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 ルシウスは薄汚れた建物に消えていったアートの背中を見送ると、大きく息をついてその体を運転席に沈めた。見送った背中が、初めて彼に会った日の記憶の中の小さな背中と重なる。あの日の彼は、まだ10歳になったばかりだったはずだ。スミシュール家に養子に入り、半年の基礎教育課程が修了し世界中央機構預かりになったその日にルシウスに引き合わされ彼は、子どもとは思えないほどに怜悧な光を金の瞳にたたえていた。

 アートに初めて引き合わされたその日のルシウスは、実家の期待通りに決められたアカデミーに入学し、充実した学生生活最後の年を謳歌していた。将来の職員として世界中央機構にインターンとして所属し、翌春からの入構を見据えて少しずつ研修を受けていた時だ。その時既に世界中央機構の幹部候補に名を連ねるルーファス・スミシュールとは、実は顔見知りであった。年は10違ったが、同じフィーグルス家分家の人間として交流があったのだ。どちらも嫡男ではなく、宗家の意向として世界中央機構に差し出されることが決められていた者同士、ルシウスは勝手に親近感を抱いていた。だが突然彼が結婚もまだなのに養子をとることを決めたことにも面食らったし、忙しく拠点から拠点を飛び回り、1年ほど簡単な時節の挨拶文しか交わしていなかったルーファスから突然機構の彼の執務室に呼び出されたときにも驚いた。

 ルーファスとルシウスが親戚筋であることは、ルシウスの教育係も承知していたようで、その日は朝の研修を免除され、ルーファスの執務室のドアを叩いた。開かれたドアの向こうに立つ少年を紹介され、彼も来年から世界中央機構預かりになること、ルシウスは入構と同時にルーファスの秘書官になり、アートの教育係兼補佐兼護衛兼監視員になることを聞かされた。随分肩書が多いが、つまりアートの専属の側近ということだろう。この人事がどういう意味をもつのか理解できないまま、アートの目の前で彼の生い立ちを話して聞かされ、既に断ることはできなくなった。たとえ選択肢を与えられても断ることはしなかっただろう。アートの専属という位置づけであるため、ルシウスにはルーファスのようにまっとうな出世の道は断たれたと言っていい。アートの機構での立ち位置が定まっていない以上、登るも沈むも彼と一連托生だろう。だが特に目的もなく、実家に決められたままに進んできたルシウスの人生において、アートという人間は鮮烈な色彩を放った。同情だったのか。憧れだったのか。気持ちの正負は一概に決めらず、ルシウスにとって彼を感情のない目で見つめてくる存在は、色々な意味で眩しかった。迷いなく彼を支えることを決め、そのままともに進んできたアートは、ルシウスにとってどんな存在かと言われてもすぐには答えられない。人形のような無機質だった彼に、あたたかさのようななにかが灯り、彼の行動や彼からの発言にほのかな信頼となにかしらの感情が感じられるようになったときには、ルシウスは確かに彼に信愛の情を抱いていた。

 彼は世界中央機構の職員として研修と厳しい訓練の後に、C-Ⅱチップ保持者として、フィーグルス本家に入った。その間はアートの専属を外れたが、彼が世界中央機構の承認を以ってサラクール家預かりになった時には、彼に付き従う唯一の人間として共にサラクール家に入った。フィーグルス家での顛末は伝え聞くだけだったが、サラクール家に入ってからの彼は一番近くで見て支えてきたからよく知っていると自負していた。

 サラクール家で再会したアートは、幼さの残る記憶の中の彼よりも顔つきは大人びて、体つきは大きく軍人らしくたくましくなっていた。彼がフィーグルス家付になりそこからサラクール家へと拠点を移すまで、ルシウスと会ってなかったのはたった1年と半年だ。だが少年から青年へと移り変わるまたたきほどの期間が、どれほど人を変えるのか思い知った瞬間だった。

 冷たく冴えた金色の瞳は、その温度を冷たく凍えさせたままだった。いやまだ別れる直前の方が柔らかい光を宿していたと思うのはうぬぼれではないだろう。ルーファスから聞かされるフィーグルス家での彼についての報告でも、微笑ましく穏やかな毎日を送っていると推察できた。だからだろうか。その幸福に包まれた経験と、柔らかく穏やかに成長しただろうと想像していたアートが、どれほどの苦しみを与えられたのかを思い知った。

