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「さわがしいな」
ビオ・クルス。首都クルルフ郊外の閑静な住宅地の一角に建てられた、小さな自宅兼店舗兼研究室。シンプルで白く角ばった外観だが寒々しい印象を与えないのは、大きくとられたガラス張りの扉の横に置かれたたくさんの鉢のせいだろう。
扉の右側は、台を作って二段にした棚に小ぶりな鉢が等間隔で置かれている。その鉢には小さな花弁を持つ様々な色の花が咲いており、見ているだけでさわやかな香りが漂ってくるようだ。アクセントだろうか。ところどころに大輪の花を咲かせている鉢もある。女王様然とさくそれはとても美しく、小ぶりの花弁を持つ他の鉢の花とは違い、より濃い色をしていた。
左側には地面に直接鉢を置き、そこからは長い茎に大きな葉を巻き付けた背の高い観葉植物がずらりと並んでいる。その上には鉢が吊り下げられており、そこからは蔓に沿うように小さな葉が垂れ下がっていた。
このかわいらしい花の館の主のマリスは、入り口を開いて耳に入ってきた狂暴な熱気と喧噪に顔を顰めて、思わずこぼれ出た自らの声に唇を引き結び、大きく首を振った。
ここは大通りから一本細い道を入った裏通りに面している。普段は閑静だけが取り柄の田舎だが、今は街全てを呑み込んで人々はふわふわと高揚していた。
それも無理はないことかもしれない。もうすぐ主要十か国首脳による会議が行われる。世情を考えると是非もないのだが、首脳会談は十年ぶりの開催となる。
会議は人の移動を伴わずにオンラインで開催される。人の移動はないが、気軽に開催できるものではない。情報の移動は、ある意味人の移動よりも高い技術が要求される。フォログラムによって、各国の会議室にあたかも出生者が集合しているかのような形態で開催される。発言もオンライン自動記録によって、即時で記憶、正式なオンラインデータとして保存される。自国の会議室での発言とはいえ、即時で出席者に記録が渡るので重みがある。会議開催のためのアプリ開発は、各国が膨大な予算を負担して共同で行っている。
交通が発達した旧世界と違い、現在は世界の交通が完全に分断されている。荒廃した国々を確実に渡る手段を持たない現人類では、国々を繋ぎ、共通の認識のもとルールを決定する手段は多くはない。
それほどのリスクと代償を支払って開催された今回の首脳会議の議題は、ビオ・クルスの独立である。
独立といっても、ビオ・クルスはれっきとした独立国家である。国民が選挙で首相を選び、首相を中心とした内閣が政治を行う。しかし、2015年のアテン型巨大隕石『1998vc』の衝突によりもたらされた世界的な大打撃により、ビオ・クルスは荒廃の中で比較的被害が重くはなかった同じ大陸の大国トリシアに、国家の運営を政治的経済的に頼らざるを得なかった。
だが、長い時間をかけて大衝突からの復興を遂げて産業が少しずつ活気を取り戻すにつれて、トリシア体制は腐敗していった。大衝突から340年ほど経過した2349年の現在、復興のための暫定措置としてうちたてられたトリシアとビオ・クルスの共存は末期の様相を呈していた。
しかし甘い汁を吸うことになじんでいる人間は、その権利を手放すことは難しい。2国間で交渉を続けていたが、ビオ・クルスに隷属的な経済協定を反故にする決定的カードを持つことは、長い間かなわなかった。
「国の宝、か……」
マリスは朝ネットテレビで語られていた単語をふと思い出し、呟いた。
その単語とともに画面に映し出されたのは、中性的な男性の顔。この世の美を集積したかのような整った容姿。特に印象的なのが優し気にきらめく大きな瞳だ。大きな黒い虹彩が光を取り込み、どの角度から映し出されても瞳全体がきらきらしている。美形とは瞳が美しいとはよく言ったものだ。
硝流・サラクール。
トリシアとビオ・クルスの長年の均衡を破った男。
ビオ・クルスが独立に向けての有効な手段を長い間とれなかったのは、ひどい圧政下にありながらも施される恩恵があったからだ。返すとビオ・クルスには独立を目処できるほどの力……産業がなかった。経済のすべてが、トリシアの庇護の下に成り立っていた。
硝流・サラクールはそんなビオ・クルスに大きな利益を生む産業をもたらした。
隕石衝突前の記憶をメモリ領域カライアからサルベージし、汎用化に成功。特にサラクール家が細々と受け継いできた遺伝子工学を応用した食品の安定供給は、ひどい食糧難にあえぐ未開発国家に対して、大きな恩恵となった。それは復興が進んだ主要国家でも同じで、日々の食糧に困ることはなかったが、硝流のもたらした技術が、食により生活に深い色どりをもたらしたのは事実だ。
長い我慢の時代が続くと、人は少しの贅沢を望む。硝流がもたらした技術は、小さな希望を切望する富裕層の心もつかんだ。今や彼のもたらす食文化は、世界の食文化そのものとなりつつあった。
