第二十五話『彼女の依頼と彼の条件』
「貴様はまるで雨季の空だな」
それはまた、カリアの雰囲気からはどうにも似合わない、詩的な言葉だった。
エールで唇を濡らしながら、彼女は不味いと顔を歪める。ガルガンティ商工ギルド、その備え付けの酒場も、店構えと同様に立派なもの。十分なスペースは勿論、荒くれが吐き出した吐瀉物の跡や、散らばったゴミも転がっていない。清潔感を保ち、心地よく酒を嗜め、次回の仕事への気力を蓄える場所。ギルドの酒場としては文句ないほどの一流だ。
少なくとも、以前俺が通っていた酒場からすれば、品位も酒の味も、格段に上のはずだが。騎士階級の舌というのは、庶民と比べて随分と贅沢につくられているらしい。
「自ら火炎の上で踊る火薬庫、と称しても良い。何時、何をしでかすのかは分からない。だが、何時か何処かで何かをしでかすというのは分かっている。見ているこちらとしては気が気ではない。コロッセオの猛獣の方がまだ大人しいというものだ」
単騎で大型魔獣に突貫するあんたほどじゃないがね、と言い返してやると、カリアは嘲ったように肩を竦めた。まるで何も分かっていない馬鹿者め、とでも言いたげだ。
カリアの視線が、傍らのラルグド・アンへと向けられる。
「貴様はどう思う、アン。会って間もない貴様の評価が、最も中立だろう?」
椅子替わりの大樽にのって水に舌を付けているラルグド・アンは、一瞬思案したように動きを止め、そしてすぐに唇を動かした。
「そうですねーっ。やはり世に語られる英雄殿というのは、俗人には分からぬ価値観と行動力を持っているものではないかと、そう推察します、はい」
その言い方は軽く濁しているようであるが、以前の発言と合わせて考えれば、遠回りに俺の行動が突飛だと指摘する棘を帯びている。カリアもそれを理解しているようで、勝ち誇ったようにこちらに視線を向け直した。
なるほど、確かに悪い。悪かったとも。端から見ていればそんな感想も抱くだろうさ。今回のフィアラート・ラ・ボルゴグラードへのアプローチに至っては、自分でもはっきりと掴みかねる衝動に突き動かされてのものなのだから、余計に性質が悪いと言える。
「しかし、来られますかねー。あの御方、ボルゴグラード様ですか。ああいう御方は、甘い話に簡単に乗る、成金商売のような事はされないと思うのですが」
なるほどやはり、彼女、ラルグド・アンは有能であるらしかった。
あの一幕を見ただけで、フィアラート・ラ・ボルゴグラード、その人物の怜悧さや考えの深さを、ある程度見極めているのだろう。人の事を推察する能力に長けているのかも知れない。
実際、ラルグド・アンは有能と言えるだけの能力を持っていた。ナインズさんの紹介状や名前もあったのかもしれないが、ギルドに入るなり即座に俺とカリアをギルド登録へと漕ぎつけるだけの話術、説得力、交渉能力。それらの対人能力を須らく所持している。ナインズさんの紹介で来た案内人というのは、名ばかりではない、という事らしい。
しかしそうなると、益々、大した力も持たない俺は肩身の狭い思いを強要されそうで、心ひそかに暗澹としたものを感じてもいる。
「来るさ」
ラルグド・アンの問いに、カリアは当然とばかりに頷いて言った。不味いと断じながらも、手元のエールを胃に注ぎ込んでいく。
「必ず来る。貴様は人を見る目はあるようだが、女心というものを分かっていないな」
ラルグド・アンが目を見張った。
正直な所、俺の中ではラルグド・アンは紛れもなく女の枠に入っている。カリアは男に入れるわけにはいかないが、女に安易にいれていいものかと非常に迷ってしまう。そのカリアが女心を語るとは、正直思いもよらなかった。
「一目みただけだが、あれは確かに甘い話に乗る愚物とは言えまい。だが、機会を逃す凡俗とも思わん――賭けるか?」
その確信めいた言葉に、樽に乗った少女はおおー、などと感心しているが、俺としてはその内容の何処に女心が関わっているのかを知りたかった。
賭けに乗るように、賞品のワインを一杯頼んでおく。その時ちらりと、カリアの目線がこちらを向いたのがわかった。
