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そこまで話すと、何かに耐えるように晶が口をつぐみ、大きく息を吐いた。唐突に訪れた静寂に、マリスは先を促して目の前の少女を見る。

まだあどけなさを残したこどもだ。よく観察すると大きな目は何かに怯えるようにせわしなくその視線を移している。先ほど静かに落ち着いて見えたのは彼女の精一杯の虚勢なのだろう。膝の上でぎゅっと握ったこぶしは小刻みに震えていた。ふよふよとPSPCが場違いにのんびりと浮いている。晶は時折何かを確認するようにその動きを目で追っていた。

「あんたの言いたいことは分かる。筋も通っていると思う。でもたとえ総帥閣下がナルメアを取り戻そうとしているとしても、すぐに同調率の引き下げの話にはならないんじゃないか?それこそ世界統一規格のプログラムだ。何十年もかけて移行していくことになると思うが」

 晶はマリスの発言にひたと視線を移す。そのうるんだ群青色の瞳はもうさきほどのように揺れてはおらず、一切の波紋も見られない。ああこのこどもは、不安を抱えていてもそれを理性で抑えることを知っているんだとマリスは悟った。

「サラクールが世界中央機構に所属しているのは、ナルメアを人質に取られていたからです。サラクール家は現在こそ財閥の宗主として知られていますが、もともとは研究者の一族です。MOウィルスの治療法を考えたのも、サラクール家の出身の研究者です。サラクールも一枚岩ではなく、大きな組織だからこそ様々な思惑を持つ分家がサラクールという強烈な統率者の下でまとまっている状態です。世界経済に根をはるサラクール財閥と、MOウィルスが現れた当初からの実績を持つ巨大研究組織としてのサラクールは別の組織だと考えてください。

研究組織としてのサラクールは、MOウィルスの治療法としてナルメアとの同調率の段階的な引き上げを提唱しています。全人類をカライア領域に意識のみの思念体としてとどめ置くメモリダイブを根本治療法としている。肉体を破壊し思考する生物を地球上から排除すると電磁生物は滅ぶという考え方です。たしかに電磁生物は肉体を持たず生命に寄生して生きる生物です。しかも高度な知性を持っている。知的生命体である人間を排除したら、彼らは行き場を失い淘汰される可能性は高い。実際にサラクールの研究者が暴走し、全人類をまきこんで、メモリダイブを試みようとした事例もあります。もちろん実行はされなかったので今があるのですが、強い思想を持つ何らかの組織や団体がサラクールの研究者に接触しメモリダイブを試みることを兄はとても警戒している。それもあって現在のナルメア依存をとても危険ととらえています。兄はおそらくナルメアを奪還すると世界中央機構からも距離をおくでしょう。すると兄のサラクール内での発言力がさらに増すことになる。兄を止める力を持つ者はサラクール家の中にはいません。それこそ世界中央機構のように外部の強い組織に足を引っ張ってもらわないと、兄を止めることはできなくなる。するとナルメアの次のプログラムとの引き継ぎが慎重にゆっくり行われれば行われるほどに、兄はナルメアと人類との距離を離すために同調率引き下げを進めるでしょう。移行がゆっくりであればあるほどその隙を兄に衝かれてしまう可能性が高いんです」

 難しい話になってきたなと脳筋代表を自任するマリスは遠い目をした。マックに視線を向けると、涼しい顔で水を飲んでいる。あ、こいつ考えることを放棄したなと理解した。

初めて聞く宇宙生物でもおなか一杯なのに、その生物との戦いと、戦う人類の中での激しい攻防など考えるより動けで生きてきたマリスにはついていけない。そんなマリスの心境を理解したのか、晶は困ったように空を仰いで口を開いた。

「ゼランス社が進める仮想空間事業は、メモリダイブのための下準備です。見たことありませんか?コマーシャル。『眠っている間に理想の貴方に』」

突然別次元の話から日常をぶちこまれて、マリスは目を瞬かす。ネット放送を見ていると時々挟み込まれる企業CMのうちの一つだ。ここ1年よく聞くフレーズである。

 仮想空間事業は大小さまざまな企業が投資する一大事業である。特殊な機器を装着し、専用アプリを介して睡眠導入すると仮想現実で自らのアバターを操作して、あたかも現実世界で生活しているようにふるまうことができるというものである。眠りにも影響はなく、いわゆる夢の中の出来事として人体は感知する。そのため覚醒当初はひどく朧気な記憶らしいが、アプリを介して覚醒時に追体験することによって、現実の記憶として定着することができる。まさに夢の中の出来事が現実になるのだ。

