第二十八話『真摯なる者』
人体が壁に埋もれた、いや吸い込まれたと、そう表現すべきだろうか。カリア・バードニックは怪訝な表情で眉間に皺を寄せながら、石造りの壁を白い指でなぞってみる。そこからは当然の感触が返ってくるだけで、先ほどのように罠が発動する気配はない。
思わずカリアの口内が舌を打った。このような陳腐な仕掛けに身を任せるなぞ、何を考えているのだ。それもあの女、確かフィアラートなどと名乗る魔術師を連れて。
「指針を決めましょう。状況は最悪です。パーティは分断、合流の目途は無し。最善は勿論、救援を求めて都市まで帰還すること」
この男、ヘルト・スタンレーのいう事は正道である。それこそ一かけらの曇りもない。
罠でパーティが分断された上、救援に向かって二次災害に陥るなぞというのは余りに不出来。取りえる手段として最良であるのが二人だけでこの場を脱出し、救援を呼びに戻ること。次点が、暫く此処で様子を見、離れたメンバーが罠を脱するのを期待する。愚策が残った者らで救援へと向かうこと。
カリア・バードニックは銀の瞳を細く揺らしながら、一瞬言葉を脳内で蠢かした。そして、舌に言葉をのせる。
「いや、前進する。後退は余りに結果に期待できない。結果を求めるなら、最上のものを」
「奇遇ですね。ボクも同じ思いです。時間は巻き戻らない。遅れれば遅れるほど、救助の可能性は減じる」
銀髪を揺らしながら放たれた言葉に、間断なくヘルトは頷いた。
敢えて愚策を選ぶことこそが良であるのだと、両名は断じていた。それはどこまでも感情的でありながら、理性的な打算の結果でもある。
本日、此処には何日も野営をするための装備などもってきてはいない。一人が持っているのは精々が一日分の食料と水。そしてガルーアマリアからこの神殿までは馬車で一日。例えその脚を存分に働かせたとしても、救援を呼んでこの場に戻るには都合二日は最低かかる。
五体満足であるのならば、それでも問題はない。高々一日ほど食料がないだけで人は死にはしない。上手く節約すれば、二日分程度はもたせられる。
だが罠にかかったとなれば、五体満足でない可能性も十分だ。負傷、大怪我、四肢の喪失、出血過多。そうなれば例え一日でも無事かは分からない。であれば、であるのであれば、行くべきであろう。その身を案じるのであれば。早急に物事にあたることこそが、最善の策なのだ。
「それに、あの男はきっと罠にかかろうが先に行っている。ああ、そういう人間だ奴は」
皮肉ったような、仕方がないとでもいうような声色で、カリアは言葉を石造りの廊下へと染み渡らせた。周囲は暗く、灯りをつけてやっと周囲が見渡せる。地下神殿というだけはあり、その奥深くに本堂は隠されているのだろう。元々、神秘の象徴たる神殿を地下に隠匿するというだけでも異常なことだ。迫害され、身を追われた紋章教徒達であればこそ、このような不法を思いついたのであろうが。その構造はカリアには全く想像がつかない。
だというのにあの男はと、思わず想像の中のルーギスの姿に、カリアは笑みを浮かべ、喉を鳴らした。
「……このような危急の時の話ではないとは思いますが、もしかするとカリアさんは、高貴な出の生まれでは?」
その感情の零れを耳ざとく聞きつけたのか、灯りを持って前を歩くヘルトが言った。何故そう思うのか、とカリアが聞くと、ヘルトは柔らかい口調で返してくる。
肌の焼け具合も、声の調子も、言葉の使い方も、低劣な庶民と高貴な者の出では当然に格差がある。庶民に洗練された言葉づかいは必要なく、過酷な肉体労働に酷使される身体となれば、その肌は焼け、身体の形にも特徴が表れる。
そのような者とは外れる、妙に浮き出た存在がギルドにいたものだから、最初からカリアの事が気にはなっていたと、ヘルトは続けた。
なるほど。カリアは自らの白い指を見つめながら自然と頷いていた、確かに、その通りなのだろうと。この手は剣は握れど農作業などしたことはなく、麦の摘み方も知りはしない。工具の握り方も、雑巾の絞り方も。そう思うと、何ともこの手が頼りないものであるかのように思えてきた。そうだ、確か、奴の手は異様に、そうそれこそ煤けていたという表現が相応しいかのような、そんな手をしていた。
「では、もう一つ疑問が。カリアさんとルーギスさんとは、どういう御縁で」