そうやって少しずつ主要国、未開発国と二極化が進む世界において確実に浸透した技術は、ビオ・クルスの国力を上げた。高いセキュリティによって秘匿された技術と、由緒正しい血筋で守られたサラクール家という強固な盾はトリシアにも崩すことはできなかった。硝流の功績はビオ・クルスの功績になった。この技術を世界に公表することと引き換えに、ビオクルスはトリシアの支配から解放されるのだ。
2105年隕石『1998vc』の衝突により劇的に環境が変わったこの世界において、隕石衝突より前の時代を旧世界と呼ぶ。
巨大隕石は地球の大地・空・海を呑み込み咀嚼し完膚なきまでに蹂躙し、人類は滅亡寸前まで追い込まれた。
栄華を誇った文明は一瞬で破壊され、その残滓までも緩慢に滅んでいった。かろうじて生き残った人類は、廃墟と化した世界をさまよい、生きる望みがある場所に身一つでしがみつき、命をつないだ。それから人類による細い細い生き残りの道の模索が始まった。
バラバラだった人と人がつながり共同体を作り、村となり国となった。古い人類の歴史をなぞるように激しく鳴動する不気味な世界で人類は生きた。少しずつ少しずつ立ち直り、旧世界の文明をひもとき始めた人類に、世界は二度目の滅びの槌を振り下ろした。
MOウィルスである。
約二百年前に発生したとされる新種のウィルス。
感染した者は、個人差があるが平均五年の潜伏期を経て脳が委縮し始める。最初は物忘れが多くなったかという程度の支障である。兆候が顕れると進行は早い。平均してそこから一年も経ずに筋肉が引きつり動かなくなる。ベッドから起き上がれなくなり、食物の摂取も難しくなり、最後は死亡する。発症から三月もたない。
立ち直りかけていた人類は、ウィルスに対して無防備であった。旧世界であればもしかしたら対抗できたであろう知識も技術もすでに失っていた。
人々は食べ物を恐れ、排せつを恐れ、空気を恐れ、自分以外の生物を恐れた。何が感染源かわからなかったのだ。
新たな絶望と向き合う人類に最後の望みを与えたのがサラクール家による根本治療の可能性だ。M0ウィルスの最初の感染が確認された三十年後のことである。この転機がなければ、人類は滅んでいたであろう。
当時当主の弟だった直哉・サラクールは遺伝子工学の研究者だった。大衝突前に培った知識と残された記録とサポート機器、サラクール家の後ろ盾をもってして、彼はMOウィルスの仕組みを解明した。
MOウィルスは感染した宿主を直接攻撃するのではない。宿主の遺伝子と同化し、その情報を書き換えるのだ。ウィルスは感染と同時に宿主そのものとなるため特効薬は存在しない。ウィルスは書き換えた遺伝子として潜み、その子に遺伝する。発病するのは宿主の一世代ないし二世代後の子である。
このウィルスに対抗する有効な手段としてサラクールが提唱した方法が、感染者の子に対する遺伝子操作である。
サラクール家の提唱の下、共同国家はMOウィルスが作用する遺伝子を意図的に書き換える試験管ベビーを推奨した。二十年の後、試験管ベビー以外のすべての人類は淘汰された。
試験管ベビーのことを、ジーンリッチと呼称する。それもサラクール主導で根付いた。医療行為のための誕生であったため、医療ジーンリッチと言われている。ほかの目的による遺伝子操作ベビーと区別するためだ。
医療ジーンリッチ。現在生存しているほとんどすべての人類がそうであるのだが、医療ジーンリッチは概して短命だ。
平均寿命は43歳。マリスの周囲にも45歳を超える大人はいない。寿命は短いが、老化は相対的に遅い。皆死ぬ直前まで元気に働き、生活している。その為、人々にとって死はいつも突然だ。マリスだけでなく、人類皆が昨日まで一緒に笑い合っていた仲間が今日はいない現実を当たり前と受け止めていた。
硝流・サラクールも五年前に巨大財閥の宗主を引き継いだ。今やビオ・クルスにおいて、いや世界において、大衝突で後退した多方面の産業や研究の中核を担う企業のトップにしては、彼は平均寿命が短いことを勘案してもかなり若い。だが他に否を言わせない実績を硝流・サラクールは積んでいた。
彼は今年24歳。科学経済医療……何故硝流・サラクールが多方面にわたる実績を残すことができたのか。その理由の一つに、彼の生まれが挙げられるだろう。
彼は希少ジーンリッチだ。全人類のほとんどを占める医療ジーンリッチと一線を画するエリート。生きるために遺伝子を書き換えた人類とは違い、エリートとして生まれる為に遺伝子を書き換えた者。
旧時代において遺伝子を直接書き換えるジーンリッチという存在は、倫理的理由で忌避されていた。国家間で協定を結び、人類が自らを超えるものを創り出してしまわないように、お互いを縛り、監視していた。しかし巨大隕石がすべてを変えた。
生きる為に医療ジーンリッチとして種族の壁を超えウィルスを克服した人類は、さらなる飛躍と旧時代への回帰を求めた。そこにかつて在った倫理はなかった。まだ見ぬ天才を求めて、理想とされた遺伝子を持つ人類を生み出した。
それが希少ジーンリッチだった。
希少ジーンリッチは敢えて研究者的言い方をすると、『所持』をとても厳しく制限されている。