 たった数行の報告書とルーファスからの報告だった。サラクール家に入る条件として、アートは彼のチップに爆弾を受け入れた。それほどまでして彼はアルフィア・フィーグルスを救いたいと願ったのだ。爆弾を頭に抱えていると聞いて動揺するルシウスに、ルーファスはアートへ施した教育は爆弾にも対抗することができると言ったのだ。爆弾の起爆条件はアートの心。彼の心がサラクール家当主硝流・フィーグルスに反しない限り爆弾は起動しないと。脳内を常に監視されているが、それに耐えうる教育は与えているというルーファスの言葉にルシウスはすがった。現実にアートは特に爆弾を意識することなく上手に折り合いをつけて生活している。彼から悲壮なけはいは感じない。しかしルシウスは再会した時に見たアートの瞳の中の諦念に気づいてしまった。まだ生きることをあきらめてほしくなかった。今度こそずっとそばにいて支えようと決めたのだ。

 アートが新しく担当した晶・サラクールの存在は、ルシウスにとって一種の救いだった。アートに心のままに純粋な好意を伝える存在。誰もがほほえましく受け入れ、温かく見守った。恐らくフィーグルスにおいてアルフィアとアートを見る周囲の目と同じだっただろう。俗世のどろどろとしたいやらしさのない幼い恋心は、大人たちをいやした。アートが晶を見つめる瞳も穏やかだった。確かにそこに信愛とやさしさがあった。

 晶はルシウスから見ても穏やかで従順な娘だった。美しいすがたかたちはジーンリッチという作られた美だったが、心からの純粋な笑顔は美しいというよりただかわいらしかった。ずっとサラクールのタウンハウスの奥深くで守られて生活していた時も、庭に出ると喜び、些細なことにもはしゃいだ。首都に移り住み、アカデミーで自らの研究に打ち込み始めたら、その合間をぬって街で遊びたがった。少女の冒険の隠れた護衛に付き合わされた時も、もの慣れない様子で街を堪能する様子は微笑ましかった。

 そんな世の中の不純を知りませんといった生粋のお嬢様が失踪したのだ。彼女の意思で。策略をもって。

 ルシウスは最初信じられなかった。もちろん起こった事態に対処することが官僚の仕事だ。マニュアル通りに対処しながら、次々と明かされる事実に混乱していた。そして突然沸いて出た見ず知らずの人物。国連部隊の軍人なんて、小さな箱庭で守られて生きてきた少女がどこで知己を得るというのか。

 アートは護衛対象者の突然の行動にも動揺はしなかった。マニュアルにしたがい、そして硝流・サラクールとの取り決めにしたがい、冷静に対処している。彼は冷静で、冷徹だった。世界中央機構に入構する前は、国でも力を持った家で教育を受けた男子だ。もちろん当主としての教育ではないが、ルーファスの母親は抜け目なく世を渡る術をアートに教えているだろう。アートは晶の失踪がアルフィアを救う一手になることを、脳内チップに仕掛けられた爆弾に気取られることなく認識しているだろう。晶失踪を助長することは、硝流の意に反する。だが彼女が世界10か国会議から遠ざかれば、アルフィアの危険が遠ざかるのだ。

 アートは晶を逃がすだろう。ルシウスはその背中を見ながら確信していた。では自分はどう行動するべきだろうか。

 世界10か国会議の掲げる議題であるビオ・クルスの独立は既定路線だ。これはもう確定している。問題はその先。硝流・サラクールは、いやサラクール家は、ナルメアの奪還を本意としている。外部の人間であるアートやルシウスに実情を深く語ることはないが、硝流が目指すところはここだろう。もちろん世界の半分に根を張るナルメアの糸をすぐに引き上げることはできない。だから段階を踏んでくる。その第一段階としての同調率の引き下げは、実はすでに研究という名目で国々で認知されている。確かに現在のナルメア依存はいつかは歯止めをかけなかればならない問題だ。このままだと、AIに脳内を乗っ取られるという都市伝説が、まるで学術論文であるかのように流布している。

 ビオ・クルスの独立に真っ向から反対し、ナルメアの回帰路線にも対抗しているのが、現在世界をけん引している大国トリシアだ。ビオ・クルスの宗主国であるトリシアは、ビオ・クルスの経済の脆弱を理由に、独立と引き換えに少しでも有利な条約の締結を目論んでいる。他の参加国は様子見といったところだろう。

