幸運のサイコロ

作者: 秋雨康一

幸運のサイコロ


 この世のどこかにあるという幸運を呼ぶサイコロ。最初はただの夢物語だと思っていた。不景気になると人間は、少しでも楽しい事を考えるからだ。どこかのリストラにあったオヤジ達が作り出した希望の箱だと思っていた。

 だが、それは実在していた。

 今確かに、それは僕の目の前にあった。

 一見するとなんの変哲もないちっぽけなそれだが、そこから感じられる雰囲気は尋常一様のそれではない。物でしかないはずなのに、モノ以上のなにかを感じる。ただ見ているだけなのに、理由もなく優しい気分になる。肌身離さず身につけていれば、大きな幸福が舞い込んでくるような気さえした。

 見ているだけでは満足できない。僕は、それに触れようと手を伸ばした。

『思い出せ』

 だれかの声が聞こえたような気がした。一応周囲を見回したが誰もいないようだ。でも、確かに声はした。

『思い出せ。一から六までの数字が入る記憶を』

 やはり誰かの声がした。鼓膜からではない。頭の中に直接語りかけられているようだ。

 まさかとは思うのだが、その声の主は目の前のサイコロなのか?サイコロが僕に語りかけているというのか?ただ、なんとなくそんな気がした。

 その時逆らえない何かが僕の中に入ってきて、僕は、夢の中に溶け込んだ。



一…最初(一回目)のキス。

 初めてのキスは、一昨年の元旦。新しい年を迎えると同時に、僕たちはくちづけを交わした。初詣客でごった返す神社の鳥居の陰で、僕たちにとっての新しい時間が始まったんだ。キスの香りなんて覚えちゃいない。でも、心からあたたかな気持ちになれた。一回目だけに与えられる特別な気持ちだったんだ、あれは。


二…二人だけの時間。

 僕らは、いつも仲間と一緒だった。だから、二人だけの時間なんてほとんどなかったような気がする。みんなでワイワイ騒ぐことが楽しくて、そこからなかなか抜け出せなかった。でもある日、きみは言った。

「二人だけの思い出を作りましょう」

と。

 その一言は、仲間という殻を破れずにいた僕に力を与えてくれた。勇気の足りなかった情けない僕の背中を押してくれたと思っている。

 それから僕は変わったよね。なるべくきみと一緒にいるために、二人だけで出かけるようになった。買い物に行ったり、映画を観たり、旅行に出かけたりした。きみと僕だけの時間。その意味と大切さを、僕は心に刻んでいった。


三…正三角形

 きみの目指した恋愛の理想的な形。

「愛」と「自由」と「夢」。この三つの関係が、正三角形になれば、幸福な恋愛になると言っていたよね。

 愛ばかりが強すぎると、いつしかそれは嫉妬になる。嫉妬の愛に守られても、嬉しくはないと言っていたよね。世間を騒がせるストーカー殺人は、嫉妬の愛=歪んだ愛情がさせる行動。可愛さ余って憎さ百倍のそれは、確かに認めてもらえない愛の形だよ。きみの言っていたことは、とっても正しかったね。

 自由のない恋愛ほど、退屈なものもない。しきたりやテレビドラマで教えられる愛だけが恋愛の形じゃないことを、きみは知っていた。自由もなく束縛されること。日常生活の中には、確かにそう思えることがいくつもあった。

 自由って難しい。一言では説明しがたいけれど、きみは行動で示してくれたよね。決められた世界のかでしか生きることのできなかった僕に、きみは一条の光を射してくれたんだ。

 人には、誰にでも夢があると思っていた。幼い頃は、どうしてあんなに多くの夢を見ることができたんだろう。大人になった僕には、夢なんてなくなっていた。

 夢なんてかなわない。きっと心のどっかで諦めていたんだ。夢を叶える努力もしないで、誰かが夢まで導いてくれると思っていたから。僕は夢も持たず、抜け殻のような生活をしていた。

 きみは、そんな僕のために泣いたよね。

 僕は、恋愛から夢を見つけることを始めた。現実世界で強く思うことは、夢ではなくただの願望。「就職したい」「車が欲しい」ということは、希望であっても夢じゃない。国語辞典的には夢と同じ意味合いを持っていても、僕の感じるような夢じゃなかった。

 僕は、きみに夢の入口まで導いてもらったよ。

 僕は、きみの夢の手伝いをすることができたのかな。

 僕らの恋愛は、正三角形だったのかな。


四…四葉のクローバー。

 日本人の誰もが知る幸運のシンボルのひとつ。空のてっぺんまで上りつめた太陽の下、夢中になって探したことがあるよね。

 幸運を呼ぶと言うけれど、全ての人間が一つずつ四ツ葉のクローバーを持ったらどうなるんだろう。僕は、探しながらそんなことを考えていたよ。幸せの価値観なんて、人それぞれ違うというのに一体どうするというのか。無責任な話だと、僕は大人の、いや、夢のない人間の価値観で物事を見ていたんだ。

 でも、今ならわかるよ。きみと一緒に過ごしたあの時間が、幸福そのものだったということを。シンボルなんて関係ない、僕の気持ち次第で幸福はやってきていたということも。


五…四捨五入。

 四を捨てて五を入れる。小学校の算数で習ったときには、この言葉の使い道なんてわからなかった。でも、歳を重ねるにつれて使用頻度が格段に増えてきている。

 四捨五入して二十歳。それが今の僕の年齢だ。わざわざ若く自分の年齢を表すのは、それだけ今の自分に自信がないからかもしれない。年だけとってきて、中身は二十歳のままという恥ずかしい思いが、僕にそのような表現をさせているのかもしれない。

