第三十七話『これはその契機である』
「彼女、聖女マティアは、果たして納得をしたのでしょうか、あの問答で」
蹄が地面を蹴り上げる音と、車輪の軋みだけが響く馬車内。誰もが静かに揺れに身を任せるなか、唯一唇を開いたのは、ヘルト・スタンレーだった。
「してねぇだろうさ。あれで納得をするのは、それこそ人を信じることしか知らない、聖女様そのものという事になる」
あの女がそんな柄に見えるのかと、自分の首を撫でた。
ヘルトの会話相手になるなんてのはどうにも勘弁願いたい気分だが。未だ意識を取り戻そうとしないフィアラート・ラ・ボルゴグラードと、傍らで瞳を閉じたカリアには返事のしようがない。仕方なく唇を開き、億劫そうに喉を登る言葉をひねり出す。
「だが、俺達を返してくれた。ありゃ奴の矜持か、誇りか。もしくは、本当に敬意を示してくれたのかもしれん」
そう、口にしながらも胸中ではその言葉を蹴り上げていた。
そんなわけがない。ああ、違うとも。そんな事はあり得ない。あの女は、マティアはそれほど甘い女ではない。数度、言葉を交わしただけだが、それは良く分かった。
あの女は、目的の為ならいくらでも己を正当化できる。例え教義を泥だらけにしようと、それを仕方のない犠牲だと肯定できる。その行為に、長け過ぎている女だ。ある種打算に果てなく特化しているともいえる。もし俺達を殺す必要があると思ったなら、どれほど教義に反逆した内容だろうがこの首を刎ねただろう。
だから、俺達の首がこうして繋がっているのは、奴の打算に釣り合ったからだ。そうでなければ、俺達全員あの場で仲良く、灰に塗れた地面を永遠の寝床にしていた。
上半身に、軽い肌着だけを羽織って、思わず歯噛みする。
そう、命は拾った。その代わり、とんでもない面倒事がこの肩に覆いかぶさってきた。軽い肌着が鉄の鎧にすら思える。とんでもない女だ、ああ、あの女、マティアめ。なんて、嫌な女なんだ。
あの女が最後に囁いた言葉が、この耳朶に未だこべりついて離れようとしない。
――では、私達の伝達役を決めましょう。アン。ラルグド・アンが、適任でしょうね。
そう、俺にだけ聞こえるように、奴は肩に手を乗せて囁いた。
傍から見れば、それは親しく別れを告げる男女のそれ。だが実際的には、魔女に呪いを吹き込まれたようなもの。言葉も、乗せられた指先も、妙に冷たく感じられた。
参った。大いに参った。精々舌先三寸で乗り切ってやろうと思っていたのだが、大いに裏目だ。箱庭暮らしの聖女と甘く見たのが不味かったと言える。フィアラートをヘルトの奴から切り離す方策もまだ定まっていないというのに、この身には厄介事ばかりが降りかかってくる。
「何にしろ一度、街に戻ってからだな。雇い主さんの様子はどんな感じで?」
肩を軽く竦め、揺れる床板に身を横倒しにしながら、軽い調子で言葉を投げた。ヘルトは横になったままのフィアラートに毛布を掛け直し、目を細めて口を開く。
「何せ、魔力を根底から使い果たしたようですから。気力も体力も、尽き果てたという所でしょう。暫くは魔術に関わらず、休養ですね」
なら、依頼は中断だと言っておいてくれと、ため息をついてそう言った。前金は今更返せやしないが、こんな不細工な仕事内容で報酬を頂くわけにもいかん。それはまた、俺には俺としての、冒険者としての矜持や打算というものも、当然入り混じっている。
ヘルトは何処か意外といったような、しかし興味深げに軽く頷き、伝えておきましょうと、そう呟いた。
*
ラルグド・アン。