ここ5年で参入する企業も増え、コンテンツも爆発的に増加した。新しい娯楽としてスタートした事業は企業の垣根を越えて得意分野で手を結び、一つの大きな『世界』を作っている。まさに『眠っている間に理想の自分』として生活できるのだ。ゼランス社は最初に仮想現実事業を始めたIT企業で、現在ではほかに並ぶものがいない巨大企業に成長している。

「あれはメモリダイブのための下準備です。7年前にゼランス社に出資して仮想現実事業を後押ししたのは、サラクールの分家の一つミナミタ家でした。娯楽としての仮想現実は旧世界でも大人気でした。人々が今いる自分とは別の理想の自分を求めることは、旧時代の歴史が証明している。そこに嫌悪感なく誘導していくのが彼らの狙いです。メモリダイブは人類の意識を仮想現実に捉え肉体を放棄させることで成立する。そのある種の自殺への忌避感を、楽しい世界でくるんで忘れさせる。それがミナミタ家の狙いです。兄をはじめとするサラクール財閥の執行部はその思惑に気づいており、宗主として妨害をしているのですが、表向きは新事業への投資をしている優良企業です。手を引かせるのは難しいようです。このまま対処療法でメモリダイブ推進派に対処していてはいつか取り返しのつかないことになる、兄はそう思ったのだと思います」

晶はこの時期にナルメア奪還に踏み切ったのは不思議なことではないと言いたいのだろう。確かにもうすぐ開催予定の世界10か国会議のタイミングを逃すと、世界会議の開催は5年は待つことになる。ゼランス社の成長の速度を考えると、5年以上先の対応だと遅すぎる。

「兄がナルメアを取り戻すと、メモリダイブを理想とする組織に目に見えて対抗するために新規統一規格プログラムへの移行と同調率引き下げを進めることになります。おそらく早急なものになるでしょう。メモリダイブの技術自体はほぼ確立しているといっていいのです。実際に実用化し実行しようとした人間がいますから」

メモリダイブという言葉すら初めて聞いたのだ。それをなそうとした人物がいたといわれても、物語の中の話のような、どこか他人事のような感覚すらマリスにはある。だが実際にあったとこの少女がいうのならあったのだろう。

マリスは以前軍属ではあったが、末端の兵士だった。得意としたのは作戦の前哨である偵察だ。だから軍という組織の汚さや悪辣さというものからは基本的には遠い場所にいた。でも末端とはいえ組織に属したものとして、集団の恐ろしさというものを実感はしている。個対個とは違い組織対個は圧倒的に情報が隠される。マリスが就いた任務も、明かされたのはその計画の一端だけである。多くの人間は自分が何のために命をかけているのかすら認識せずに死んでいく。そういった仲間を多く見てきたし、実際に自分も死にかけた際に、どうして自分は死ぬのだろうと思った。

だから晶が言うメモリダイブが多くの人類に秘匿されたまま実行されようとしたことも、誰にも知らされることもなくそれが頓挫したことも、すっと信じることができた。おそらくメモリダイブなるものを実行しようとした人物も、何を背負い何を思い何を得ようとしたのか多くに知られることなく処理されたのだろう。

「世界中央機構は同調率引き下げには反対の立場を表明しています。今まで積み上げてきたものを放棄するには、人類を脅かすものが危険すぎるからです。でもメモリダイブをまるで危険から守ってくれる理想郷のように考えを持つ人間がいるのも確かです。そういった人間が着実に力をつけている。そのジレンマに世界中央機構も揺れています。ちょっとした刺激で兄の思考に呑まれかねない状況です。ここにきて世界10か国会議でのナルメアの奪還が成されると、危ういバランスが崩れて一気に同調率引き下げに世界が傾きかねません。少しでもいい。時間が欲しいんです」