どこの研究所で、誰の遺伝子を基にして、どの家に属するのか。細かく厳しく規定され、監視されている。現在生存が公表されている希少ジーンリッチは四人だ。すべてが出産を起点として絶えず監視、記録をされている。生存を賭けてすべての人類を医療ジーンリッチとして管理していた頃は、世界で千を超える生殖・出産を管理する付属研究所を持つ病院が乱立していた。一人でも多くの人をMOウィルスから救う為には、卵子の状態でゲノム編集し、編集済み卵子を母体に戻し出産する体外受精を数多くこなすことが必要である。技術の差は歴然としていたが、隕石で疲弊した世界は、数をこなし一定数の医療ジーンリッチを根付かせることに成功した。遺伝子的にMOウィルスに対抗する遺伝子抗体を持つ医療ジーンリッチからは、生まれながらに遺伝子抗体を持つ子が生まれる。医療ジーンリッチの数が増えるにしたがって、ゲノム編集に携わる研究所は数を減らしていった。
希少ジーンリッチを担当する研究所は、現在は世界に三カ所ある。そのどれもが巨国の後ろ盾と潤沢な資金を有している。硝流・サラクールはサラクール家が出資・運営する研究所で生まれた。彼は数多くの天才を輩出するサラクールの直系の血を引いた、エリートの中のエリートだ。
常に監視され行動を記録されている彼は、まさに人類の『理想』だった。その行動のどの部分をとっても瑕疵が見当たらない。稀有な存在だ。
生まれおちて24年。片時も隙のない生活が果たして送れるものなのか。マリスはふと考える。それができている硝流・サラクールはもしかしたら人形かはたまたただのまぼろしなのではないだろうか。
「さわがしいねえ」
少し思考が浮遊しぼんやりしたマリスの傍らから間延びした穏やかなテノールが囁いた。笑いを含んだ弾んだ声。静かな狂乱を楽しんでいるようだ。マリスはその声に物思いから急速に引き上げられる。憮然とした表情をわざと作り険のあるマリスの視線にさらされた男は、飄々とした表情で口元を緩めてマリスが見る外の景色を見ていた。
「お前たまの休みに俺のところに来ても面白くないだろ。どっか遊びにいけよ」
思ったより強い言葉が自分の口から出てきたことに一瞬焦り、気まずくなりふんと視線を男からそらす。そのマリスの視線を追うようにこちらをみる男の視線を感じた。
別に彼のことが邪魔なわけではない。ただ彼がいつも激務をこなし、プライベートなどない生活を送っていることを知っているだけに、その数少ない休みをただの幼馴染の閑古鳥が鳴く店で過ごさせるのがしのびないのだ。
マリスのツンツンしたそっけない声に目の前の男―マックはふっと微笑み、わざとマリスがそむけた顔の方向に回り込んでくる。その無駄に華やかな笑顔が急に視界に入り込み、マリスは少しひるんだ。
「俺は来たくて来てるからいーんだよ。ここは気を使わなくていいし。変な知り合いは来ないし」
変な知り合いとは、一体いつおつきあいしていたおねーさんたちでしょうかねという言葉は呑み込み、あえて半眼で見つめ返すにとどめる。無駄に交友関係が広いのはマックの性格ゆえか仕事ゆえか。詮索したことがないので、マリスはよく知らなかった。
マックとマリスは古い付き合いだ。二人には親がいない。二人は同じ施設で育った。マックが三歳ほど年上だったが、人当たりがよくそつのない彼に、自分の心の裡を表現するのが難しく、孤立しがちな幼いマリスはよくなついた。今思い出すと、なぜあんなに彼について回ったのか自分でもわからない。ただ昔の回想は、わーと叫びながら走り回りたくなるほど気恥ずかしい。まるで合鴨のヒナのように三つ年上の少年について回っていた自分というのが、頭を掻きむしりたくなるほどにありえない。マリスの幼いころの記憶は、マックの背中越しに見る景色で占められていた。
だからウズウズと羞恥が刺激されるこの男とは、なるべく会いたくないのだ。
「てか今日非番の意味がわからん。むしろ今日働け。街たいへんだろ」
郊外のこの地区でさえこうなのだ。主都庁があるクルルフ中心部の状況は推して測られる。
「俺の五班はどうも上にとってお邪魔らしい。わざわざ郊外の警備命令が出たよ。隊員全員にこの一週間交代で有給とるように要請もあったし。ここなら緊急の呼び出しがあってもすぐ駆け付けられるだろう」
マックから意外な事情を聞き、マリスは首をかしげる。
「お前中央保安機動隊のクルルフ保安部だろ。この一週間警備強化せずにいつするんだよ」
「さあねえ。それは一班班長さんに言ってください」
心の裡が読めない笑みを口元に浮かべてマックが答える。少々ため息混じりなところを見ると、彼にもどうしようもないことのようだ。
マックはクルルフの治安維持組織である、保安機動隊の中でもエリートが所属する中央保安機動隊のクルルフ保安部に所属する。組織の中では第五班という微妙な位置づけではあるが、エリートといえる部隊の班長である。二十四歳の彼であれば、充分な出世である。お察しのとおり第一班が要人の警護を主に行う。また一斑班員の一人一人が他の部隊の総責任者の集まりであるので、組織の頂点である。そこの班長からのお達しであれば、マックが逆らうことは難しいだろう。ただ不思議なのは、どうしてマックが所属する部隊が中央の警備から遠ざけられたかということだ。
「どうしてお前の部隊だけ……」