ナインズさんに紹介された、都市国家ガルーアマリアの案内人。俺やカリアよりも、更に幾分か若さが見える少女。表情や所作は如何にも子供らしいのだが、その才は紛れもない本物だ。特に対人の交渉能力に関しては、疑う余地もない。
ああ、恐ろしいのは、そいつが旧教徒、紋章教に属する一人という事なのだが。勿論、ナインズさんからの紹介という事で予想はしていた。していたが、予想のみに終わるのと、実際にそうと聞くのとでは大違いだ。
待ち合わせ場所に指定された貧民窟の一角に、相変わらず大樽を背負って、ラルグド・アンは軽快な足取りで現れた。
「話は聞いていますよ、英雄殿。ああいや、勇者殿、の方がよろしいですかね、ルーギス様?」
くすくすと鈴を転がしたような声を喉から零し、失礼、とラルグド・アンはその佇まいを正した。
貧民窟の一角を、世間話を交わしながら歩く。互いにまだ、その懐を、胸中を探り合っている様なもの。本心も、取引も、全てはその後というわけだ。
「言ったろ、俺はそういった器じゃない。勇者や英雄なんてのは、重荷が好きな奴に背負わせりゃ良い。俺は、俺に必要な名声と金が得られればそれで良いのさ」
即ち、アリュエノを迎えに行ける程度の、冒険者としての成功、そして成功の目安となる金。
勇者や英雄。その二つ名に憧憬がないかと問われたなら、流石に答えに詰まる。しかし、まぁしかしだ。俺のような凡夫がその地平に手を伸ばせばどうなるのか、今回の件でよくよく理解した。
依頼を見てみろ。一歩間違えれば死。いや、実際には死んでいたのだ、俺は。そこを、才ある者。まさしく勇者英雄と呼ぶに相応しい者に救われただけ。
全くもって、如何ともしがたい。救いがたいのは俺の精神性という事か。
「さて……ではルーギス様。貴方は、私たちの目的をどれ程までご承知で、どれ程のご協力を頂けるのでしょう」
言葉を丁寧に、一つずつ紡ぐような口調。元々ラルグド・アンの口調は丁寧そのものだが、これはそれ以上。親しみをもった話し方ではなく、まるで空に言葉を放り投げるようなそれ。その瞳の光も、身体の所作も、何処か今までの彼女とは違う。
ああ、なるほど。これが彼女の、ラルグド・アンの本来の顔というわけか。
「どうやら、聖女様とのお話には私の名前を使われたようですが。貴方様は本来私たち、紋章教徒には深い関わりはないと、ナインズ様からはよくよく聞いております」
ああ、勿論、私如きの名前を使われるのは結構です、お幾らでも。そう付け加えながら、頬を緩めラルグド・アンは満面の笑みを浮かべる。その言葉は言外に、それが私たちの役に立つ事であるのならばと、そう告げていた。なるほど、かまをかける為とは言え、聖女との交渉中、取引相手として名前をだした事はすでに露見しているわけだ。
満面の笑みであるはずなのに、妙に胸を圧迫されるような、抑えつけられている様な感覚がする、そんな表情。
「全ては知らないさ。だが、耳に入る程度には」
耳に入る程度、とラルグド・アンが鸚鵡返しに、言葉を紡ぐ。大仰に頷き、しかして周囲に響かないように、声を出す。
「あんたらが、今まで誰にも身を許した事のない女、マリアを落とそうとしてる、少なくともそこまでは」
その言葉が終わるか、終わらないかといった所で、ラルグド・アンの雰囲気は変貌した。その笑みは何処か妖しい雰囲気を醸し出し、目端がぴくりと上がる。軽く首を縦に振って、言葉を選ぶようにして彼女は言った。
「なるほど、やはり貴方は英雄殿なのです、ルーギス様。ゆえに選択肢は二つ。契機を糧に這い上がるか、それとも」
――何者かの、糧となるか。
貧民窟の薄暗さの中、ラルグド・アンの妙に明るい調子の声が、周囲に溶けた。