第三十一話『虜囚とその悍ましい者』
「不敬者達。貴方たちにも時間をあげましょう。自らの不敬と罪を深く後悔し、そして我らが神へと懺悔する時間を」
そう好きなように言い残し、聖女と呼ばれた女は、踵を返して礼拝堂へと帰っていく。なるほど俺達には欠片も興味がなさそうだ。精々盗掘者とでも思っているのだろう。いや、それが事実なのだが。
本がうず高く積まれ、小物がいやというほど散乱した部屋。先ほどまでフィアラート・ ラ・ボルゴグラードが陽気なステップを踏んでいた部屋の片隅が、今は俺達の居場所だった。
隣には背中を丸めこみ、その瞳を大いに潤ませたフィアラート。その四肢の至る所に、悲劇を表現する要素が備わっているようだった。例えば悲嘆に暮れる泣き濡れた頬だとか、幽鬼のように青白い怯え切ったその両肩だとか。
しかしそれも、全く無理はない。何せ、自らの命を狙う首切り役人が幾人も部屋の中をうろつき、脱出口は遥か遠い。おまけにその両手は後ろ手に縛られている状況では尚の事。
俺も苦手な女が相手とはいえ、涙をふき取ってやるくらいの度量は見せたいのだが。何せ俺もまるっきり同じ恰好であるわけで。精々頭を突き出すくらいしか出来そうにない。
魔獣脂を使った燭台、陶器で形作られたそれが、俺達を見張る様に目の前に置かれている。その揺らめく炎から作られる影が呑気に壁に寝転がっており、俺達が少しでも動けばよくよく周囲の視界に入るようになっているらしい。
「そんで、俺らは何時まで生きられるんで?」
死ぬ、死んじゃう、と小声で呟き続けているフィアラートを後目に、乾いた唇を濡らすようにして、見張りへと声を掛ける。
反応はない。なるほど、見張りは虜囚と言葉を交わしてはいけない、その程度の事は弁えているらしい。
まぁ、例え口が利けたにしろ、交渉や金で釣られる輩とも思えんが。何せあいては歴史上有名な狂信者の軍団、紋章騎士団様とその御一行であられるわけで。
肺の奥からひねり出すようにして、大きく、そして暗澹とした溜め息を漏らした。
状況は不味い。大いに不味い。先ほどよりも兵の数が少ないのは、他の侵入者、詰まる所カリアと、ヘルト・スタンレーを捕らえにいったからだ。無論、奴らは捕まらん。手練れ相手であろうと、簡単に捕まるほど柔な奴らではない。それはよくよく理解している。それに、もしかすると俺とフィアラートがトラップに掛かったのを見て、街へ引き返している可能性もある。
つまり、問題があるのは全てこちら側だ。大方連中が俺達を生かしてるのは、残りの侵入者への対処方法の一つ、もしくは、後程拷問でもして情報を吐かせようってな腹に違いあるまい。今のところは縛られて放置されてるだけである以上、前者の方がありそうな話だ。勿論、両方という線もあるのだが。
しかしそうだとして、奴らにも堪忍袋の緒というものがある。この先、生きるも死ぬも奴らの手のひらの上ってのはどうにも、心地よいもんじゃあない。
「ヘルト……ヘルトォ……助けてぇ……」
そして、隣のフィアラートも、この状態が続けばもちそうにない。頬を何度もその瞳から漏れる水分で濡らしながら、虚ろな表情でヘルト・スタンレーの事を呼び続けている。
かつての旅の時、彼女のこんな様子を見たことがなかった。取り乱している様子は勿論、此処までヘルトに寄りかかっているものとは、思いもしなかった。
瞼が一瞬震え、額が熱くなったのが分かる。なるほど確かに、奴は頼りになる男だろう。こんな時だろうが、奴ならあっさりと解決してしまう様が、俺の頭の中にだって過ぎってしまう。何も出来ず、無様に捕まっている俺とは違って、だ。
「はぁ……あんたねぇ、そんな弱音ばっか吐いててもしかたねぇでしょう。ほれ、こいつを何とかしてくださいよ」
そう、小声で囁きながら、後ろ手に縛られた縄を見せるように動く。影は、僅かに揺らめくのみだ。
唯一この状況で幸いなのは、フィアラートが魔術師だと奴らに露見していない事だけ。
今の彼女は魔具の一つも持っていなければ、目に見える場所に刻印も施していない。それに、魔術師は俺のような薄汚い冒険者を隣に置くことは少ない。未だ気づかれていないのであれば、これは好機だ。
