第三十九話『我が共犯者』
フィアラート・ラ・ボルゴグラードが目を覚ました時、誰も其処にいなかった。
いつも通りの学院の寮、使い慣れたベッドに横になったまま、フィアラートの瞼が数度瞬く。
何時も通りの光景だ。部屋の中には誰もおらず、実験器具や、散乱した本が積み上げられているだけ。頭の中は靄がかかったように明瞭でなく、少しふらつく。
――もしかすると、あれは夢だったのではないだろうか。
そんな思いが何の脈絡もなく、フィアラートの胸中に産声をあげる。その黒い瞳に映る光景が、余りに何時もと変わらなくて。普遍的すぎる情景。変わらぬ朝の様子。ああ、そうだろうとも。いるはずがない。私の為に命を掛けてくれる存在などいるものか。何とも、馬鹿らしい夢を見たものだ。私は強く、強くあらねばならないのに。
きっと、ギルドなぞに、依頼をしにいったのが悪かった。あれで何か世界が開けるのではと、思い違いをしてしまったのだ。
フィアラートは黒い瞳を伏せ、思考を落ち着かせるように吐息を漏らす。短慮だった。ギルドを通じて外の世界へと出て、そうして自身を嘲弄した者達を見返す。そんな刹那的な感情の為、愚かな短慮に走ってしまった。
都市国家の生まれではない彼女には、正式な魔術師ギルドは利用できない。魔術師ギルドは、あくまでもガルーアマリアの魔術師を肥えさせ、国家の利益とするもの。フィアラートのような余所者は、その対象ではない。
さて、何時も通りだ。今日も何時も通りの日常が始まる。ヘルト・スタンレーと合流し、魔術の講義を受け、研究に努める。それだけだ。それだけだというのに、ああ、何故。何故こうも心の中は空虚なのだろう。何時ものそれと、何ら変わらぬというのに。心はどうして、苦しみに震えているのだろうか。
足が、どうしても学院へと向かわず、ヘルトとの待ち合わせ場所にも、行けず。その日初めて、フィアラートは、魔術の講義を欠席した。誰も気に留めなかった。誰も、興味を抱かなかった、そんな些事には。
「何してるのよ、私は……」
顔を俯け、思わずフィアラートの唇から言葉が漏れる。足指のつま先を丸め、市内を意味もなく散策する。何もない。何もあるわけがない。だが、心の何処かが欠落を訴えている。
戻りたくないと、あの日常へ戻るのは御免だと、心臓が胸を引き裂き、外へと出て躍動したがっている。蔑まれ、見くびられ、己の意見が尊重される事は決してない。そんな日常へは、とても戻りたくないと心は訴えている。
だが、私には何もない。夢、全ては夢なのだと、そう心の中でフィアラートは呟く。ヘルトにも悪い事をした。確か起床するすぐその時まで、近くにいてくれていた気がする。後で謝罪し、また、研究を手伝ってもらうように頼まなければ。
――だって、私の為に何かをしてくれるのは、ヘルト・スタンレーしかいないのだから。
黒髪を揺らし、大きく溜息をつきながら、自然と足が外へと繋がる大門へと向いていた。白昼夢に連れられるよう、フィアラートは石造りの大門に寄りかかって外を見つめる。
確か、此処だ。夢の中では此処で、あの男と合流を果たしたのだ。そうして、それで。
フィアラートの黒く大きな瞳が、より大きく、見開かれる。新調したであろう緑の服を纏い、揺れ動く大きな樽と、貧民窟の方へと足を向ける人影。
夢の続きが、其処にいた。
*
「仰る通り、悪党の密会さ、此れは――愛しのガルーアマリアを、どうやってこの腕に抱き寄せるかってよ」
フィアラートの脳内は深くかかった靄が晴れたように、その男を思い出していた。
私を救いあげた彼。その矜持の為に命を賭けた彼、ルーギス。そうだとも、あれは夢なのではない。脳が日々の慰めに作り上げた妄想などでは断じてない。
彼は確かに存在し、そうして、私に語り掛けている。そして、ああ、そう、まるで信じられない悪夢のような言葉を紡ぎあげている。
黒い瞳が、部屋の中の面々を見つめ、思考を纏めるように唇を開く。
「……正気の言葉じゃないわ。まさかとは思うけれど、貴方、何処かの国の間者だとかそういうわけ?」
表情を青ざめさせたフィアラートの問いに、まさか、とルーギスは大袈裟に肩を竦めた。
「今日お会いした聖女様がマリアに夢中でね。命を拾いあげて貰う代わり、その肩くらいは持たなきゃならなくなった」
「それって、紋章教と手を組んで、って事。余計に、正気じゃないわ。過去の万人が手をだし、誰もその偉業を成せなかった。いえ、違う。万が一、それを完遂できたとしても」
それは、世界の敵になるという事じゃないの。フィアラートの唇から零れた音は、そう言外に告げていた。
考えるだけでも恐ろしい。この周辺各国はその大部分が大聖教所属の下、統治が成されている。紋章教への迫害、弾圧の程度に関しては勿論差異はあるが、ガルーアマリアがその手によって陥落したとなれば別だ。
大聖堂は正式な紋章教討滅のお触れを出す好機を得、そしてどの王も、大義があればこの都市国家ガルーアマリアの利権を見逃しはしない。
間違いない。ガルーアマリアへの攻撃は失敗すれど、成功すれど、紋章教徒は世界の敵になる。フィアラートの両脚が、何かに掴まれたかのように竦み、硬直する。その全身は強張り、全身の血流が猛り狂ったかのように早まっているのが分かった。
