プロローグ『諦念の日々と奇妙な邂逅』
鉄製の鎧を外し、床に投げ捨てる。剣も腰元から外して、枕元へ。どちらも、鉛のような重さを身体に味わわせてくれた品だ。そうしてから、ようやくベッドへと腰を掛ける。
妙な感覚だった。足が座ることに慣れていないような、働かなくて良いことを不思議がっているような感覚。そう思ってふと、気付いた。ああそうだ、腰を落ち着けるのは、数日振りだった。
奇妙な脱力感と、じんわりと血液が脚全体に行き渡る感覚。さすがに、これ以上酷使してやるのは我が身体ながら不憫だ。夕飯に保存食すら食べていないが、このままベッドで横になった方が良い。きっと神様だってそう言ってくれるはずさ。
そうしてぼぉっとベッドに横たわり、疲労からようやく眠気が来てくれた頃。隣の部屋から、女の声が聞こえた。
しまったな、そう思い、心の中で舌打ちした。いつもは夜番や見張りについて距離をあけるか、もしくは今晩のように宿に泊まれる時は早々に寝てしまって凌いでいた。
ただの女の声なら、別に何とも思わない。だがそれは妙に艶やかで、明確に色気を含んだ声だった。女の高い声は、壁の隙間を容易に這い出てくる。
腕で目を隠すようにし、薄い上布団で体を覆う。一時はそれで幾分かマシになったが、夜が静寂を呼び込めばより強調された声が耳朶を打つ。
「参ったな……」
小声でそう呟き、明かりはつけずに体を起こした。鎧に手を忍ばせ、殆ど唯一の私物となってしまった噛み煙草を口に差し込む。噛みしめると、僅かに残った風味が気を紛らわせてくれた。
それでも依然、女の声は響いている。男の名前を呼ぶ声が聞こえる。その名前にも、そして響き続ける女の声にも、覚えがあった。
どちらも救世の旅に同行するパーティーのものに、違いなかった。
*
「今日も、ルーギスさんでいいんですか」
救世者と呼ばれる割に、その男の声は少し高く、優しげだった。
「いいさ。俺が番をやっている方が良い。そちらの方が、危急の時に動きやすい」
それは最初は事実であったような気がする。
実際夜目が一番利き、いざとなれば身体を張って時間を稼げる俺が夜の番をするのが、一番効率的でパーティーとしても抜けがない。
だが、最近は違った。自分から夜番を名乗りでるのは、純粋に、居心地が悪かったからだ。女どもの視線というべきか、雰囲気というべきか。とにかく、一人で夜番をしている方がずっとマシだった。
救世者と呼ばれる男は一瞬思いつめたように目を伏せるも、女の内の誰かに呼ばれると、頭を下げてそのまま行ってしまった。軽く手を振り、少しパーティの寝床から離れた岩場へと向かう。
あの声は妖精の姫君殿か。では今日は彼女の順番というわけだ。鎧の中に潜ませた噛み煙草を一人味わいながら目を細める。ここでなら声も届くまい。
救国の一行と呼ばれる我らがパーティも、旅を追うごとに豪華な面子になってきた。といっても、俺を除いてではあるが。
エルフの姫君、魔術師殿、騎士団の俊英……そして、吟遊詩人アリュエノ。
誰もかれも、国や、地方で一角の人物だ。それだけの面子を預けるということはこの旅路がそれだけ重要視されているということに他ならない。勿論、俺は別としてだが。
息を吐く。鼻孔を心地よい香りが通り、久方ぶりに落ち着いた気がした。
相変わらず、この旅路に何故俺のような人間が同行させられているのか分からない。特別秀でていた覚えも、彼らと肩を並べるような身分を持っていた覚えもない。剣の腕も特筆する所はなく、特技といえば精々夜目が利くくらいだ。
恐らくは、アリュエノの働きがあったのだろう。それくらいしか思いつかない。なにせ俺を推薦する人間となると、幼馴染の彼女くらいなものだから。
煙草を噛みすぎて、唾液が溜まってきた。その場に吐き捨て、鎧の中にしまい込む。
最初こそ、嬉しかったものだ。勿論、偉大な旅に同行できるからだとか、自身を認められる機会ができたからとかではない。
アリュエノが、一緒だったからだ。彼女は俺の幼馴染で、何より片思いの相手だった。長く供に有り、長く、想い続けた。その彼女との旅は心躍るものであったのは間違いなく、陽気に故郷を出たのをよく覚えている。
ああ、間違いなくあの時の俺は馬鹿だった。救世の旅などという大層なものに、俺が釣り合うとでも思っていたのだろうか。
