第三十六話『勇者の目覚めと聖女の問いかけ』
鼻孔に入るのは、物が焦げた臭気。知らぬ内、煙でも吸い込んでしまっていたのか、肺が妙に痛む。喉を幾度も鳴らすが、身体の違和感は消えない。僅かに粘着質な痰が出ただけだった。
「――では、勇者よ。改めて問いましょう。貴方達の神が、私たちの神と同じか、それとも別の仮面を被った偽りの神なのか」
未だ呼吸すら落ち着かない状況で、その清廉さを保った声が、俺の耳朶に投げかけられる。
勘弁してくれ。こっちの思考は未だ纏まっちゃいない。むしろ、一晩くらいぐっすり草木のように眠る猶予を頂きたいものだ。眉間に皺を寄せたまま、座り込んだ姿勢から眼前の人物を見上げる。
落ち着いて来たとはいえ、未だ火事場と言えるであろう場に躊躇なく足を踏み入れ、そして一切その表情を変えない豪胆さ。全てが煤に覆われたと思われた世界の中で、声の持ち主だけは一人、周囲の空気を変質させるような存在感を放っていた。
彼女は、聖女と呼ばれた者。その瞳に煌く光は紛れもない信仰の証。すらりと長く伸ばしながらも綺麗に整えられた髪を見るに、もしかするとその生まれ自体は上級階級に属しているのかも知れない。その所作や厳かな雰囲気は何処までも洗練されており、何か、己に出来ない大事を成してくれるのではないかと、凡人の期待を擽る。
なるほど確かに、聖女と尊ばれるわけだ。人を惹き付ける要素を間違いなく持っている。これを、いわゆるカリスマと、人は呼ぶのだろう。全くもって、俺には縁がないものだ。思わず鼻を鳴らす。
「少しは待ってくれよ。こっちはまだ本当に生きてるのか、それとも実は死んでて、あんたが地獄の番人なのか決めかねてる心地なんだからよ」
懐から噛み煙草を取り出そうと胸元に手がいくが、手がそのまま空をきった。焼け出された時に新調したばかりの服と合わせて焼失してしまっていると分かってはいたのだが、手癖というのはそうそう治るものではないらしい。
忌々しげに奥歯を噛んで、一瞬目を細める。恐らく、この質問に即答するのは賢い選択じゃあない。相手は聖女を中心に、殺気立った信者方が十数名。誰もがぎらつく瞳でこちらを見つめている。もはやその視線は獲物を狙う猛禽類のそれだ。反対に、こちらの面子はカリア、ヘルト・スタンレー。そして気絶して今も夢の中にいるフィアラート・ラ・ボルゴグラードのみ。
困惑だの苦悩だのといった感情が詰まった深いため息をその場に出すと、肺がちくりと、痛んだ。
俺は確かに、見事に死に至ったはずなのに、どうしてこんな事になっているのかね。天上から見下ろしてるというのなら、答えてほしいもんだ。なぁ、神様よ。
*
死の淵に片足どころか両脚を踏み入れ、もう二度と役目もあるまいと、そう高を括っていた俺の瞳に光りが差し込んだ。反射的に瞼を閉じて目を細める。数度瞬き、ようやく瞳が再度その役割を果たそうとした時、視界に入り込んできたのは一人の少女。
見事な銀髪を二つの房にし、長剣を携えたカリア、その人だった。不機嫌そうに眉間を歪めたその姿は、どうにも剣呑な雰囲気を発している。
しかし不思議な話だ。死神の友人となってあの世に向かうのは、精々が俺と、フィアラートくらいものだと思っていたのだが。この女が死ぬというのは、とてもじゃないが想像がつかない。ああいや、それともよくある、天上か地獄かに行く際の水先案内人というやつだろうか。聞けば、生前の知人、その姿を模して現れるらしい。
「ようやくお目覚めか。よもや演劇に出てくる、永遠の眠り姫の真似事でもしていたのか、貴様は」
頬を意地悪くつりあげ、なら接吻でもしてやった方が良かったか、と言い放つカリアの姿に、俺はなるほど、と軽く胸中で相槌を打った。
納得した。これは偽物や、その姿を模したものでも何でもない。カリアという女そのものだ。その無駄に人の精神を逆撫でするような言い回しは、この女以外に出来る芸当ではない。大体、知人を模して水先案内人が出てくるなら、せめてアリュエノにしてもらいたい。この性悪女が最期に出てくるようなら、地獄の番人自らお出ましいただく方がまだマシだというものだ。
しかし、だとするなら。目の前のカリアが模倣でなく本物だと言うならば、俺は生きて、己の身体でこうして瞳を開いているということになる。
それは、何故。未だ上手く思考が回らない鈍重な頭に、その疑問だけが浮かびあがる。俺はこの身を炎に差し出し、それこそ臓腑の奥底まで熱に侵されたはず。人間なら、その結果待つものは紛れもない死でしかない。
