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第二十九話『我は正しき者にあらず』

「ボクは今、フィアラートが心配で堪りません。胸中は今にも張り裂けそうです。貴方という目がなければ、取り乱してすらいたかもしれません。ですから、言っておきたい。もし、万が一彼が、フィアラートに危害を加えているような事があれば――ボクは彼と敵対します」


 薄暗い地下神殿の中、ぽぉっとした灯りが周囲を照らすだけのその空間で、自らの白い指を見据えたまま、カリア・バードニックはその言葉に眉を捻った。


 おかしな事だ。いいや、むしろこれが正常であるのだろうか。だが自らの心情がどうにも理解しかねる。


 ヘルト・スタンレー。彼は間違いなく正しさを是とする人間であり、そしてその言葉には真摯さが籠る。信頼出来るか出来ないかで言えば、恐らく信頼できるのだろう。


 しかし、出会ったのは数日前。むしろこうして真面に言葉を交わしたのは今此処でが初めてだ。だというのに、何故だ。何故だろうか。何故こんなにも、さも彼の言葉が正しいかのように、思われるのだろう。ルーギスの奴が、フィアラート・ラ・ボルゴグラードに危害を加えていると言った瞬間、まるでそれが真実であると、脳が判断を下しかけた。


「……それは今、問答することではない。その時になれば、私は必要な処断をする」


「その真摯な言葉が、正当なものであることを祈りましょう」


 自分が発した言葉でありながら、カリアはその内容の醜悪さに辟易した。必要な時に必要な処断をする。


 何という言い逃れだ。己が最も憎む、曖昧、誤魔化し、ペテンの類ではないか。やはりおかしい。今この思考はどこか真面ではない。そう確信できる。しかし何故。理由が分からない。


 ルーギス。奴は、ヘルトの言う通り善人とはとても言えない。飄々としていながら、涼しい顔で悪事を成す。人を騙しにかける事も平気だろう。ヘルトは悪辣とまでは言えないと言葉にしたが、短くも妙に濃厚な付き合いを経たカリアからすれば、間違いなく悪辣な類に入る。目的の為には手段を選ばない、そういう輩だ。


 ああ、ではやはり。ヘルト・スタンレーのいう事は正しいのか。


 直感だけでない、推察でもそう賽の目は出た。であるならば、そうであるならば、正しい事に従うべきだ。


「どうしました、カリアさん?」


 ふと、考え事をしてしまった所為だろう。俯いたまま自然と足が止まっていた。石畳に、僅かな灯りで照らされた影が揺らめく。


 何でもないと、そう応え。更に言葉を続けようとした。貴様が正しいと。正しいことは、当然にそう行うべきだと。灯りは少ないにも関わらず、ヘルトの存在感は熱を増すばかり。太陽のような潔癖さと、真実を照らしめるその光。ああ、なるほどやはり、それは正しいのだ。


 俯いた状態から、カリアが顔を上げようとした時、一瞬、目の端で何かが動いた。


 それは、影だ。影が、光に逆らう様に、揺らめき、動き、形を成してカリアの眼中に留まっていた。


 ――それは神の寵愛を受けし者の言葉、もたれかかり寄りかかるのは、なんと素敵なことだろう。


 影だ。それは影が話しかけてきている。その言葉が、耳に響いているのだと理解できてしまう。


 余りにもあり得ない事に、カリアはぱちぱちと目を瞬かせ、出かかった言葉を素早く息と同時に飲み込んだ。


 ――故に、見限るなら見限るが良い、カリア・バードニック。飼い慣らされた羊が、盲目的に羊飼いに従い、そのまま崖の下へと落ちるように。何も考えず、何も疑問に思わない。


 その言葉は実に荒々しい、嵐のような有様。下手な演劇を目の前で上演されているかのよう。身体は凍り付いたように動かず、喉も震えることすら出来ない。


 だが、その内容には承服できない。思わず、動かないはずのカリアの奥歯が鳴った。


 ――まさしくそれは至福だろう。溺れろ、溺れてしまえ。さぁそうして、理性など捨て去ってしまうがいい!


 黙れ。その言葉は喉から出ず、僅かに口内が震えただけ。


 カリアの身体は髪の毛の先から、足の爪に至るまでが毒を盛られたように燃え盛っている。胸中は沸騰し泡を噴出させ、その表情は動かすことさえ出来れば、凶相が浮かびかねない。


 だが、紛れもなくその銀の瞳には、燃え盛る憤怒が煌いている。ああ、そうだ。何ということだ。くだらない。ああ、くだらないとも。


 正しいことが素晴らしい。どの口でその言葉を発し、どの頭でその考えを思い浮かべるというのだ。ギルドの禁を破り、大木の森に踏み入った身で。騎士階級として、余りに奔放な生き方をしてきた身で。


 思わず、カリアの脳内に、この世全てをあざ笑うような、そんな嘲弄が浮かんだ。


 ――私を誰だと思っている。無法と共に家ですら踏み捨てた、カリア。愚かなカリア。


 影を睨み付け、言葉を返すように、カリアは心の中で発した。


 カリアは軽く肩を竦める。不思議と、もう身体は動くようになっていた。影も、すでに言葉を発しようとはしない。それが幻聴であったのか、真実、影が発した言葉であったのか。それはもう分からない。


 結果の為には手段を選ばない。当然の事だ。私だってそうだった。それを急に是正し、捻じ曲げろ

と。それこそ、己の矜持を踏みにじるものではないか。


「……ああいや、決めたのさ。もし、ルーギスが不法を行っていた場合、だったな」


 足を止めたままのカリアを見つめる、ヘルトにそう言葉を返す。その存在は未だに神々しく、紛れもない熱を放っている。


「ええ。今は契約上、フィアラートは彼に手を出せない。何が起こっていても、それはおかしな事ではないと、ボクは思います。であれば、その時の責任はボクが受けなくては。あの時、フィアラートを止められなかった責任を――その時に、貴女まで手に掛けたくはない」


「そうか」


 なるほど正しかろう。素晴らしい。喜びすら感じる。カリアは再び身体を動かし、銀色の髪の毛、その房を跳ねさせ、腰元の剣を、揺らした。


「では残念だが相いれない。貴様がどう思うかは知らんが、奴は、ルーギスは私の命を救い、名誉を守った」


 大型魔獣との闘い。コーリデン砦での問答。そして、バードニック家よりの脱出。


 どれもこれも、無法ばかりだった。本当に、仕方のない奴だと、カリアは何か微笑ましいものをみるような、そんな微笑を浮かべる。


 それは見ている者も和ませるような、優美な笑み。晴れやかで、温厚さを感じさせる笑みだった。


 そうそれが、銀の長剣を引き抜いたカリアが浮かべるものでなければ、間違いなく。


「私は正しい事は己で決める。私を此処に導いたのは奴。そしてその手を取ると決めたのは、私だ。であれば、もはや選択は決まっている――私と奴は、仲間なのだからな」


 心が弾けた。そんな感覚にカリアは陥る。ああなるほど、これはもしかすると、奴を想う、そういう心情なのかもしれない。重い枷が取れたようですらある。しかしこれは恋慕だとか、情愛、色事などでは表しきれまい。であるからこそ、仲間と、そう言い切る。


 暗い、未だ薄暗い地下通路の中。銀の長剣を引き抜き切ったカリアと、目を見開き驚愕の表情を浮かべたヘルトが、静かに対峙していた。

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