前へ次へ
5/15

1-3

結論を言うと、マリスが持つ隠れ家には無事到着した。ただそのためにマリスは多大な身体的苦痛と精神的苦痛を味わった。

 マリスの花屋の奥には二階の研究室へと続く階段がある。その階段の死角には地下への隠し階段がある。音をたてないように気をつけながらそこに降り、闇の中マリスとマックの腕時計に仕込んである小さな電灯の光と、少年のPSPCが灯す光を頼りに乾いた石の地下道を進んだ。この道はマリスが店を建てた時に、信用できる職人に作ってもらった秘密の抜け道だ。店舗を届け出た書類にももちろん抜け道の存在は記されていない。抜け道の長さは短い。マリスの店舗の道路を挟んだ向かいのビルの裏庭に出口がある。そこからは徒歩での移動となる。マリスの隠れ家はこの街と隣街との境にある五階建ての古いテナント用のビルの一室にあった。街と街をつなぐ大通りからは遠く、細い入り組んだ道に立ち並ぶテナント通りに建つ変哲のないビルの一つだ。街外れだが公共バスステーションへは徒歩で行くことも可能な距離にあり、バイクで十分ほど走れば、このあたりの人間が利用する商店街アーケードがある。中心街に仕事を持つ者や洒落っ気のある若い人間なら、国が手掛けた巨大ショッピングモールで買い物をする。最新の流行に触れることができ、セキュリティも万全で、なによりあか抜けている。だが質素を好む人間や贅沢が許されない身分の者はこの商店街を利用する。街から外れているが、存外に活気があるこの場所は身を隠すには都合がよかった。

 二か月ぶりに訪れた一室に倒れるように入ったマリスは、背負っていた少年を下すと、少し埃っぽいソファにどさっと倒れこんだ。マックが手慣れたようにカーテンを引き、窓を開けている。気持ちのいい風が顔に当たり、マリスはほっと息をついた。

 マリスは地下道から少年を負ぶって全力疾走してきたのだ。それはなぜか。少年が致命的に運動ができなかったからだ。

 ない。ありえない。

 荒い息を吐きながらマリスは先ほどのことを思い出す。

 どうしてあれほどまでに走るのが遅いのか。いや、あれは果たして走ってたのか?歩くより遅い走りって何?

 どうして何もないところで転ぶのか?

 歩いているのにどうしていつの間にか尻もちをついている?

 マリスは理解できなかった。進めば転び、立てばひっくり返る少年に業をにやしたマリスが少年を背負って走ったのだ。

「あんた……そんなんでよく俺の店にたどり着いたな……」

 少年はマリスの言葉に首を傾げる。勝手知ったるマックが冷蔵庫からボトルに入った水を取り出し、マリスの前に置いてくれたので、マリスは一気にそれを飲み干した。

「アプリをダウンロードしましたので」

 少年があっさりと告げた言葉にマリスはやっぱりサイボーグかと心の中で毒づく。

「じゃあアプリ起動しろよ。さっきこそアプリ必要だろ。あんたに合わせてたらすぐ捕まるぞ」

「追跡を断つために、店に入ってすぐにGPSをオフにしました。アプリを起動しても対応できませんよ」

 少年はそう言って「お手間をお掛けしました」と頭を下げた。

 丁寧な少年の謝罪にそれ以上追及する気持ちが失せたマリスは、黙って少年に視線を合わせた。

「まあいい。それより話の続きだ。どうしてあんたは『アリス』を知っていた?」

 少年はマリスの視線を受けて眩しそうに瞬くと、少し頷いて口を開いた。

「事件を知り、ずっと調べていました。綺麗に貴方たちの痕跡が消されていて探すのは少し苦労しました」

「事件って……」

「コード5886㊙。通称『アリス事件』のことです」

 やはり十年前のあの事件のことをこの少年は知っている。しかも契約により幾重にも施されたプロテクトを長くとも十年で突破している。この少年のバックにどんな組織があるのかは知らないが、かなりの専門技術を持ち財力がある組織だろう。

