第三十五話『彼を鋳造するは我』
倒れ伏したルーギスの様態は紛れもなく危篤、重態と呼べるそれ。
右手から肩に掛けては焼け爛れ、炭化していないのが奇跡に等しく、背中を中心に上半身も皮膚の変質が著しい。赤黒いその光景はとても直視に耐えうるものとは言えず、フィアラート・ラ・ボルゴグラードの表情が歪む。
だが、ここで救わなければ彼は死ぬ。フィアラートは自らの足取りがふらつくのも構わず、倒れ伏したルーギスの下へ寄りそう。
今だ。このタイミングでしかない。放火騒ぎも信者による必死の鎮火作業により落ち着きを見せ始めている。ルーギスを助け得るのは、彼らがこちらに構っている暇がない、この時だけだ。このままこの重態を放置すれば迎えるのは間違いなく死神の手、よしんば生き残ったとしても、必ずその身体には障害が残る。冒険者としての生命は絶望的だ。
ああ、そんな事は許さない。フィアラートの両手が傷に押し付けられた。肌に触れたとは思えない感触が手の平に広がる。私は彼を、ルーギスを救うとそう決めた。彼こそが黄金たるべきと、そう確信した。そう、その彼がこのまま、此処で朽ち果てるなど許せるものか。
再び、フィアラートの唇が魔術を唱えんと形を、変える。
「……げ、ふぁ……ッ!?」
喉が詰まる。本来声に絡まるはずの魔力がまるで出力されない。身体から、それこそ髪先から足指まで、感覚を駆け巡らせようと、一切の魔力反応がない。
フィアラートの表情が、青ざめ、瞳が悔恨と絶望に染まる。彼女はこの感覚をよくよく理解していた。かつて、未だ努力を信望していた頃、此の状態になるまで日々努力を積み重ねていた。
即ちこれは、魔力の枯渇現象。少ないのではなく、枯渇。この状態になれば、魔術師は相応の休養を取らねば魔術行使など出来ない。
幾ら魔力を捻りだそうと集中しようと、手先には何も集約されず、喉は音の出し方を忘れたかのように、声を出力しない。
ああ、嘘だ。こんな事が、あるものなの。
黒いその瞳に、涙が浮かぶ。やっと、やっとなのだ。私はようやく、己の道を見いだせたのだ。その道が、ルーギスという人が、息絶えようとしている。だというのに、やはり私は何も出来ない。今までと変
わらない。役立たずでしかない。
こんな事なら、死んでしまえば良かった。こんな、希望を見させられた後に、地獄の淵に叩き落されるなら、炎に抱かれて、彼と共に死んだ方が良かった。それこそが、紛れもない救いというものだ。
フィアラートの胸中が黒く塗りつぶされ、地底へと引きずり込まれていく。目を伏せ、顔を俯かせかけた彼女。その耳朶に突如、二つの声色が響き渡った。女と、男の声。
「魔力の枯渇か。無理をするものだな」
「表情にもう濃い隈が出来ています、休んでくださいフィアラート。そのまま魔力を使い切れば、貴女も無事ではすみません」
そう言い、男の手が差し伸べられる。
声の一つは、フィアラートにとってはよくよく聞き覚えのある声。それは紛れもない、ヘルト・スタンレーの声色だった。差し伸べられる手は優しく、表情はフィアラートを案じたもの。そしてもう一つは、ルーギスの傍らに常に付き従っていた、女剣士、カリアと名乗る少女のもの。
二人とも、服装の何処かに煤がつき、恐らく返り血と思われる赤い模様を付けている。だが、その表面に大した傷は見て取れない。
俯かせた状態から顔をあげ、二人の姿を認識した時にフィアラートが胸中に宿したものは、二つの相反する感情。
一つは、安堵。
ああ、これで彼は助かる。彼らは紛れもなく才あるもの。鎮火し始めたとはいえこの喧噪の中を、殆ど無傷のまま潜り抜けて来たのであろうその様子からも分かる。彼らは黄金そのもの。だから、もう何も心配する必要はない。これで全ては、めでたく収まるのだから。