 自分の生きた年輪に自信がもてる。僕にそんな日が来るのだろうか。四捨五入から切り捨てで二十歳になりそうな僕に。


六…六日前。

 今思えば、毎日が幸せだったのだろう。でも、六日前に突如としてきみの時間は止まってしまった。交通事故で。

 息もしている。心臓も動いている。でもきみはもう、笑わない。夢も語ってくれない。魂の波動を歌にしてくれることもない。この状態でも、きみは生きているのか。僕には、なにもできないきみのきみとの戦い。

 医者の話では、きみのこの状態は長く続くらしいよ。

 僕は、ずっとひとりぼっちなのかな。これからどうしていけばいいんだろう。

 いつかきみは言っていたよね。

「人間も宇宙の一部なのよ」

って。

 このまま形を失って融けちゃうのかな。もう、僕のもとには戻ってこないのかな。



『あなたの思い出は、六個で九兆円です』

 僕はその声で我に返った。

 それにしても、九兆円とはどういうことだろう。他人(人)の思い出に値段なんて付けられるものか。

『あなたに九兆円分の幸せを授けましょう』

 これが幸運を呼ぶサイコロの力なのか?値段の限定された幸せって一体何だ。それよりも、それは本当に幸せなのか?

「ふざけるなっ」

 僕は、サイコロをとって思いっきり床に投げつけた。

 そして、その場を去った。



 結局、あれはなんだったのだろう。世の中は金がないと何もできない。それを叶えるためのものなのか。僕にとっては、記憶を巡らせる機会でしかなかった。

 ああ、いつの間に季節は春になっていたのだろう。僕の背丈よりも高く積み上げられていた雪が、今では僕のくるぶしほどまでしかない。雪はやがて溶けてなくなってしまうけれど、僕らの記憶が消えることはないよ。僕が生きている限り、きみが生きている限り。

 あの店の角を右に曲がり、次の信号を渡る。パンヤの角を左に曲がり、そのままずーっと真っ直ぐ歩いていくと、思い出の場所に着く。僕らが最初にキスしたあそこに。

 ところどころ色褪せた朱の鳥居。その陰で、きみが待っていてくれるような気がする。そして時間に遅れた僕の手を強く握るんだ。私の手は、あなたを待っている間にこんなにも冷たくなったんだよと、無言で僕のことを責めたっけ。

 でも、きみはいるはずもない。今頃は、病院のベッドの上だから。

「……」

 社務所へ続く石段を登っている時に、誰かが僕の名前を呼んだような気がした。思い出の鳥居を過ぎて、かなり来てからのことだ。一応周囲を見回したが、人の姿は見当たらない。幻聴まで聞こえるほど、僕の精神はまいっているのか。僕は、再び石段を登り始めた。

「……」

 いや、幻聴なんかじゃない。確かに誰かが僕の名前を読んでいる。

 ”誰か”じゃない。この声、忘れるはずもない声。彼女の声だ。

 僕は立ち止まって、魚群探知機のように注意深く周囲を見た。空を、自分の足元を、そして思い出の鳥居を。

「あ」

 僕は石段の上でバランスを崩してしまった。そのまま、情けない姿を晒しながら階段を転がり落ちた。

 とっさに頭を守ったからだろう、幸いにも意識はしっかりしている。その代わり全身が痛い。立ち上がろうとするも、手足から言葉には言い表せない痛みが襲ってくる。声に惑わされて、こんな惨めな状態になった自分が、なんだかとてもバカバカしくなった。自分というやつが、これほどまでに弱く、小さな人間だとは思ってもいなかった。いや、今まで気がつかなかっただけなんだろう。

 そんな僕のもとに、遠くから誰かが近づいて来る。痛みで首さえ動かせないが、足音が僕に近づいていた。

 足音が止まり、その人が僕の前にしゃがみこんだようだ。僕の眼前を影が覆った。そして、懐かしい匂いが、僕の嗅覚を刺激する。

「……」

 その人物は、僕の名前を呟いた。

 空耳じゃない。

 確かに、頭上から声が降ってきた。

「……」 

 僕もそれに答えるように名前を呼んだ。

 僕の顔の前でしゃがみこんでいるのは、彼女だった。包帯も巻いていないし、鼻腔に管もついていない。六日前の交通事故に遭う前の彼女がそこにいた。



 僕は今、入院している。神社の石段を転がり落ちて、複雑骨折をしてしまったからだ。幸いなことに右手は動くし、記憶の方もしっかりしている。脳には異常がないと検査で分かっていた。

 幸運を呼ぶサイコロ。あれは夢だったのだろうか。落ち込んだ僕が追い求めた、希望のかけらだったのかもしれない。僕は、思い出とお金を引替えにしなかった。お金だけでは本当の幸せをつかむことはできないということを、彼女自身を見て本能で教わっていたから。九兆円という途方もない金額でも、僕は叩き返した。

 その結果、僕は骨折して入院している。

 幸運のサイコロの幸運を拒否したから?いやいや、違う。お金ではなく、違う形で受け取ったから。僕は、この夢物語のような事実を自分の中でそうまとめた。

 僕は、痛みをこらえながら首を左に向けた。

 そこには、僕にとって最大とも言える幸福の象徴があった。あたたかな彼女の笑顔。僕が、最も望んだものだった。




FIN

この作品は、16年前に書きました。それを若干手直しして発表しました。

12年前に恋愛の正三角形を目指して結婚しましたが、今の三角形は「住宅ローン」「猫」「物欲」で成り立っています。なかなかうまくはいかないものです。

私の前に幸運のサイコロ出てこないかな。私なら間違いなく思い出と引き換えにお金をもらっちゃうでしょうね。年数を重ねてダメな大人になってしまいました。20代の若々しい感性を今もう一度手に入れたいものです。