「最高レベルのプロテクトは破るのは不可能と聞いている」

「あくまで理論上です。不可能はこの世に存在しませんよ」

 どこかで聞いたセリフだなとマリスは思う。少年を見る視線にどこか皮肉めいたものが混じるのを自分自身で感じた。

「ご心配のようですので誓いますが、ボクが貴方を調べたのはあくまで個人的興味です。第三者に貴方がたのことを告げたりはしていません。ただ今日ボクが貴方に接触したことで、もしかしたら貴方のことが兄に知られるかもしれません」

「個人的って……。個人で『特Sナルメア・プロテクション』を解除して情報を覗き見ることができるわけないだろう」

 少年は少し首をかしげ、思案するように空を見る。そして意を決したようにマリスに視線を移した。

「ボクは……」

「ストップ。自己紹介だったら不要だ。あんたのお願いとやらを受ける気はない」

「でもボクが個人でナルメア・プロテクションを破った件を説明するには、ボクの事を知っていただくのが早いので」

 少年の言うことは正論である。マリスが持つ秘密『アリス』については、マリスとある国との契約で、『特Sナルメア・プロテクション』という最上級の情報秘匿プログラムで守られている。

『ナルメア』は復興を果たした今の世界において統一規格で立ち上げられているシステムの名称である。新世界が復興を果たして、主要十か国から選ばれた六社・四組織が主体となって開発された。

現在の生活では、管理された出生から、日々の生活、イレギュラーの通院や就学就業等で、それぞれに適したナルメアアプリケーション介してサービスが提供される。そもそも出生が試験管ベビーの現人類である。産まれた瞬間から厳密な健康管理をされ、その記録は個人カルテとしてホスピタルプログラムの仮想領域に保存さていれる。義務付けられた専門医院での健康チェックや、任意の地域型の行事への参加、果ては服飾品の購入履歴を介しても個人が管理され、様々なサービスが提供されている。もちろんアプリケーションを介したサービスを受ける頻度によって、仮想領域に残る記録は増減する。例えばマリスは幼いころから国が推奨する福祉関連行事にはほとんど参加をしたことがないので、残る記録はごくわずかだろう。

現在稼働しているコンピュータシステムの98パーセントは『ナルメア』の管理下にある。もちろんそれ以外のクローズドシステムも存在しているが、ネットワークを構成する力はない。小さなコミュニティで個別に稼働しているにすぎない。

 つまり何が言いたいかというと、『ナルメア』とはこの世界で人類の生活に無意識下で浸透するシステムであり、人類は何らかの形でナルメアに管理されている。マリスが持つ『アリス』関連の過去もナルメアに記録が残っている。ただ記録はその重要度秘匿度によって取り扱いが変わる。『ナルメア・プロテクション』は国の元首ですら閲覧に主要十か国外交官決済と、世界中央機構の許可が必要となる超重要情報で、ベテランハッカー百人がチームを組んでもそのセキュリティの突破は難しいとされている。その中でも『特S』は最上級のナルメアセキュリティに守られている。『アリス』関連情報は存在自体を破棄しているに等しいこの特Sのナルメア・プロテクションで守られた情報なのだ。

 少年は『アリス』を知った顛末を説明しようとしているが、そのために必要となる少年の個人情報をマリスは聞きたくない。つまりマリスが踏み込まない限り話はこれ以上進まないということだ。

 少年は迷いながら視線をさ迷わせるマリスを藍色の大きな瞳で見ていたが、かすかに頷くと黒い上着のポケットから小型のケースを取り出した。鏡のように磨かれた銀色のドーム状のケースが小さな手にちょこんと載っている。