ぼんやりと、口角を下げながら唇を噛む。
「……まぁ、そうだな。礼なら奴に言って置け、貴様の命があるのは紛れもなく、奴の功績だ。それと、私の宝剣のな」
何処か身の入らない声を出しながらカリアが指した先には、ヘルト・スタンレーに介抱され地べたに横になっているフィアラートの姿があった。
理由は、フィアラートの魔術による回復。完全に腑に落ちたわけでもないが、彼女の仕業であると言われれば、ある程度の理解は及ぶ。
あれは紛れもない天才だ。例え魔術が使えぬなどと弱音を吐いていても、言葉通り火事場でその才を発揮した、というのならば辻褄は合うだろう。
まぁ、だとしても、それで何故この身を救ったのかはよく分からない所ではあるが。フィアラートにとって、俺など路傍の石に近しい存在だろうに。ああいやそれとも、この時代の彼女には、価値なき小石にも与える良心が残っていたのやも知れない。
――コツ、コツ。
不思議と部屋全体に響き渡る足音。意識して鳴らしている様なそれが、明確にこちらに近づいている。しかも、複数。
不味いな。咄嗟に歯が噛み合わさる。こちらは少なくとも、フィアラートは戦闘不能。俺も瞳が未だ視界に慣れていないのか、眼前では光が明滅している。身体の方も、違和感というのか、異物感というのか。何にしろ後遺症が残っている様で本調子とはとても言えない。カリアと、ヘルト・スタンレー。この二人だけでなら、大抵の危機は乗り切れる。しかし、足手まといを連れてとなれば、そうもいくまい。
思考が鈍間な速度で脳内を這いずっている内、足音の正体はすぐ露わになった。大方の予想は勿論、ついていたのだが。灰を踏み散らし、焼け焦げた異物を丁寧に避けながら、その女は俺達の前に現れた。十数名の武装した兵士を連れて。
「その勇気に賞賛を、名も知らぬ方。智者と勇者は尊ぶべし、その教義に倣い、私も貴方に敬意を払いましょう」
それは、聖女と、そう呼ばれた女。先ほど礼拝堂で聞いた怒声に近い声とは違う、丁寧に過ぎる言葉遣いに、反射的に身体の中が底冷えする。
それは、即ち悪寒。経験則から来るものもあるが、丁寧な言葉遣いというのは、得てして腹に一物抱えたものが使うものだ。王宮で貴族たちが、悪意を言葉のベールで被う様に、貧者が富む者へ媚び、その分け前を狙う様に。
この女は、何か企みを持っている。間違いなく。でなければ、護衛には過分と言える十数名もの兵士を背後に連れて来るものか。
「このような火事場での挨拶、失礼。私はマティア。聖女マティアと、そう呼ばれています。といっても、聖女などと呼ばれる資格は私にはありませんが」
発する声の響きは確かに清らかさを持ち併せ、何処か人を惹き付ける。まるで裏表などないと言外に告げるような、清廉さ。ああ、だからこそ恐ろしい。臓腑が裏返るようだ。こいつら旧教徒の企みというのは、禄でもない事に決まっているのだから。
「そいつはどうも、光栄ですな。ええと、なら聖女様の顔に免じて、今回の騒ぎも一つ、お許し願いたいのですが」
不幸な行き違いという事で、と冗談めかして、探るようにそう告げる。一瞬聖女の目の端が、動いたのが見て取れた。
「ええ、最初から、この胸中に怒りなどありません。紋章教徒にとって、全ての命、物品はいずれ神の下へとお返しする定め。焼け果て、失われた品々は、全て神へと集約されるのみ。つまり失われるという事それ自体が、神の御意思なのです。それを恨み辛みとすることほど、愚かなことはあるでしょうか」
カリアが無言で相槌するように顎を頷かせているが、恐らく彼女、そしてヘルトも気づいているはずだ。
これは詭弁か、例えそれが真だったとしても、その説が通じているのは彼女、聖女マティアだけ。後ろに控える面々を見れば良く分かる。その瞳には憤激の情が浮かび、手足の震えは感情を無理矢理押し殺している証拠。胸の内はぐつぐつと煮えたぎっていることだろう。
危機はまだ、依然として去っていない。俺達は、一触即発の最中に放り込まれている。
「思えば、貴方たちの目的すら聞いてはいませんでした――では、勇者よ。改めて問いましょう。貴方達の神が、私たちの神と同じか、それとも別の仮面を被った偽りの神なのか」
なんの悪意も、そして善意もないように。ただただ、当然の事を聞くような口ぶりで、聖女マティアはそう告げた。