この程度の簡単な縄であれば、フィアラートが風の流れを手繰るか、もしくは火花を起こせば焼き切れる。身動きが自由になれば、こちらにもやりようってもんがあるさ。先刻のように、真正面からというわけでもないんだ。
俺の言葉に、フィアラートは一瞬押し黙ると、ぼそりと何事かを呟いた。その泣きぬれた頬を、魔獣の脂が生み出す炎が照らす。
「……無理。こんな状況で、そんなの出来ない」
唇を尖らせて、涙を双眸に溜めて呟かれたそれは、彼女に似合わない、まるで拗ねたような口ぶりだった。その様子に最初は目を剥いて、そして次に眉間に皺を寄せて口を開く。
「いや、出来ないってこたないでしょ。ちょろっと魔術で操作してもらうだけですよ。天才のあんたならできるって……」
「だから、天才って何よ。馬鹿にしてるの……ああ、それともこの期に及んでからかってるわけ」
その言葉は投げやりで、ぶっきらぼうで、取り付く島もない。
言い切ると、再びフィアラートは涙を零す。そして頬が濡れ切ると、彼女は自嘲したような表情を浮かべた。
この様子は、あまりにあんまりだ。取り乱すにも程がある。こんな様子は見たことがない、ではなく、想像すらした事がない。あの、フィアラートが。あの、魔術師殿が。
「私なんて……私なんて、幼い頃から、人並みに何か出来たことなんて何もない。人並み以下に、器用貧乏には色々できたけどね」
そんな私が、こんな、陸に集中も出来ない状況で、魔術を使えるわけないじゃない、と。フィアラートはか細い声で言った。
頭が、空となった。脳裏には何も思い浮かばず、唇は言葉を紡ぐことはなく。暫くそのまま、何ともうまく、彼女の言葉を咀嚼する事ができずにいた。
人並みに出来たことがない。彼女が。フィアラート・ラ・ボルゴグラードが。馬鹿を言え。救世の旅の中でも、圧倒的に多彩な分野へ精通し、何であろうと人並み以上にこなしていたのが彼女だ。少なくとも、ああ少なくとも、常にそう在ろうとしていた女が、フィアラートであるはずだ。
だというのに、何だこの少女は。余りにも小さく、怯え、震え、吹けば飛んでしまいそうなほどか弱い少女は。
「どうせ、無理なの。ずっとそう、諦めてばっかり。私になんて、出来るはずないの。意地になって学院にまで留学して、とうとうこんな所にまで来ちゃったけど、最後は無残に死ぬだけ。馬鹿な最後よね。ああ、きっと私は一族の笑いものよ」
頭が痛くなりそうだ。諦めてばかり。馬鹿を言うな、それは誰のセリフだと思ってる。
第一、彼女はガルーアマリアにおいても、才女として尊ばれたのではなかったのか。少なくとも俺が伝え聞いていた話しではそう成っていた。
何だというんだ、一体。俺が知らない所で、物語が捻りでも加えられたというのか。それとも、元々フィアラートという少女はこうであり、何か切っ掛けがあって、変生したとでも、いうのか。
何とかフィアラートの自虐を押しとどめようと、口の中で言葉を練り始めた時。その言葉が、彼女の小さな唇から、零れた。
「大体、貴方の縄が切れた所で、一体何が、できるっていうのよ」
それは、まるで八つ当たりのような一言。涙声で、呂律もあまり回っておらず、泣きじゃくった子供が発するのような言葉。
目を細めて、その言葉を受け止める。背筋は冷ややかなもので貫かれたように動かず、知らぬ内に瞼を剥いていた。身体は強張り、血流は自ら熱を持つようにして全身を駆け巡る。
「同じよ。貴方だって、同じ。貴方には何もできやしない。こうやって不様に捕まって、助けが来るのを待つのがやっとじゃない……」
思考はやけに綺麗だった。その途切れ途切れの声を一つ残らず拾い集め、頭の中で無理やりに組み立てていく。心音はもはや潜む事もなく鳴り響き、世界に轟かんばかりだった。
「ああ、一緒に捕まったのが……ヘルト、ヘルト・スタンレーだったら良かったのに……!」
悍ましい程の感情が、踵から、指先から、果ては髪の毛の先から、這い上ってくるのを、感じていた。