第四十話『黄金の岐路』
ガルーアマリア、学院内の修練場。
木で作り上げられた人形や、軽い魔術の補助器具が据え置かれたこの場所は、何時も人気がない。
当然といえば当然で、此の学院に通うのは、それ相応の家柄か、もしくは富を得た者のみ。彼らの多くが求めるものは、魔術や剣術ではなく、学院出身者という箔、そして上級階級とのコネクション。それゆえ、剣や魔術の修練に励むものなど、まずいない。
此処に足しげく通うのは、魔術の才を渇望する少女と、もう一人だけ。
陽光を反射し、白い輝きを放つ両刃剣。そこについた僅かな汚れを拭き取りながら、ヘルト・スタンレーは瞼を軽く閉じた。
――ズァンッ
それは息を呑むような一閃。白色が陽光を切り裂き、静止した空間がその一瞬、断絶する。周囲の風は迸り、剣筋に怯えて一通り駆け回ると、再び元の空気の流れへと戻っていった。
ヘルトの眉が、僅かに潜まる。軽く奥歯を噛みしめ、今日は上手くいく日ではないのだと、軽い見切りをつけた。
傍から見ていれば、それはまさしく天賦の才を感じる一閃。何ら口を挟む要素はない。しかし、自身にはその不調が隠せない。幾ら巧妙に騙し繕おうとしても、自分自身はあっさりとそれを見抜いてしまうものだ。特に、ヘルトという人間はそれを見過ごせる人物ではなかった。
剣筋にあらわれる僅かな濁り、肉体は万全、では理由は精神に。
己の精神に巻き付いているものの正体は恐らく、彼だろうと、ヘルトは思う。先ほどからそれに対する疑問、思案が、脳内を駆け回っている。剣を鞘にしまい込むと、その黄金に輝く髪先が揺れた。
「何辛気臭い顔をしてるんだよ、ヘルトちゃぁーん」
頭の中の思案がそろそろ周回を始めようという時、不意にヘルトの背後に人体が飛び掛かる。といっても、まるでじゃれつくような、そんな絡みつき方ではあるが。
「……叔父上、お久しぶりですね。学院に来られるなど、珍しい」
ヘルトが何事もなかったかのように後ろを振り返ると、その人物は愛想がない、とでも言いたげに首筋を捻った。
「貴様に会いに来たのさ。そうでなければ、此処に通うのは先を見通せぬ盆暗ばかり、誰が好んで来たいというんだい」
あんまりな言いぐさに、思わずヘルトは苦笑で返した。
バッキンガム・スタンレー。ヘルトの叔父にあたる人物で、悪ふざけと美酒を片手に人生を生きる、そんな評価を周囲から受ける人間。早々にスタンレー家の跡継ぎ争いからは脱落し、一時期は遊び人のように放蕩な日々を過ごしていたが、今ではその伝手の広さと社交性を買われ、スタンレー家の外交に携わっている。
何処か読めない、飄々とした所がありつつも、それを不真面目と嫌う人間より、その独特の空気に好感を覚える人間の方が多かった。
実際、ヘルトはバッキンガムの事が嫌いではない。常におどけた様子ではあるが、面倒見が良く、情に厚い。慕う者が多いのも理解は出来る。
「叔父上、馬鹿々々しいご質問が一つ。人間とは、真の悪意を胸に潜ませたまま、真の善行を成すことが出来るものでしょうか」
故に、ヘルトの相談事というのは、厳格かつ近寄りがたい父よりも、むしろこの叔父に向かって零される事が多かった。
今朝から、いや正確にはあの地下神殿より脱出した直後から、ヘルトの脳裏には渦を巻く蛇が潜んでいた。その正体は他でもないヘルトが理解している。緑色の服をはためかす冒険者、悪辣とも正義とも取れぬ者、ルーギス。
バッキンガムは、その呼びかけを予想していたのだろうか。修練場に用意された椅子に腰かけ、頬杖を突く。そして、大して考えるでもなく、言った。
「出来るさ、当然。それこそが人間だ。矛盾を常にその胸に孕ませ、生み落としてはまた孕む。それが人間の性ってやつじゃないかな、ヘルト?」
その確信を持ったような言葉に、少し面食らってヘルトは唇を噛む。
そういうものだろうか。いや確かに、彼はその体現者だったようにも思う。ヘルトは噛んだ唇を撫でながら目を細めた。
フィアラートに対し法外な条件を突き付ける、自己保身とも言える行動。しかし、その後にはフィアラートを守る為に自らの命を炎に投げ出す、自己犠牲と取れる行動。悪辣さと善良さ。どうにもその矛盾した行動には、ヘルトは首を傾げざるを得なかった。
自己保身を第一に思うのならば、自らを犠牲にしてフィアラートを助ける必要がなく。自己犠牲を第一とするならば、フィアラートに法外な条件を突き付ける理由がない。