「俺の部隊というより、一斑以外は締め出しだねえ。といっても五班は特に遠ざけられているけど」
「お前の部隊が特に遠ざけられてるのは、混成部隊だからか」
マックはマリスの言葉に笑みを深くして、マリスの瞳をのぞき込む。
「どうしたのさ。俺の仕事に興味を持つことあんまりないだろ」
マリスは詮索しすぎを責められている気がして、目をそらす。マックの仕事は機密と背中合わせだ。たとえ家族にでも明かせないこともある。そのためいつもはあまり詮索することはないのだが、何となく不自然なにおいがするので気になった。ただ不自然なだけなら別にいいのだが、マックが危険になるようなことは看過できない。
「悪ぃ……。詮索しすぎた」
「別に秘密にしてるわけじゃない。珍しいなと思っただけだ」
マックはいつものようにごく自然な様子でマリスの頭をわしゃわしゃと撫で、マリスが表情を歪めてその手を払いのける前にすっと手を引く。そしてそのまま思案するように自らのあごに手を当てて口を開いた。
「確かに俺の五班はトリシアの軍人との混成部隊だ。俺自身も国連部隊の出身だから、外国の軍人との知り合いも多い。何か秘密にしたいことがあったら一番に遠ざけるだろうね」
マックは言葉を切り、口元に内緒話をするように人差し指を当てる。特に第三者がいるわけではないが、マリスも内緒話を聞くように少し身を寄せた。
「命令を出したのは、おそらく総帥閣下だよ」
「総帥?硝流・サラクールが?」
「そう。少なくとも俺に命令を持ってきた一斑班長の意思ではなく、彼の上の者からの命令だと思う。彼は中央保安機動隊のただの幹部だから、もちろん彼より上の立場の人間はたくさんいる。でも彼に命令できる人間は意外と少ない。彼は名門フィーグルス家の出身で、世界中央機構の後ろ盾がある。この国で彼に命令できるのは、総帥閣下くらいじゃないかなあ。特に今回のような道理を曲げるような命令は他の官僚たちが黙っちゃいない。総帥閣下くらいしか黙らせることはできないと思う」
「硝流・サラクールが……」
そもそも今回の会議の主役が硝流・サラクールだ。この国は、彼の発言を無視できない。それはこの国の元首である首相ですらそうだ。その彼が通常在るべき警備の形を変えることを望んだ。何かがあると思った方がいいだろう。
「まあ国家に内緒ごとがあるのは普通のことだからなあ。若い頭でっかちや外国のイヌに知られたくないこともあるだろうし。俺がどうこう言うことじゃないよ」
マリスとて、マックが危険に巻き込まれるのでないなら、どうこういうことでもない。むしろ危険から遠ざけられているようなので、少し興味を失った。
「まあお二人には恋人同士っていう噂もあるくらいだし。ただ単に逢引でもするのに都合がいいだけかもよ」
マックが軽く言った言葉に、マリスは一瞬頭が白く爆発し呼吸が止まる。
「誰と誰が恋人だって?」
「総帥閣下とフィーグルス班長」
「あれ? 総帥って男だよな」
記憶をもう一度掘り起こしている。確かに硝流・サラクールは中性的な美貌を持っていた。だがどう見ても女性には見えない。
「噂だよ。噂。それだけお二人は浮いた噂もないし、よく一緒にいるからねえ」
確かに現人類は出生率が下がり、男女のそういった営みにも生殖の意味合いが薄れてきている。高い確率で子どもを求めるなら、ほとんどのカップルが体外受精を選ぶ。そういった気風だからか、同性同士の恋人というのもよく聞く話だし、マリス自身は嫌悪感はない。だが国の宝をそこに当てはめてしまうのはどうなのだろう。だからといって女性の恋人ならいいのかと言われたら、首をかしげてしまう。ああいった浮世離れした人間に生々しい関係の相手がいるというのがどうにも受け付けなかった。
しかも硝流・サラクールについてはすぐに頭に顔や経歴が浮かぶが、第一班班長については名前すら出てこない。サラクール家の総帥と懇意だと言われても違和感くらいしかわいてこなかった。
「フィーグルス家ねえ」
「養子みたいだけどね」
フィーグルス家といえばマリス達にもなじみが深い。出身地である児童施設がある小さな島国トルキリンに本拠地を置く大財閥の一族だ。世界的な資源不足や食料不足にあってもトルキリンは比較的裕福な国だった。税金は割高だったが福祉はしっかりしており、だからこそマリスのような孤児も教育を受けることができた。食事も質素であったが三回取れた。マックやマリスは国を出ることを選んだが、国内に働き口も選べるほどにあった。それを支えていたのが、フィーグルス家であり、かの家が支援していた政治家や各分野の研究者たちは、世界の第一線で活躍しているものも多い。だからマリスたちにとっては恩人の家ともいえる。そう考えるとそのフィーグルス家の人間であるならすこし親しみがわいた。
「どんな人? 一斑班長って」
「どんなって……。物静かであまり軍人って感じはしない。でも隙はないなあ。名門のご令息って感じはない。ほらおぼっちゃまってどこか甘いだろ? そういうのないなあ。あの人の命を奪えって言われても、俺は無理だと思う」
「へ? マックが?」
「うん。無理」
マックが断言するなら、無理なのだろう。そしてマックにそう言わせるなら、かなりの手練れということになる。