「ありがとうございました。これは謝礼です」

 突然登場したケースの意味が分からず、マリスは視線をケースに走らせて眉根を寄せる。

「意味が分からない。あんたのお願いは聞かない。情報の出所を知りたいが、訳の分からないことに巻き込まれるのはごめんだ」

「これは前報酬として持ってきました。貴方と出会ったことで条件を満たしていますので。もうボクには不要のものですし、どうぞお収めください」

 少年はそう言い、ケースの蓋を開ける。どういう構造なのか淡いライトが灯り、やわらかそうな台座の上に小さな種子が三粒載っているのが見えた。

「リリィ」

 思わず呟いたマリスに、少年は表情をほころばせた。

「さすがですね。一目で種類を特定するなんて」

 いや分かるだろ、という言葉は飲み込んだ。天然ものの種子はそうでなくても貴重品だ。その上、リリィを含む十種類ほどの種子は国が保護する貴種だ。もちろん市場に出回ることはないし、美術館や博物館で見ることもない。せいぜいが貴重植物図鑑で知的欲求を満たすくらいしか庶民には縁がない。そもそもリリィは天然ものは絶滅したのではなかったのか。

「不要でしたら、破棄をしてください。ケースを開けましたから、世話をしなければ一週間で枯れますよ」

 にこにこ笑いながら目の前の少年は恐ろしいことを言った。そう小型のケースは種子の保存容器でもあったのだ。蓋を開いたことで、保存状態は白紙に戻る。すぐにでも土に植えなければ、この貴重な品種は芽を出すことなく枯れてしまうだろう。

 マリスはごくりと唾を飲み込んだ。少年の手の中にあるのは、歴史を内包した貴重な財産だ。そもそもこんな場所に手軽に在っていいものではない。ある意味『アリス』の情報よりもはるかに価値がある。無意味に枯らしたとなれば、その道の研究者から袋叩きにされ殺されかねない。

「あ……」

 突然少年が手を滑らせて、ケースが少年の手から落ちた。マリスは息を呑んだ。一気に距離を詰めて、持ち前の反射神経でケースをキャッチする。手の中に確かな手ごたえを感じ、ほっとしたと同時に違和感に首を傾げた。

 零れ落ちたと思った種の感触もしないし、かといって床に落ちた音もしなかったからだ。

 恐る恐る手の中のケースを見る。蓋を開いたまま横向きでキャッチしたケースには、物理法則を無視したまま台座に乗る種が三粒見えた。

「間違えました。種はこっちです」

 にっこりと無邪気に笑った少年はもう一方のポケットから同じケースを取り出した。しかし今度は蓋を開かない。開くと種子の完全保存が解除されるからだ。おそらく中の状態は今マリスが持つケースの中と同じものなのだろう。

「フォログラムか」

 マリスは態勢を崩した間抜けな格好のまま忌々しく呟いた。反射的とはいえまんまと少年の策略に乗った自分に腹が立つ。

 少年はマリスにとってこの種がどういう存在か試すためにわざと偽のケースを落としたのだ。

 マリスが慌てて落とさないように手を出してしまったので、この種子がマリスにとって交渉の席で気をそらしてしまうほどに大切なものだと少年は確信しただろう。

 少年はマリスの前のサイドテーブルにケースを置く。

「依頼は2つ。報酬も2つ。まずはリリィの種子を育てるための手順書。次が貴方が探しているミル・リュート氏の居場所の情報です」

 少年はマリスの正面のソファにゆっくりと座った。マリスは偽のケースをキャッチした間抜けな格好のまま、眉間にしわを寄せてそれを見るしかなかった。

「あらためまして。晶・サラクールと申します」

 マックがため息をついた。

 名前を聞いてしまい、マリスは厄介ごとをかぎつけた自分の鼻が間違いではないことに気づき、『終わった』と心中で呟いた。



□□マック・ストーンリ 中央保安機動隊クルルフ保安部5班班長。国連部隊出身。コード5886㊙。通称『アリス事件』関係者。詳細スペックは、装着するCチップ(軍事特化)により秘匿

前へ次へ目次