「話は分かったが、あんたのしようとしていることが、ええとあんたの護衛の頭の中の爆弾の解除だったか?それが今の流れの時間稼ぎになるとは思えないんだが」

 マリスは高揚したように話す少女の言葉に言葉を挟んだ。どうも晶の言葉は無駄に力を持っている気がする。自分がこの少女の掌の上で転がされすぎているせいだろうか。どうにもゆっくりとかみしめながら聞かないと、またころりと転がされそうな気がするのだ。それは本能からの警告といってもよかった。

「アートはもともとはフィーグルス分家から宗家のフィーグルスに養子に入っていますが、のちに世界中央機構の関係者の養子になっています。現在は取引によりサラクール家付になっていますが、本来は硝流兄さまと対等である身分です。彼なら、兄さまを止めることができます」

「止めることが可能なだけだろう?実際に止めるかは分からない。アート・フィーグルスには彼なりの立場や思想があるはずだ」

「アートは止めますよ。彼の養親である世界中央機構の副会長は同調率引き下げには反対です。そこに同調こそすれ反対することはないでしょう。それにアートとアルフィアは、恋人同士ですから」

 若干ドヤ顔で演説でもするように述べた晶に、マリスは一瞬引いた。いやそれ関係ある?というのが本音である。ワールドワイドで手に汗握るファンタジー物語を聞いていたのに、一瞬で小さな額縁に入れられた恋物語の世界に叩き落されたような落差があった。

 恋や愛でどうにかなる話とは思えないが、言い切った満足感をあらわにこちらをみつめる少女に言葉を失い、マックに視線を移す。マックも無意味に鼻の頭を掻いて、「いやそれ関係ないと思う」とマリスと同意見を代弁してくれた。

「同調率下げると、恋人が死んじゃうかもしれないんですよ。下げるの反対するでしょう?」

 少し不満そうに唇を尖らせる晶は、先ほどまでの大人びた雰囲気はみじんも感じさせない年相応といった幼さだ。夢見るような瞳はキラキラと輝き、いやまさか本気で思ってないよなとマリスは戦慄する。

 事態は世界を巻き込む案件だ。それこそメモリダイブなるものを実行されると、人類は肉体を捨てることになる。それを阻止するとかいう話ではなかったか?

 そもそも知りもしない女と、ちょっと噂を聞いたことがある男が恋人同士だろうが何だろうが、それで世界の差し迫った自体がどうにかなるとは思えない。まあアート・フィーグルスに関しては、硝流・サラクールが恋人だと言われるよりは、なんとなくしっくりくるような気がするが、正直言ってどうでもいい。だが彼の恋愛事情はどうあれ、アート・フィーグルスが、硝流・サラクールを止めることができる人物だということは理解した。そして現在頭に爆弾を設置され、そのトリガーを硝流・サラクールに握られている彼にはそれが不可能であることも。

「私が会議に出ないと、ナルメアの奪還はなりません。硝流兄さまから離れることが時間稼ぎになる。このままアートの爆弾の解除に向かいたいのです」

 解除に向かうという言葉の意味を問おうとして、晶の視線がマックに向いていることに気づく。

「ここからは、私とマリスさんの2人で行きます。マックさんは可及的速やかにおうちにお帰り下さい」

 にっこりと笑って言った晶の言葉に、マックが無表情のままかちりと固まる。久しぶりに見る、いつもヘラヘラ笑っている幼馴染の珍しい表情に、ああこれガチで怒ったやつだとマリスは頭が痛くなった。



□□メモリダイブ

祐・サラクールが提唱、実行しようとして直前で頓挫した。

ナルメアによる人類総強制接続。全人類のメモリをカライア領域に強制保護。仮想現実へのダイブにより肉体を放棄する。試算により500年後1998vcが死滅する。祐・サラクール提唱のダイブはその後の計画がなく、ある意味全人類による集団自殺であったが、現人類が進めるメモリダイブは、強制接続の前に肉体を冷凍保存コールドスリープすることを盛り込んでいる。つまり1998vcが死滅した後の世界にカライア領域から人々の意識をサルベージし、肉体に戻すという計画のもと理論を構築している。


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