マリスが少々憮然として首を傾げた時、店の入り口に吊るされた鈴がちりんと鳴った。
来客を知らせる鈴にマリスは話を中断し、入り口を振り返る。ガラスのドアを開けて小柄な人影が店に入ってくるのが見えた。
「いらっしゃいませ」
柄ではないが、来客を受け付けていると意思表示のため、お決まりの言葉を吐く。ただマリスは客に自由に見てもらうのがポリシーであったため、必要以上に客について回ることはなかった。
ちょうど外の様子を見るために入り口近くにいたため、入店した人影とすぐに目が合う。吸い込まれそうな深くも暗い藍色の瞳に何となく気後れして、マリスは少し息を詰めた。
今の感覚は何だろうと首を傾げる。しげしげと印象的な瞳から視線をずらし、目の前の人物を観察した。
少年だ。耳の下で切られた艶やかな黒髪が少し店内に入り込んだ風で揺れている。マリスを惹きつけた藍色の大きな瞳が少し細くなり、ぷっくりとした桜色の唇がほころんだ。まるで少女であるかのようなかわいらしい微笑だ。だが紺色のベストに白いシャツ紺色のハーフパンツという服装は少年のものだった。
そしてふよふよと少年の肩のあたりで漂う無機質な丸い物体。つるっとした、見るからに固い質感。円周に沿うように縦に切り込まれているのは、収納型インターフェイスだろう。丸いボディの中央に穿たれているレンズがじっとマリスを捉えていた。
PSPCだ。
プライベートサポートパーソナルコンピュータ。医療用ジーンリッチである現人類はBチップを介して共通サーバ『ナルメア』に接続し、体調を管理されている。Bチップは常時管理が望ましいとされているため、ある程度の経済力のあるものは、PSPCを装着している。ただ現在のPSPCの標準仕様は軽量小型化がなされており、非利き腕の埋め込み型が標準だ。接続にもインターフェイスは必要とせず、本人が脳内で思考した事柄が、電気信号となりPSPCを介してナルメアに接続、反映される。もちろん出資できる金額により、PSPCにもランクがある。だが少年が連れている外部型PSPCは40年くらい前の標準だ。ほぼ無料に近い価値しかないそれを使わざるをえないほどに金銭的にひっ迫していたら、むしろBチップの装着すらしていない可能性もある。
確かに少年の服装は質素で安価なもので、髪型は素人が適当に切ったかのような雑な形だった。だが少年の内側からにじみ出る気品のようなものが、彼と貧しさを相いれないものに見せている。一見するとかなりアンバランスな少年といえるだろう。
「親御さんは? 子どもが一人で出歩いたら危ないだろ」
少年の経済状況は詮索することではない。この店では客は皆平等である。
少しぶっきらぼうな言い方になってしまったかと内心焦るが、言うべきことは言う主義である。言い切って少年を見つめると、彼は怯えるでも驚くでもなく、小さく首を傾げてマリスを見上げてきた。
「ボクが子どもに見えますか?」
少しかすれているが、声変わり前の澄んだ声が問い返してくる。マリスが返事をする前に、少年は一歩踏み出してきた。
「こう見えて、アカデミーの博士課程に在籍しています」
彼がそう言ってベストの胸元から、首から下がったプレートを取り出す。それは国立アカデミーのマークとIC顔写真が転写されたカードだった。
マリスは少し気圧されて少年が持つプレートに視線を向ける。確かにそれは一見するとアカデミーの正規の身分証であった。顔写真も少年のものと一致している。マリスはそれを確認し、やってしまったと内心冷や汗をかいた。
生きる為に人類が成した遺伝子操作の弊害の一つが遺伝子病である。年を取らない病気は様々なパターンが存在し、広く知られている。マリス自身はその病気を患っている人間を見たことがないが、病気自体の存在は知っていた。
なるほどアカデミーの博士課程に在籍するのならとうに20歳は過ぎている。しかし目の前の少年はマリスより年下にしか見えない。都市伝説ではないかとすら思っていた症例が目の前に現れ、マリスは知らず息を詰めて少年を観察してしまった。
しかしこの病気は見た目が年を取らないからいいというものではない。正常な細胞分裂が行われないその体はひどく虚弱で短命だと聞く。とても好奇心で触れていいものではないだろう。
マリスは穏やかに笑う少年を観察するのをやめ、潔く頭を下げた。
「それは、申し訳ない。軽率なことを言った」
謝罪したマリスに少年は大きな目をさらに瞠り両手をぶんぶんと振る。その仕草が子どもっぽくって少し笑ってしまった。
「謝罪は不要です。よく言われますし」
少年は何でもないことのように言って少し首を傾けた。
「少しお店を見てもいいですか?」
「どうぞ」
体をずらし、少年を店内に招きいれる。少年が歩き出すと、PSPCがふよふよとそれに続いた。
少年はきょろきょろと視線を忙しく動かして、時に足を止めたり、時にしゃがんでみたりして、店内をゆっくりと回る。マリスはその笑みでほころぶ顔をぼんやりと眺めた。