そして二つ目は、その胸を凍り付かせるような憎悪。
フィアラートの身体が強張り、奥歯がぎりと、軋みをあげる。ああ、またか。またなのか。私や彼、ルーギスが渾身を尽くした後、結局最後は貴方たち、黄金が奪い去っていくのか。やめてくれ。そんな現実はいらない。黄金に頼らねば何も出来ぬと知らしめられるくらいなら、此処で彼と二人死に絶えさせて欲しかった。
尊厳と自立心を引き換えに与えられる安堵。そんな天上から差し伸べられる手を、須らく貧者が歓迎するだろうか。フィアラートは指先が無意識に震えるのを見た。瞼に映るのは先ほどのルーギスの勇姿。彼は紛れもなく尊厳を守る為に行動し、その結果、死を享受しようとした。死神の鎌を友とし、自分を保ったまま死のうとした。
ああ、それは何と甘美な事だろう。果たして私に、そんな行動が選択できるだろうか。死の先にある甘い果実を、手に取ることができるだろうか。
僅かに、フィアラートは二人から顔を逸らし、その端正な表情を歪める。その瞳には確かに、悔し涙が浮かんでいた。
「いいや駄目だ。フィアラートと言ったな、貴様にはもう一つ働いてもらう」
フィアラートを休ませようと手を差し伸べたヘルトを遮り、カリアがそう断言する。確信したように歩みながら、彼女は瓦礫の中からそれを、拾い上げた。
一見して、それは大して価値のあるように見えないもの。古びた剣のような様相で、骨董品として一定の価値があるか、ないかといった所。ああ、そういえばルーギスが腰に下げていた剣は、その物品だったようにも、フィアラートには思われた。そう思っても、確信できかねるほど、見た目としてはあり触れた代物。
「――これは、我が家の家宝。伝承では、神秘とも奇跡とも呼ばれたもの。その効能に関しては私も分からん。ただ、魔力にて精製された事だけは確かだ」
使えと、そう言い放ちカリアは剣を無造作に放り投げる。フィアラートは戸惑いながらも、丁度胸元に投げ渡されたその古びた剣を、両手で受け取った。
ああ、これは異物だ。受け取った瞬間、フィアラートの喉から、感嘆のため息が漏れた。此れが、剣としてどれ程の効能があるのかは魔術師である彼女には分からない。だがこれは、鉄の一枚、その柄に至るまで、押し並べて魔力にて編み込まれている。果たして今の時代、一流の魔法使い、魔術師を各国から集めた所で、これを再現できるだろうか。
掴むフィアラートの両手が、思わず汗で滲む。
「説明はいらん。どうせこの冒険主義者の愚か者が、勝手な事をやったのだろう。……口惜しい事に、私には手の出しようがない」
ゆえに貴様に任せる、と呟いたその声色に、思わずフィアラートは耳を疑い、奇異な視線をカリアへと送った。
表情こそ、切れ長の瞳を細め、その小さな唇を締めた凛然とした様子を崩しはしない。だが、紛れもなくその声色と銀色の瞳に滲む感情は、悔しさ、口惜しさに他ならない。
私が出来るのであれば、貴様なぞに任せぬものを、と、カリアの瞳は雄弁に語っている。その両手は固く組まれ、感情の発露を抑えているよう。
「……ええ、この全霊を尽くしてでも」
フィアラートの唇の端が、つりあがる事を抑えきれないでいる。
ああ、私だ。この人を救うのは私なのだ。カリアの助力があったのは確か、一人では諦めていた事も確か。だが今この時、彼を、ルーギスを救うのは天才たちではない、私なのだ。
両手で掴んだ宝剣を自らの魔力に変換し、重ねるように編み込み、そうしてそのまま、ルーギスの身体へと押し当てていく。フィアラートの指が、血に塗れ、汚れていった。だが、そんな事はもはや思慮の外。