「冗談、よね。冗談といって、ルーギス。貴方は利用されてるだけ、聖女だって、この人たちだって、貴方の事をこれっぽちでも考えてると思うの!?」
部屋の中にいた男性と、少女。二人の目つきが少し強まったのが、フィアラートには分かった。警戒するような、こちらを押しとどめようとするようなそんな視線。だが知らない。そんな事は知った事じゃない。フィアラートの脳裏には、あの地下神殿での一幕が浮かんでいる。全身に火を灯らせ、自身を助け、そのまま絶命しようとしたルーギスの姿。ああ、嫌だ。あんな光景はもう二度とみたくない。彼を、ルーギスをもう、失おうとは思わない。ガルーアマリアの奪還などと、そんな狂気染みた妄想の為に、彼を殺すわけにはいかない。
自らに当てられた視線にフィアラートが返したもの、それは見るものを全てを凍てつかせるような瞳だった。その黒い瞳には何者も跳ね返す、意志が煌く。もう何者にも、この意志は侵させまいとする、強固な光。
「大体、貴方は冒険者でしょう。事を起こせば、間違いなくその身分は剥奪される。こんな事に加担して、再び昼間の世界を歩けるわけないじゃないの」
そう、冒険者というのは吹けば飛ぶ程度の小さな身分。紋章教徒に与してガルーアマリアへの攻勢に加担したなどと、そんな事が周知の事となれば、もはや通常になど生きられない。貴族や上級階級ならまだしも、低劣な庶民如きには名誉挽回の機会も、汚名を返上する場面も与えられはしない。
ルーギスの頬が、ぴくりと、揺れた。彼に、言葉は届いているのだろうか。フィアラートの瞳には、もはや感情が大粒の涙として零れ出ている。嫌だ。嫌なのだ。貴方が失われるなど。懸命に生きる者が死ぬなどと、ああいや、違う。そんな建て前など、もうどうでも良い。
――私を、命を賭して私を救ってくれた人が死ぬのを、どうして許容できようか。
その華奢な肩に黒髪が垂れ下がる。息は荒れ、感情は全身を揺らしている。身体には熱がこもり、全身を行き渡る血は毒でも含んだかのように熱い。
フィアラートの呼吸が落ち着くのを待つように、ルーギスは噛み煙草をゆっくりと懐にしまい込み、そうして、言葉を探すように口を開いた。
「俺は生まれに恵まれもしなければ、才も与えられず、神の寵愛も受けられなかった」
部屋に落とされたその言葉に、他の三者はやや、目を丸くする。その言葉は、フィアラートの激情への返答ではなく、まるで宥めすかすような言葉でもない。そう、言うなら独白のような言葉であったから。
「幾度も苦渋を舐めた。誰からも見くびられ、誰からも侮蔑された。ああ、それは仕方がない。仕方がないとも。何せ俺は、持たざる者なのだから」
フィアラートはその言葉に対する返答を持ちえなかった。見くびられ、侮蔑される屈辱をよりよく知っていたから。しかしてそれを、彼のように持たざる者だからと、受け入れる術を持っていなかったから。
「持たざる者は茨の棘が敷かれた道を歩き、その手足を自らの血で洗うしかない。誰もが踏みなれた道を行き、諦観と惰性に塗れた日々を送るのはもう、御免だ」
それは、酷く実感の籠った言葉。まるでそれをすでに経験したかのような。そしてその日々を、心の底から恐れている様な、そんな口ぶり。
「だから、決めた。この胸が決断を下したよ。聖女様がこちらを利用する気なら結構、精々俺も彼らを利用しよう。フィアラート、お前はどうだ」
どうだ、と、そう問われ、フィアラートの脳内は動転した。何を、だ。私に何を決断しろというのだ。出来ない。私にはそのような事、出来ない。今まで、ヘルトが守ってきてくれていた。例え私が道を踏み外そうと、ヘルトが導いてくれていた。しかし、彼は今此処にいない。
目の前にいるのは、ルーギス。貴方だけじゃない。
「紋章教の遺物を探っていたあんたに、宗教的な忌避感はないと踏んでるんだが 。地下神殿で、あんたは随分落ち込んでいる様子だった。あるんだろう、見くびられた記憶が。侮蔑され、屈辱を受けた経験が……勿論、断るならそれも良い。此処を走り出て、ガルーアマリアの衛兵詰め所に駆けこんだって良いさ」
それを俺は止めはしないよ、と、何時もの軽口とは違うトーンでもって、ルーギスは言った。
ああ、そういう事か。どうあっても私に決断しろと、そういうのだ、彼は。私の意志を、尊重してくれるのだ、ルーギスは。フィアラートの黒い瞳が揺れ、喉は緊張に渇き、肩が上下に動いた。
「――だが、願わくばこの手を取ってくれる事を」
そうして、差し出された無骨な手。人生を精神とともにすり減らし、魂を摩耗して生きて来た証。
構わない。私は、構わないの。世界の敵となろうとも、万人に侮蔑を受けようと、そう、構わない。ただ、一つ。そう、ただ一つの願いが叶うならば。
一瞬の間を置いて、フィアラートのきめ細やかな手が、無骨な手を握りこむ。頭の中に入り込んだ虚ろな靄は消え去り、その思考は明瞭なものへと姿を変えた。ああ、清々しい。なんと、清々しい気分だろうか。
「光栄だ、雇い主様――いや、違うな。ようこそ我が共犯者、フィアラート」
――そう、構わない。貴方が、永遠に私の味方であってくれるなら。