見れば見るほどきれいな顔をしている。美の神が自らパーツを配置したかのような造形だ。無表情で立っていれば人形のようにも見える。だが少年はその見事な造形美を好奇心ではちきれんばかりに輝かせ、それが彼を幼く見せていた。本来ならば彼の魅力を損ないそうなその表情も、とても可愛らしくて親しみが持てた。
ふとマリスは少年が足を止めて目をむけるのが、からくりのみだということに気づいた。
マリスが出店しているような『植物店』には、店主が持つ資格によって様々な種類がある。天然の植物を取り扱う者は『天然植物取り扱い資格者』、天然の植物を自ら育ててそれを天然植物取り扱い資格者に卸したり、小売り販売する者は、『天然植物栽培技術者』、クローン技術により作成された植物を販売する者は、『クローン技術保全資格者』、クローン技術により植物を栽培する『クローン技術免状』等主なものでも細かく規定されている。ちなみにマリスは主な四つの免状はすべて持ているため、この店には天然植物もクローン植物も取り扱いがある。店舗の2階は研究室になっておりクローン技術で植物を栽培しているし、店舗から少し離れた場所に厳重セキュリティを敷いた温室を持っており、そこでは数は少ないが天然植物を栽培している。
さらにマリスは趣味でからくり植物を作っており、一応値札は付けてはいるが、インテリアを目的として店内にも置いている。からくりは言葉のとおり精巧につくられた模造品で、マリスは主に紙と枯れた植物を削って再利用して作成している。ちゃんと根にはナノマシンで維管束を作成し、天然の土から栄養を吸い上げるようにし、葉にも疑似光合成をして栄養を自ら作成するようにプログラムをし、これらが機能しないといくら水やりをしてもうまく育たないように敢えて制限を加えている。そのため日々の手入れもいろいろと気を使うが、愛情も他の植物のように持っている。1個を作るのに1か月はかかる力作ばかりだ。
いくら力作でも植物ではなく所詮はインテリアである。よく見れば偽物であることはすぐに分かるし、それぞれがこだわりの逸品であるために、値札に書いてある数字は法外なものだ。そのためもともと植物を求めてきている客がマリスのからくりに興味を示すのは珍しい。からくりの他にも、植物は天然もクローンも仕入れだけでなく栽培ができる強みで、マリスの店には結構珍しい植物が置いてある。通常の客が求めるのはそういった本物の植物ばかりなので、余計に少年はマリスの興味を引いた。
「これは貴方が作ったのですか?」
黄色い小さな花を二つ付けているからくりをじっと観察していた少年はマリスを振り返り、小首をかしげて話しかける。マリスは話しかけられたので少年の前まで近づき、少年の視線を追って小さな黄色い花を見つめた。
これは前時代の草花を模して作成したものだ。天然物は存在せず、クローンでもかなり高価だ。前時代にはそこかしこに根を張っていたらしく、かなり強靭な植物らしい。図鑑でしか見たことがないが、土の上に出ている可憐な姿とは裏腹に、土中に伸びる茎は太く、根は深かったようだ。種の残し方も特殊で、可憐な綿毛と成り、風によって飛んでいく。そのアンバランスでしたたかな生きざまが、マリスの心をくすぐり、珍しく3か月もかけて作成した力作である。残念なのは、マリスのからくりは種を作らないので、このからくり植物も白い綿毛にメタモルフォーゼしない。いつかは種は作らなくとも白い綿毛につなげていきたいというのが、からくりを趣味として生きるマリスの夢である。
そのお気に入りの一品に目を止めた少年にうれしくなり、マリスの口は少し饒舌になった。口調を接客仕様に戻すのも忘れない。相手は大人なのだ。
「そうです。前時代の植物を見本にして作りました。かわいいでしょう?」
値段ももちろんそれなりで、給料の3か月分である。将来結婚を決めたら、是非花嫁に贈ってほしい。
「タンデライオンですね。綿毛になるのですか?」
さらりと返された言葉にマリスは言葉を詰まらせる。研究図鑑にしか載っていない植物である。植物店を営む者の間ですらマイナーであるため、まさか花の名前を言い当てられるとは思わなかった。しかも少年は花の特性をよく知っているようだ。
「綿毛にはなりません。いつかはそうしたいのですが……。詳しいですね。研究図鑑にしか載っていないのに」
「一番好きな花なんです。いいですよね、この花。可憐で。強くて。一途で。大好きです」
最後の一途というのがよく分からないが、そのほかはおおむね同意見だ。貴重な同志を得たようでうれしい。少年はもしかしたら植物系の研究者なのだろうか。
タンデライオンのことを知っていたことで、マリスの少年への親近感が上がった。普段は不愛想ではないが、進んで笑顔を振りまいてもいない。なるべく無表情を保つようにしているが、少年を見る表情が緩んでいるのが自分でも分かった。
少年はマリスを見上げて、少し困ったように笑った。小首をかしげて、何かを考えるように虚空に視線を向ける。すぐにその視線はマリスに戻ってきた。
「今日お伺いしたのは、貴方にお願いがあって来ました。アリスさん。どうか……」
