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第一話『その失意と選択』

 影はテーブルに腰かけたまま、如何にも胡散臭く、そして如何にも楽しそうに、言った。


「私はどこまで行っても運び人だ。貴様に選択を強制することはない。貴様が今のまま在るというのであれば、それを否定しない者だ」


 瞼が震える。暗闇の中、真っ黒なまま彼はどうする、とでも言いたげに、こちらに視線を向ける。いや、正確にはその姿は確認できないため、恐らくは、ということになるが。


 何だこいつは。いったいこいつは何なのだ。唐突にあらわれ、唐突に声を荒らげ俺に機会を与えるという。


 何故。いったい何が目的で。どんな手段で。


「貴様の疑問はおおよそのところ理解できる! そして答えも容易だ。だが残念だ。今の貴様に伝えることはできない。ああできないのだよ!」


 少し言葉を聞いただけで分かったことがある。こいつは、ひたすらに大仰な人間だ。


 相も変わらず、身体は凍り付いたように動かない。指先すら全く動く気配がなかった。口を開くことすらできない。だがこいつは、まるで俺の意図をくみ取ったかのように、一人言葉を続ける。


「ああ分かるとも。これでは私を信用することなど、できるはずもない。それはまるで羊が狼の言に盲従するようなもの! だが悲しいかな、私は説得する者でも、交渉する者でもない。ただ、運ぶ者でしかないのだ!」


 当たり前だ。身体中の、話す言葉の、いたる所から怪奇さを漏れ出させる奴の、どこを取って信用しろというのか。ああ、そうだ。信用など、できるはずもない。


 彼は俺の心情を置き去りにして、独白を続ける。


「私は運ぶ者。貴様に人生を塗り替える機会を与える者。何、そんな機会など望んではいないと断るのも、逆に諸手をあげて受け入れるのも貴様の自由だ! 故に、先に一つ告げなくてはならない」


 荒々しく、どこまでも自分本位で、本当に俺に話しかけているのかすら不明瞭だった彼の声が、明確に俺の方を向いた。


「私たちは、確かに利害を持って貴様に機会を与える。それは事実だ。当然のことだ。神に非ざる我々が、ただ何かを与えることなどあってはならない。貴様に機会を与えることは私たちに利がありと理解しているからこそ、私は運んできた」


 その声は、今までのどこかふざけた所を含んだ声色とは違った。とても真摯で、そして紛れもない彼自身の言葉のように思えた。だからと言って、その言葉が信用できるというわけでは勿論ないのだが。


「一度だ。これは一度だけの機会だ。貴様には幸運なことに選択する権利がある。さぁ」


 どうする、と影は問い、その煩過ぎる口をようやく閉じた。


 何がどうするだ、と思わず毒づきたくなる。俺には何の情報も、何の事実も与えられていない。ただ一方的に突き付けられ、一方的に答えを求められているだけだ。相変わらず、信用など、できるわけがなかった。


 口が開く。喉を空気が通る感触がした。声は出せそうだ。ここで大声を出せば、さすがに他のパーティーメンバーが気づくことだろう。そうなればさしものこいつも撤退せざるを得ない。俺は苦し紛れに、殺されてしまうかもしれないが。だがそれは、パーティーにおける俺の役目だ。


 ああそうだ、それが俺の役目だ。パーティーの危険を庇い、受け入れ、時には命を落とすのが。俺の役割である事に相違ない。だから、告げる言葉も決まっている。


「――受け入れるさ、勿論」


 当然の、言葉だった。


 信用できるはずがない。罠であるかもしれない。下手をすると魔術師殿の性質の悪い悪戯であるかもしれない。だとしても。ああ、だとしても。差し伸べられた手を叩き返すなんてことは、俺にはできそうもない。


「これは僥倖! 意外だな。貴様は捻れている様で、真っすぐな男でもある。であれば、当然に断る事も私たちは想定していたのだが!」


 勢いを取り戻したように彼は荒々しく、そして心なしか嬉し気に言葉を紡ぐ。


 意外か。確かに、普段の自分であればそうしただろう。たとえ命を落とすことになっても、パーティーに殉ずることを躊躇することはなかっただろう。だが、気づいてしまった。


「……分かったんだよ。今やっと分かった。このまま、何にもならない無為な時間を浪費し続けたところで、状況は何も変わらない。不変は腐敗を生み、そして俺は」


 身体も、いつの間にか動くようになっていた。今は、剣に手を伸ばす気力も無い。ただ、失意だけがあった。


「きっと諦めるだろう。いつかは知らない、どこかで」


 彼はその言葉に、押し黙った。それは言葉に詰まって口を閉じたのではなく、答えるべき言葉はあるが、それを伝えることはできないのだと。そう、言っているようだった。


 そっと俯き、目を瞑る。やはり、アリュエノの顔が浮かんだ。他のどんな美しい光景でも、財宝でもない。彼女の姿しか、瞼には映らなかった。この旅で、彼女の色んな面を瞳に焼き付けてきた。


 その美しい横顔も、健気な様も、慈愛の笑みも。


 そして、救世者と呼ばれる男に、恋慕の視線を送る姿も。


 諦めていないつもりだった。そのつもりだった。いつか、どこかでと。心の中ではそう思い続けてきた。だが、やはりダメだったのだ。


 俺の中には恋やぶれた失意と、それでも尚、彼女がそこにいるという事実だけでパーティに引っ付いてきた惰性しかなかった。


 そしてその旅の中で俺は、いつかきっと、諦めてしまうだろう。全てを。


「俺はそんなことに耐えられない。全てを諦めてしまうのなら。であるならば」


「手をとるというのだな。それがたとえ狼であろうと、悪魔の使いであろうとも!」


 影は、そっと俺に向かって手を伸ばした。


 その通りだ。もはや俺には何もない。アリュエノを失った人生に価値はない。それを塗り替えることができるというのであれば、たとえ相手が悪魔であろうと、契約しよう。


「歓迎しよう、ルーギス。貴様の参列を。そして与えよう、新たな機会を! 私は運ぶ者であればこそ!」


 不思議と、今まで見えていなかったその姿が、月明かりに照らされて見えた気がした。


 それは俺の幻覚であったかも知れないし、彼から受け取った印象が影に形を与えてしまっただけかも知れない。だが、そこに映っていた姿は。


 顔に線を入れたような笑み浮かべる、まさしく悪魔のような表情をした、紛れもない人間の姿だった。 

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