 世界中央機構は分断された世界を結びその意向に沿う形で人員を派遣する国際機構だ。大衝突から百年後。国家として体をなしていた5つの国で当初その憲章が採択された。本部は唯一通信サーバが動いていたサラヤという都市に置かれた。その都市はそのまま小さな都市国家となり、サラヤの周囲にも小さな国ができた。5か国で協力し、世界の問題をともに考え、ともに支え少しずつ国々を復興させてきた。国と国の思惑は多岐にわたるが、世界の復興という大きな目的において、世界中央機構は国々から代表と職員を募り、中立を貫き活動していた。国々の自立を提唱している機構において、ビオ・クルスの独立は賛成すべきことである。だがナルメアを本来の持ち主であるサラクールに戻すという思惑は機構としてもおいそれとは頷けない。国力か傾きすぎるのだ。もちろんその代替えとして、ビオ・クルスから代わりとなるAIの提案もなされている。実用化にはまだ遠いが、理論上はナルメアに代わることも可能だろう。だが純粋に世界の半分に根をはるAIを、代わりを提供されたからといってやすやすと返してもいいのか。機構としては慎重な意見も多い。今回の会議はビオ・クルスがどのように出るのか。不透明な部分が大きく、機構としても静観をしている状態だ。

 世界十か国会議の採択は多数決だ。もちろん単純に数だけでは決められず、水面下では激しい攻防が行われるだろう。だが票はどうしても国力大きい方に傾く。大国トリシアの思惑は決まっている。他の国々はグレーで、ビオ・クルスの示す代償次第でどちらにも傾くだろう。だからこそここにきてフィーグルス家が大きな影響力を持つトルキリンの出方が注目を集めている。

 トルキリンは国のほとんどが大陸にあるが、首都はなんと外海の島にある。驚いたことに、旧世界の遺物である海底トンネルで大陸と島が結ばれているのである。多くの交通網やライフラインが隕石衝突で失われた中で、奇跡的に残ったものを、国家として立ち上げた時に利用した。その位置から、トルキリンは国として次々に復興している『北側』と、未だ謎が多い荒れた外海の向こうの大陸である『南側』の窓口となっている。

 巨大隕石1998vcの被害は、地球全土に至る。だがその大部分は地球の南半球に直撃し、直接的な被害の大半は南半球に集中した。もちろん幾千幾万と降り注いだ大小さまざまな隕石は北半球の都市にも壊滅的な被害をもたらしたが、南半球が受けた一瞬で大陸が沈むような被害に比べたら、まだ大陸の残滓を残したものだった。北半球の被害の多くは、その後の電磁生物による交通、連絡の分断だ。都市は機能を失い、崩れた瓦礫が復興を妨げた。だが南半球は大陸の存在そのものが消えた。隕石衝突から200年の時を経て、どうやら生存者がいるらしいこと、機能している都市があることなどが少しずつトルキリンを通じて北半球の国々にもわかってきた状況だ。

 ほとんど他国と交流をもたないトルキリンであるが、トルキリンの首都サーウェには、南半球のとある地点との直接通信が可能な機器があるという話を、非公式の場で大使がしている。今まで国交どころか生存者の有無すら知ることができなかった南半球の情報。もしそれをトルキリンが手にしているのなら、間違いなくトルキリンは会議で大きな発言権を持つことになるだろう。

 ルシウスは思考の海から意識を戻し、アートが入った建物をじっと見つめる。郊外の街だからか、人通りもなく静かだ。人がまったく住んでいないゴーストタウンというわけではないのだろうが、人間の生活のけはいというものがまったく感じられない。こういう場所では小さな変化にだれもが気づきやすい。皆無意識に気を張って生きているのだ。それはこれから晶に接触しようとしているアートには不利であることは間違いなかった。

 アートはどう行動するのか。

 脳内チップをだまし切り、晶を逃がすことができれば上々。だがアートがやむを得ず晶を捕まえてしまったら、自分が動かなければならない。晶の不在がアルフィア・フィーグルスを救うことにつながる。少しでも時間を稼ぎ、硝流・サラクールの行おうとしている同調率引き下げに待ったをかけることができれば、アルフィアの生存の可能性が上がるのだ。

 自然と全身に緊張感がみなぎり、アートが入った建物を凝視してしまう。息をつめて微小な動きさえも見逃さないように集中したとき、コンコンと運転席の窓をノックする音が響いた。

 反射的に窓を見て、にこにこと笑う男を認める。確か中央保安機動隊の5班の班長である男だ。

 名はなんといっただろうか。中央保安機動隊は部署が細分化されている。その在り方は各々の班でそれぞれが違う。特にルシウスの籍を置く保安1班はメンバーすべてがそれぞれの班の指揮官である。保安1班の下にクルルフ保安部、郊外担当保安部、広域監視担当班と部署が分かれ、彼は確かクルルフ保安部の5つある班のなかの混成部隊の5班班長ではなかっただろうか。会議で何度か見たことがある。だがルシウスの管轄とは異なるために名前すらすぐには思い浮かばないほどの薄い繋がりだった。