旅に、いや救世者に同行する彼女ら。彼女らは間違いなく一流の人物であり、替えの利かない人材だ。そんな彼女らからすると、俺のような人間など酷くつまらなく、魅力のない人間に見えるのだろう。
俺とて、何もしていないわけではない。雑用も、索敵も、戦闘も。一通りはこなしている。だが彼女らの俺を見つめる瞳は、冷たい。目に見えて態度に出す者もいれば、出さない者もいるが。当てはめるなら冷遇、という言葉がその通りかも知れない。といっても、彼女からすれば俺の実力に見合った評価をしているだけだろうが。
その中でも、アリュエノは一人、俺を労わってくれる人間だった。この旅にあっても、彼女が元来から持つ慈愛は変わるものではなかった。それは、嬉しい限りだ。ああその通りだとも。
「救世者様、ね」
あの男は、明らかな異才だ。よく分かる。戦闘で隣にいるだけでも、その不可思議な強さと対応力には目を見張る。あの若さで、どうやってその力を身に着けたのか想像もつかない。紛れもない、異才。他の追随を許さない圧倒的な力。
そしてその姿は、当然のように女たちを魅了した。エルフの姫君も、魔術師殿も、騎士団の俊英も……そして、アリュエノすらも。
いつからそのような関係になっていたのか、それは定かではない。だが、俺が気付いた時には、彼女らはそのような関係にあったようだ。
今日もきっと、声が聞こえないどこかで救世者と呼ばれる男と、女たちは絡み合っている。
だから俺は何かしら口実を作っては、声の聞こえない場所を毎晩探す羽目になる。このところは、夜番にでて立ったまま僅かな睡眠を取る日々が続いていた。
まだ、他の女たちならいい。誰もかれも男なら手を出したくなるような女たちだ。羨ましいといえばその通りだが、まだそれはいい。
だが、もし。万が一。アリュエノの声が、聞こえてしまったら。
*
「……収まったか」
ようやく隣室からの声が収まり、一息がつけた。幸い、まだ夜は深い。今からなら十分ベッドに身を沈めて寝られるだろう。噛み煙草を鎧にしまおうと、暗闇の中に手を伸ばす。
「それで、いつまで今の旅を続ける気だ」
暗闇の中から、声が這い出る。
影が、見えた。それは人影。声は人のそれだ。その影は俺の鎧を足蹴にしながら、いつの間にか対面するようにテーブルに座っていた。
失態だ。声に気をとられたとはいえ、今の今まで侵入者に気が付かないなんて。咄嗟に枕元の剣に手を伸ばす。だが、
「礼を失したな。だが貴様に接触するにはこれが一番良い方法だと思われ、実際そうだった。許せ」
剣に手を伸ばしたところで、俺の体は凍りついたように動かなくなっていた。夜の静寂の中、心臓の鼓動が体内に響く。声をあげるどころか、口を開くことすら、できない。
「呼吸はできるはずだ。死にはしない。安心しろ、私はただの運び人。貴様に害を成そうと忍びこんだわけではない!」
話す内容は穏やかだったが、その言葉は実に荒々しく、何か不出来な演劇を見せられているようだった。不可解で、奇妙な人間だった。そして何より解せないのは、彼の姿が捉えられないことだ。暗闇の中に浮かぶ人影は見える。だが、その服装や顔立ち、細部に至る部分が一切認識できない。
あり得ない。夜目だけは自信がある。しかもすっかり暗闇に慣れた瞳で、この距離で、見れないなんてはずがない。
「認識しようとしたな! だが無理だよルーギス。私は君の特性をよく知っている。ならば相応の対策を打つのが当然というものだ!」
再び声を荒らげながら、さて、と男は言葉を落ち着けた。
対策。何故。理由がわからない。一切が不明だ。俺の対策をしてまで、俺の寝室に忍びこむ必要がどこにある。俺はこのパーティで一番不要な部分でしかないというのに。
「そうだそこだ、ルーギス。貴様いつまで今、そのままの位置に甘んじているつもりだ、ええおい?」
身体は依然として動かなかったが、喉が僅かに、鳴った。
影は、言葉を続ける。
「私は貴様に良い話を持ってきたのだよ! ああ、とても良い話だ! ここまで言うと貴様はちょっと警戒するかもしれない。そう思いつつ言わざるを得ない。とてもとても良い話だ!」
いや警戒自体はずっとしている。やはり、どこかズレた奴だ。不出来な存在だった。
「私は運び人。お前に機会を持ってきた。お前に一度だけ機会をやろう。全てを塗りつぶし、人生という絵画を描き直す機会を!」