銀色の瞳から与えられる視線は妙に艶やかな熱が籠ったものであり、しかし反面、俺の身体そのものを刺すような鋭さも持ち合わせている。意味は分からない、だがその視線は確実に、何かの意図を持っている様であった。
胃が、捻りあげられたように痛む。どう転がったにしろ、その視線に良い予感はしない。俺の経験が、脳裏にそう告げていた。
――カラン、カラン
来客を告げる、扉についた鈴が鳴る。幾名は興味深そうに視線をやり、幾名は関心一つ寄せず酒と歓談を続ける。
そしてカリアは一人、私の勝ちだな、と賞品として、運ばれてきたばかりのワインに唇を付けた。
*
「依頼内容、条件を確認するわ」
フィアラート・ラ・ボルゴグラードの透き通るような声が酒場に響く。カリアのものとはまた違う。妙に耳に残る声だ。
こちらは、俺とカリア、そしてラルグド・アンの三人が。相手方は、フィアラートと、そして同席した、未来の救世者ヘルト・スタンレーの二人。都合五人がテーブルを囲んでいる。
努めて冷静にいられるよう、心の躍動を抑えつけ、どうぞ、と促すように唇を開いた。
「一つ、依頼内容は岬に存在する旧教、紋章教徒の地下神殿跡地への護衛、加えて探索への協力」
紋章教。正確な名前は確か拝象教だとかいう呼び方だった気もするが、今では良くて紋章教、大半には旧教、下手すれば異端教と呼ばれるのが常だ。
紋章教の神殿となればその多くは取り潰されるか、廃れていくかして失われたものが大半。勿論、細々と点在して信仰を捧げ続ける者はいるだろうが、大規模な神殿のようなものは、大聖教が主流となった此処一帯の周辺地域にはもう存在しないと断じていい。
神殿の跡地にしたって、大聖教の神殿として立て直されるか、立地が悪ければ放置され下手をすれば自然動物や魔獣の住処となっているだろう。どうやら、今回の依頼は後者にあたるようだ。
「二つ、もし何か遺失物を見つけたのであれば、漏れ無く私へ提出すること。これは必ず。当然、物次第では追加報酬も惜しまないわ」
見せつけるようにして、テーブルの上に貨幣を包んだ袋が置かれた。
散財や無駄な浪費を嫌うフィアラートが、こうも財力を前面に押し出すのは、珍しいを通り越して奇妙だ。その行動はまるで、何か気焦っているようにも感じられる。
勿論、俺はこの時の彼女を知りはしないのだから、この当時の彼女はこうだった、という可能性も捨てきれはしないが。
「ああ、俺は構わんさ。それで、こちらの条件を満たしていこうか」
フィアラートの口元が閉じられると、今度は目元が強く引き締まる。どうにも彼女は、表情やその動作に、自分の心情や意図がよくあらわれる人間のようだ。
指を一つ立て、口を開く。
「まず一つ目に、報酬とは別に前払い金を頂こう。依頼達成のためには、前準備は欠かせないだろう?」
こくりと、軽くフィアラートの顎が引かれる。
その隣では、条件を同様に聞くヘルト・スタンレーが目を細めた。
実際、今は金が欲しい。ナイフは一本折れたままであるし、宿屋に泊まる金も心もとない。こちらでの生活を落ち着かせる為にも、まずは確実な金が必要だった。
「そして、二つ目だ」
二本目の、指を立てる。フィアラートの顔に渋い色が混じった。先に聞かせていた為に理解してはいるだろうが、どうにも自分の中で消化しきれてはいないらしい。
自分の腕を、そっと撫でながら、彼女は続きを促すように視線を向けてくる。
「フィアラート・ラ・ボルゴグラード、あんたは魔術師だろう。であるならば、誓いの詞を――俺に決して危害を加えないと、そう誓ってもらおうか」
その喉が唾を飲み込み、眉間には皺が寄せられる。淡い色の唇を僅かに歯で噛みながら、魔術師殿はゆっくりと、だが確かに、その顎を頷かそうとした。その時、
「――待ってください。ボクは依頼の常識は知りませんが、誓いの詞が条件に入るというのは、幾らなんでも重すぎるんじゃないですか。つり合いが取れていない」
ヘルト・スタンレーの言葉が、割って入ってきた。
ああ、わかっていたとも。貴様が此方に噛みついてくること位は、重々承知していたさ。
彼の瞳に表れるのは、強い意志と、こちらに向けられる僅かな敵意。ああ、心地よいものだ。宿敵と思う相手から与えられる敵意とは、これほどまでに心地よいものなのだと、今、初めて理解した。