妙に、言葉を選んでいるような話し方で。それはヘルトの胸中に存在する真摯さと、潔癖さの表れだったのかも知れない。
「意味が分からないな。私がどのような者と共にあろうと勝手だろう?」
「ええ、それは勿論。ですが、出自が違う者どうしが一緒にいるというのは、中々に珍しいでしょう」
それは、やはり当然だ。カリアとルーギス。この二人が同じ出自の者かと問われれば、その特徴が違いすぎる。カリアの節々に醸し出される所作や雰囲気が高貴なものであれば、ルーギスの在り方は、まさしく庶民のそれだ。
カリアは顎を撫でた。例えばカリアが主人であり、ルーギスが従僕であるというのなら何ら不思議はなく納得されるだろう。しかし、ギルドでの取引や此処に至るまでの過程からして、中々そうとは言い切れない。いやまず第一に、カリア自身も、己とルーギスとの関係性を上手く掴めてなどいなかった。
「なんと、言ったものかな。私と奴の関係か……」
「ええ、こう不思議というか。カリアさんは、ルーギスさんをとても、信頼。そうですね、信頼されている。もしやお二人は恋仲なのかなと、詮もない事を考えてしまったもので」
その言葉に、思わずカリアの思考が静止する。それは何者かわからぬものの手で、脳漿を鷲掴みにされたかのようだった。
恋仲。互いに愛し合い、相思相愛である者たち。愛を囁き、紡ぎ合う間柄。私と、奴が。いや、それはあるまい。そんな事はあるまい。まだ会って間もないわけで、身分も違えば、生き方も違う。そんな二人が相思相愛であるなどと、そんな事があり得るだろうか。うむ、そうだあり得るはずがない。
いや待てよ、カリアは自身のその思考を一度押しとどめる。しかし恋というものは至極刹那的に胸中に舞い降りるものであると聞いた覚えがある。であれば会ってからの期間などなんの証左ともならないわけで。
しかし、いや待て、そういった二つの思考を順繰りにしながら、むぅとカリアはその柔らかい唇を線にし、それから答えた。
「仲間。そう、仲間だな。それが一番相応しい」
そうだ。自分でそう言ったのではないかと、カリアは思考を持ち直した。その言い方が、一番ふさわしい。勿論、出自が違う者同士が仲間という間柄なのも、それはそれは奇異なものなのであるが。それは今はいいだろう。
ヘルトは、疑問を残した声でなるほど、とつぶやき。そして言葉を続けた。
「良い機会ですので、今言っておき、お聞きしておきたい――正直にいうと、ボクはあの方に余り良い印象を抱いておりません。危険視すらしています」
平時より少し、暗い。一つほど段階を落としたような声。その言葉に、何とも律儀なものだと、カリアは閉口した。
詰まる所、ヘルトの言わんとする事はこの一言だったのだろうと思う。だが、それを恋仲とも仲間ともわからないカリアの前で言い、尋ねるのは不義理であり時には無礼だと、そうヘルトは断じたのだろう。ゆえに態々カリアの口から関係性を探った上で、己の気持ちを吐露する。
真摯というべきか。生真面目というべきか。ある意味、奴とは真逆のタイプだとカリアは思わず頭に手を置いた。
「悪辣、とまでは言えないかも知れません。ですが間違いなく善良の者ではない。カリアさん、貴女はそれをご承知の上で、彼と一緒に?」
なるほど、彼、ヘルト・スタンレーとはこういう性格なのだと、カリアはこちらを振り向いたその端正な顔つきを見つつ、理解した。
正しくないものを、正しくないと言わずにはおれない。不正をそのままにはしておけない。正義と悪の関係を、正面から見つめ続ける。そういう何処までも真っ直ぐである者。それが彼なのだ。
「ボクは今、フィアラートが心配で堪りません。胸中は今にも張り裂けそうです。貴方という目がなければ、取り乱してすらいたかもしれません。ですから、言っておきたい。もし、万が一彼が、フィアラートに危害を加えているような事があれば――ボクは彼と敵対します」
その時、貴女はどうするのかと、そう問われている。カリアは言外の意味を漏れることなく受け止めていた。
突発的な組み合わせとは言え、パーティを組んでいる相手と敵対する。例え相手が先に手をだした上での想定だとしても、その思いが胸中にある事を伝えない事自体が不義。彼は、そう思っているわけだ。
カリアは、銀色の瞳を瞬かせ、言葉を舌の上でゆっくりと練った。