その単語が脳内に到達した瞬間に、マリスは臨戦態勢に入っていた。両手両足はイメージした時には形態変化を完了しており、見た目では彼の姿になんらの変化はないが、瞬時に少年の間合いに入り喉元に素手の右手を突き付けた時には、少年の首筋に細い幾筋の傷ができていた。あまりに瞬時にできた傷であるため、そこからの血は流れていない。敢えて傷をつけ、痕を残さないように処理した。ただこれで、彼の命を握っていることを少年に示すには十分であるはずだ。幾筋もの傷は確かにそこに在り、血こそ流れていないが、その痛みはちゃんと少年に苦痛を与えているはずだ。
「その名をどこで聞いた」
少年はマリスが動いてからずっと目を見開いたまま硬直していた。まさに息すら止めて、石のように全身を固めている。だがマリスの声で、少年の呆然とした瞳に光が戻った。
「え……あ……」
少年の一挙一動を詳細に観察した。
どんな策略も、どんな嘘も見抜く。マリスの全身に張り巡らされたナノマシンは彼を瞬時に生きる兵器に変えることが可能だが、『耳』は特に優秀だった。人間が拾うことのできない領域の音すら聞き分け、人間の声からにじみでる感情を正確に聞き分けることができる。
視界の隅にとらえたマックは、少し肩をすくめて少年を見ている。それほどの緊張感はないが、その視線はマリスほどではないが厳しい。傍目には年端もいかない少年の首筋に手刀を繰り出している細見で目つきの悪い男だ。雰囲気は険悪で、なによりマリスが放つ闘気は、戦闘で兵士が繰り出すある種の威圧……これだけで武器である。第三者から見たらただならぬ場面だ。
だが自身や顔なじみの状況を冷静に分析しても、マリスは少年を警戒することはやめない。それほどのことをこの少年はしたのだ。
「答えろ。その名をどこで聞いた」
感情を殺した声で必要事項だけを告げる。痛みと威圧で脅しには十分だろう。現に少年はマリスに視線を合わせて、小刻みに震えている。
「あ……アリスさま?」
表情は死に瀕したように蒼白である。体は今にもバラバラになりそうなほどに震えている。特に縦横に傷がはしる首筋は少し青くなっており痛々しい。だがその震える唇から返された言葉は、明らかに場違いだった。
正直……少し気が抜けた。普段ならあり得ない。
だから表情を敢えて厳しくした。さらに怖い顔があるのか、と怯えるように少年の表情は震えあがった。
「アリスちゃんですね。ごめんなさい」
声は震えている。表情は怯えている。だがなぜ少年の返答はずれているのだろうか。少年はアカデミーの研究者というにはあまりに子どもっぽい仕草で大きく頭を下げた。
「で、アリスちゃんにお願いがあって来ました」
「だからそのコードネームをどこで知ったと聞いている」
どうして呼び名のことで怒っていると思ったのか。そしてどうして着地地点がそこなのか。イライラして闘気を込めるのを忘れてしまった。いや気が抜けた。『敵』を前にしてありえないことだ。マリスは警戒しながらも少年の首筋に突き付けていた手刀を引く。その手を少年の両手がぐっと捕まえてきた。
突然の接触に体の制御がマリスから離れる。その時、少年の両手にバチィと大きな音とともに青い光が無尽に走り、少年は驚いたように手を離した。
(あ、やばい)
制御を手放すのは危険だ。マリスは慌てて自分自身の手綱を引き締める。だから少年の行動への反応が遅れた。少年は飛びつくように無防備なマリスの腰に手を回すとそのままマリスの間合いでマリスを見上げた。その眼にはキラキラ輝く好奇心がありありとみてとれた。
「これは身体強化ですか?さっきのはかまいたちですか?闘気って本当に出るんですね。訓練したら出るんですか?」
まさに矢継ぎ早である。先ほどの俺への恐怖の表情はどこに行ったと聞きたくなるほどその表情は剥がれ落ち、はち切れんばかりの好奇心でマリスに告げてくる。
先ほど確かにマリスは赤子でも分かるほどの分かりやすい殺気を漲らせ、実際に少年を傷つけた。なのに自分を傷つけ、そしていつでも傷つけることのできる相手にこうも無防備になれるものなのだろうか。
マリスは少し少年が気味悪くなった。それにいつの間にか少年のペースに巻き込まれている。
少年はマリスの質問に答えていない。短い問いかけであったが、マリスが読み取った少年の情報はごくわずかだ。だが先ほどの動きのなかで、少年はマリスに関する情報をいくつも読み取った。少年の命を担保にした情報だ。つまり少年は死と隣り合わせにありながら冷静に情報を収集したことになる。その上、少年はマリスに対して切り札となる情報『アリス』を握っている。その単語を聞いた時、マリスは返答次第では少年を殺そうと瞬時に判断した。後悔することになっても、あの瞬間はその行動が最適解だった。彼に向けた殺気も闘気も彼につけた傷もそれに裏打ちされている。だがこうも『外される』と頭が冷静になる。もう少年を先ほどの衝動のまま殺すのは難しいだろう。
マリスは少年と距離を取りたかったが腰をつかまれているために難しい。それほど強い力で抱き着かれているわけではないので、もちろん力で引きはがすことは可能だ。だが次に自分がどういう行動をとるのが最適なのか分からなくなっていた。
マリスは心底困って、マックを仰ぎ見た。マックは気が抜けたマリスとは違い、厳しい目で少年を睨んでいる。