分からない。ヘルトには、まるで彼が、ルーギスという人間が理解できなかった。
「私にして見ればヘルト、貴様の方がよっぽど理解が及ばない。どうにも、人間味がないのだ。人間は懊悩し、吐き出し、愚かに迷った挙句、今までの人生とは全く逆の判定を下すこともある。だが見てみろお前というやつは、正義だ善意だ、馬鹿の一つ覚えじゃあないか。嗤ってしまうよ」
だが、悩むようになったのは良い事だと、バッキンガムは妙に愉快そうに犬歯を見せて告げた。
悩み。そう言われてみれば、こうも一つの事に悩んだのは、そうなかったことかもしれない。大抵の事は、善意か、悪意か。そう割り振って生きて来た。それで良いと、疑おうと思わなかった。
だが、彼は。何とも割り振り切れない。
「そう、人間なんてのは悩んで初めて成長する。人間を悩ませる為に、神様は我々をお作りになった。さぁ、神様に祝福を! ありがとう、この悪意の坩堝に生み落としてくれて! 無限に我々を悩ませてくれる! ああ、ありがとう!」
「……叔父上、またそのような事を。異端と指さされても仕方ありませんよ」
まるで異端者のような言葉遣い。何時もの悪ふざけのように見えるが、されどその声色や瞳の色は、真実であるかのように物事を告げている。
この男の、バッキンガムの言葉のどれが悪ふざけで、どれが本意であるのか。きっとその奥方にだってわかりかねる所だろう。
だが、だからこそ外交に向いた部分があるのは確かだ。
「冗談さ。冗談の類だ。さて、ヘルトよ。叔父は今よりガーライスト王国にいかねばならない。此処に来た理由がそれだ。貴様さえ良ければ、共に行こうかと思ってな」
その言葉に、思わずヘルトは眼を細める。余りに唐突な物言いに、流石に言葉が淀む。バッキンガムは無理にとは言わない、と告げながら更に言葉を続ける。
「最近この辺りはきな臭い。当主である兄上は仕方がないが、次期当主のお前は少しばかり離れるべきだと、そう思うのだ。異端ではないが、東へ逃げたはずの紋章教徒の奴らが、妙にその姿を見せている」
お前は、そのような話は聞いていないか、そういってヘルトの瞳を覗き込むバッキンガム。
別に、疑ってかかっているわけではない。むしろ、知らない可能性の方が高いと踏んでいるだろう。だが、ヘルトの脳内には明瞭に、そのきな臭さの正体が浮かび上がっている。武装した紋章教徒の集団、その妙な警戒の度合、そして聖女と呼ばれた女性。
今此処で、これを話してしまえば良い。そうすれば、叔父は間違いなく自分をガーライストへと連れていき、危難は去るだろう。あくまで感じるのはきな臭さだけだが、備えをしておくことは悪い事にはならない。
だがしかし、告げてしまえば自分は此処にいられない。であれば、言わぬという選択肢もあるのではないか。ヘルト・スタンレーは己の内から湧き出た考えに愕然とした。それは、彼にとって初めて得た思考に等しい。
善意と、正義。その二つを理に人生という道を歩んできた彼に、今まで岐路などない。全ては正しく成せば、それで良かった。
だが、今此処に初めての岐路がある。全てを話し、此処を去るか。黙して、此処に残るか。
話すべきだろう。それがヘルト・スタンレーという人間のはずだ。そうして、今まで生きて来たはずだ。実に、正しい。例え、自らの内に湧いていでた疑問を取り残してでも。
ヘルトの中で、二つの意志が衝突を繰り返しているようだった。ヘルトの内より生じた意志と、正義や善意から生まれ落ちた意志が、せめぎ合っている。
ああ、どうしたものか。これが悩みか。これが、懊悩というものか。一瞬の躊躇い、その果てにヘルトの口から、せめぎ合いの勝者が這い出た。
「……いえ、何もありませんでしたよ、叔父上。ええ、特筆すべき事は、何も」
本来なら。本来の自分であれば、こんな判断はくださなかったはずだと、ヘルトは一人胸中で呟く。正しいと思った事を、ただ成したはずだ。
だが、今この心の中に生まれた衝動を、正義という名の布で覆い隠してしまうのは、それこそ欺瞞と呼ぶべき恥ずべき行為ではないかと、そう思う。
ゆえに、ヘルト・スタンレーは決断した。正義と善意ではなく、己の内から湧き出た意志に選択を預け、ガルーアマリアにその身を留めることを。