑や想定を全て裏切るように、俺の命を握った女は、銀髪を煌かせながら何とも楽しそうに微笑んでいた。