瞼を閉じ、脳内に浮かぶ羊皮紙にインクが押し当てられるのを見た。
如何にしてこの魔力の塊を使い、ルーギスの身体を修復するか。その道筋を、今この場でくみ上げねばならない。既存の魔術を使うのとは訳が違う。脳内では手がとまらずに、その魔術理論を羊皮紙に書き連ねていく。知らぬはずの魔術理論が綺麗に組みあがっていく感覚は、奇妙で、しかして何処か心地よい。幼少の頃から、似たような考えはあった。外部魔力を人に組み込み、皮膚の、身体の欠損の一部分とする方法。それは他者に詭弁と嘲笑われた理論。
だが、今この時は己の頭の中でその理論は紛れもない輝きを発している。フィアラートは目を見開くと、瞬きもしないまま、喉を開き魔術のブレスを捧げる。
――願わくばこの手に、彼の者を鋳造する術を。
それは、世界を変質させる術。根底を塗り替える魔術理論。将来において魔術の歴史、その分岐点を作り上げ、変革者の二つ名を与えられたフィアラートの本領といって良い。
眼を疑う光景だった。魔力の塊、宝剣が、ルーギスの身体へと埋まっていく。魔力が剣の型を形成したまま、ルーギスなるものと同一の存在に変貌していく。ルーギスは宝剣へ、宝剣はルーギスへと。そうなれば、宝剣は気づかざるを得ない。己の欠損、修復の必要性。そうしてそれらを修繕すべく、宝剣は余りある魔力を即座に全身に回し始めた。
その効能は素晴らしい。ルーギスの全身を魔力が覆い、循環する。元々魔力など持ちようもないはずのその身体が、魔力と手を取り合い、もはや友人となりながら焼け爛れた皮膚を、変質した身体を修復していく。
フィアラートは眼を見開いたまま、至福の表情でルーギスの様子を見つめている。この身体は私が鋳造したのだと、そう、誇らしげにするように。
しかし、もはやその精神力は限界を超え、尽き果てる所まで来ている。視線はルーギスを向いていても、もはや視認する事は困難となり、その全身の肌を汗が舐めている。
最期の指、その一本が修復されきったのを見たフィアラートは、そのままルーギスへと倒れ込むようにして、失神した。
*
「止めんのか」
カリアは忌々しげに唇を尖らせたまま、八つ当たりをするように、ヘルト・スタンレーへと呟いた。カリアの隣に立ち、ため息をついたヘルトは口を開く。
「止めようとすれば、貴方がボクを止めるでしょう。勿論、フィアラートの命を賭して行えというのなら、剣を引き抜いてでも止めますが」
言葉を選ぶようにして時折口を止めながら、ヘルトは話を続ける。
「それに、此れは良い機会だと思います。彼女、フィアラートは強気でありながらも、何処か自信がありませんでした。彼女の為を想えばこそ、今は止めるべきではないでしょう。ボクは、貴女が思っているほどに過保護というわけでもありません」
その口から紡がれる言葉に、ふと、カリアは銀髪を揺らした。
なるほどそれが、この男の善意で、正しい事というわけだ、と思わず腕を組んで眉を顰める。疑問は、幾つかその胸の内にあった。しかしカリアは敢えてその疑問を、口に出そうとは思わなかった。何か、ヘルトに言葉を紡がせるのが余り良い結果を齎さない。そんな奇妙な予感が、カリアにはあった。
「しかし貴様、アレとは気が合わなさそうだ。貴様の正しさとは相反するような輩だからな」
顎をあげてルーギスを指し示すカリアの言葉に、指を自らの頬に這わせて、ヘルトは答える。
「そこはまだよく、分かりません。噛み合うとも、噛み合わぬとも思える。不思議な方です。ですが」
興味はあります。その言葉に、カリアの背筋は軽く寒気を覚える。その理由までは、彼女には掴めなかった。