 窓を叩く男が在籍する混成部隊別名国連部隊はこのクルルフの都庁の中では厄介な存在だった。そもそもクルルフの官僚は、トリシアからのねじ込みの職員以外はサラクール家関連家の出身者が多い。それはビオ・クルスがもともと巨大財閥サラクール家が拠点を置く地域に在り、その復興にもサラクール家が大きな貢献をしているからだ。いやサラクールは世界の復興にすら大きな影響を及ぼしており、ビオ・クルスはその拠点といってもいい。サラクール家が世界の復興ではなく、自らの家の権勢のみを追求していたら、ビオ・クルスはトリシアの経済支配は受けていない。いやそもそもナルメアを世界に提供せず自らの家の秘匿AIとして隠匿していたら、今日の世界の復興はない。それほどにビオ・クルスは、サラクールありきの国なのだ。

 クルルフはそのサラクール家が拠点としている地域である。重要な産業商業などは、サラクールの息がかかっているものが根を張っている。都庁の官僚もトリシアの息のかかった者が3割であるのに対し、5割がサラクールに関わりのある人間だ。それ以外の者も、サラクールの『敵』とされる勢力は入り込む隙もないのだ。

 だがクルルフ保安部5班は事情が違う。世界中央機構とは組織を別にする国際連合が送り込んできた部隊だ。

 世界中央機構は大衝突の復興後作られた新しい組織だ。もともとの存在の目的は世界の国々の自立であるが、少しずつそれが成されてきた現在は目的を旧世界への回帰へとシフトしつつある。つまり失われた旧世界の技術や文化を復興されることを目指し、これからの世界の動きを決定している。ナルメアのサーバ本体を組織の中枢に置いているために、その発言は世界に大きな影響を持つ。電子世界を支配するナルメアの他に実動部隊も持ち、それを移動させる交通手段ももつために、世界中央機構は国々に対し強い力を持っている。サラクール家はその世界中央機構で大きな発言権を持つ一族だ。膨大な財力を有し、さらに復興に必要な旧世界の情報のサルベージの技術も他の国々の先を行っている。またサラクール家が世界に対しきちんと距離を保ち、情報や利益を世界に対して還元している姿勢も大きい。世界の人々のサラクール家の評価はおおむね好意的だ。

大国トリシアであっても、無視できない存在が、サラクール家であり、世界中央機構である。そしてここにきて国際連合も力を持ちつつあった。

 国際連合は旧世界から続く古い組織だ。もともとは国々が協力し世界の争いごとの調整を行う組織だったという。その憲章と伝えられた様々な旧世界の知識と独自の技術は、南半球に存在していると伝えられている。転じてトルキリンの首都サーウェに移されて保管されているというのが世界中央機構の統一見解だ。国際連合=国連は、世界中央機構が主体となっている北半球には介入せず、主に南半球の復興に尽力しているとトルキリンの大使が表明している。5班に組み込まれた国連部隊は、そんなトルキリンを世界中央機構への加盟を打診したときに、数ある条件の一つとして提示され組織に加えられたものだ。

 ビオ・クルスにおいてサラクールとトリシアの影響を受けない組織。その異物が5班だ。表立って特に不都合はない。5班の職員たちはそれぞれが1職員として定められた規則に則って職務を全うしている。反抗もなければ不用意な監視や介入もない。だが1班の人間の誰もがある種の警戒と疑惑の目で彼らを見ているのは確かだ。5班の職員たちもそれを肌で感じているであろうが、表面上は上手に他の職員たちと付き合っている。笑顔に溶ける彼らの目の奥が冷徹に澄んでいることを、海千山千を乗り越えてきたルシウスは気づいていた。

 目の前の男は、そんな5班をそつなくまとめる男だ。男がどのように班をまとめているかまでは把握していない。だが決して油断していい相手ではないことは分かっていた。それでも叩かれた窓を開けたのは、男の笑顔が裏などないと思わせるほどに親愛に満ちていたからだろうか。それとも国連部隊の人間は遠ざけたと瞬時に思い出させる彼のラフな私服姿にどこか気を抜いていたからだろうか。

彼の話を聞くために窓をあけて、「こんにちは」という柔和な声を聞いた瞬間、伸びてきた腕に無防備だった腕を引かれた。流れるような動作で入り込んできたもう一方の腕によって首の後ろに強い衝撃を受けた瞬間、ルシウスの意識が急激に暗転した。



□□ルシウス・マグノリア□□

トルキリンに本拠を置くフィーグルス家の末端分家の三男。実家を通じて幼い頃よりルーファス・スミシュールと知己を得る。実家はトリシア郊外にあり、高等アカデミーまではトリシアの地元の学校に通う。大学は実家の強い勧めで世界中央機構の本拠地があるサラヤの付属アカデミーに進学する。21歳の時にアートに出会い、それからは世界中央機構に籍を置きながら、アートの専属秘書官を務める。


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