「君は……」
マックが小さく呟いた時、マリスの耳が小さな音を拾った。
マリスは手を掲げてマックの言葉を遮った。聴覚を中心とした感覚に神経を集中する。
店の外の喧噪は相変わらずだ。人通りや少し先の大通りを走る自動車の音は少ないが、そこかしこで湧き上がっている人々の騒めきは、雨の日に池に落ちる波紋のように消えては沸き起こり、膨張して消えることを繰り返している。少し先の大きな国営施設が特に大きな中心になっている。ただその喧噪に敢えて重ねるように複数の足音がマリスの琴線に触れた。ただの歩き方ではない。意図的に音を消そうとしている動きに、マリスの感覚器官が警鐘を鳴らした。
集中すると目で見るように状況を脳内に再現できる。特に近所の地形や建物の配置は頭に入っている。わずかな反響からもそれは可能だった。
マリスの行動に慣れたマックも、状況が分かっていないだろうマリスの腰に巻き付いている少年も、固唾を呑んでマリスを見守っている。マリスは声を出さず頷いた。それだけでマックは状況を察するだろう。
正体が分からない相手に、理由も分からず包囲されている状況だ。声を出すことはできない。マリスと同じ能力を持つ者がそうそう居るとは思えないが、財力を持つ相手だったら、機器で代用は可能だ。音だけではない。温度や空気の動きで建物の中でもこちらの状況が丸裸になることがある。相手の目的や戦力が分からないと下手なことはできない。
少年が唐突にマリスから離れた。訳の分からない拘束から逃れることができたマリスは息をつく。その時には少年は何もない空間に両手を忙しく走らせていた。
キーボートを操作するかのような仕草に首を傾げる。真剣な表情と連動して動く眼球で、不可視のヒューマンインターフェイスデバイスを操っているのだと見当をつけた。
しかし不可視のデバイスを操るには、デバイスを投影する出力機器が必要だ。通常はゴーグルを着用する。ゴーグルなしでデバイスを操っているということは、彼の眼球がそれを代用していることになる。
マリスは考えがそこに至り、少年を観察した。全身義体のサイボーグにはとても見えない。眼球のみ一部義体のサイボーグか、それともマリスが施されているよりも高度なナノマシン技術なのか。どちらにしても、彼の身体には、高い軍事技術が使われている可能性が高い。
軍人なのか。
マリスはデバイスを操る少年を観察する。氷のようにピンと張りつめた雰囲気は近寄りがたく、先ほどまでの少年とは明らかに違った。やわらかい表情で花を見て、マリスの殺意に怯える顔はとても訓練を受けた軍人とは思えなかった。
『ジャミング成功です。あちらはサーモグラフィと収音機器でこちらの情報を収集しています。ブロックはしましたが、念のためチップを介した無線通信で会話します』
マリスとマックは頭に響いてきた声に頷いて同意を示す。
『まったくこちらに心当たりはないとは言わないが、あのお客さんはあんたが目的か?』
『こちらは心当たりがあるので、多分ボクですね』
さらりと頭に響いてきた言葉にマリスはやっぱりと唇を噛んだ。完全に巻き込まれ案件だ。
一瞬投げやりな気持ちがよぎる。正体が分からない相手と戦うのは面倒だ。ここの暮らしはマリスなりの信念をもって、血のにじむような思いをして掴み取ったものだ。訳の分からない巻き込まれ案件で、なくしてしまうのは勘弁願いたかった。
『じゃああんたをあいつたちに差し出せば、解決だ。別にあんたがどうなろうと俺たちは関係ないし』
敢えて自分自身に確認するようにゆっくりと頭の中でつぶやく。確かめるようにマックを見ると、彼は厳しい視線を少年に向けたまま口をぎゅっと閉じていた。会話は聞いているので、口を挟まないということは賛成なのだろう。
マリスは少年を見た。少年は少し困ったような表情でマリスを見て、首をゆっくりと傾けた。
『いいのですか?』
『なにが』
『貴方は秘密を握られたまま、その人間を正体不明の相手に引き渡すことができるのですか?』
脳内に響いた言葉は淡々としていた。ただその内容は明らかな挑発を含んでいた。やはり少年は先ほどのやり取りでマリスの意図をくみ取りながらわざと『外して』いたのだ。
図星だった。次の言葉が出てこない。それがこの交渉がマリスの負けであることを如実に語っていた。
『ここでゆっくりと話をすることはできません。外にお客さんがいますし、ボクは監視されている。今はジャミングと時間稼ぎのウィルスプログラムで一時的に監視は外れています。ただしかるべき場所に連れていかれたら、一連の行動は同期され他の知るところになる。ボクを誰に引き渡すかは、場所を移して検討したらいかがですか?』
マリスはぎりと唇を噛んだ。交渉においては少年が一枚も二枚も上手だろう。このままここにいても状況がどんどん悪くなるだけだ。
『場所を移す』
『了解しました』
マリスは心を決めて、店の奥に足を進めた。これから移動する手順を思い浮かべて、思いため息をついた。
□□ マリス・ナリファス ビオ・クルス首都クルルフ郊外で花屋を営む。元軍人。サイボーグ(一部)、ナノマシン投与済、身体強化(自立)、かまいたち(軍事衛星補助)