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「貴方が現場に行くとは思いませんでした」

 静かな車内で目を閉じて車の揺れに身を任せていたアートは目を開けてミラーに映るルシウスを見る。後部座席から運転席に座る彼は後頭部しか見えず、ミラーの中の彼も視線を前方に固定しており、アートと視線が合うことはなかった。独り言にしては大きいそれにアートは首をかしげた。

「なぜ?」

「貴方は籠の鳥である晶様に同情していた。貴方が現場に行くと、彼女は捕らえられてしまうでしょう?」

 C-Ⅱチップに脳内を管理されているアートが現場に行き晶に遭遇してしまうと、アートの意思がどうあれ晶を捕まえなければならない。それが硝流の命令だからだ。現場に出なければ、少なくとも晶を強制拘束できる人間がいない分逃げ切れる可能性は上がる。硝流には晶を捕まえるようにとは命令されたが、アート自身が現場に出るようにとは言われていない。ルシウスが言うようにアートは警邏庁舎で采配を奮うだけでも脳内チップは容認しただろう。

「俺は硝流様に逆らえない」

「それでもやりようはあるでしょう? 貴方なら禁忌をかいくぐって自分を通す術を持っているはずだ。結局は貴方にとっては晶様は庇護する対象ではあっても、心を向ける相手ではないということですか?」

 ルシウスの言葉に責めるようなものを感じ、アートは苦く笑う。世界中央機構に居た時からの付き合いだ。アートがルシウスをよく知るように、ルシウスもアルフィア担当だった時はアートの傍を離れたが、それ以外は常に側にいたのだ。きっとアートの心情はよく理解しているのだろう。

「晶様のアレは一時的なものだ。大人になると笑い話になる」

 目を閉じると脳裏に浮かぶのははにかんだ笑顔と幼い声が必死に告げる『好き』の告白。心があたたかいものに包まれたのは事実だ。微笑ましくて自然と優しい声が出た。「ありがとう」と。「でも貴女はいつかふさわしい人に出会うから」とやんわりと突き放すと、晶は大きな目を揺らして震える声をだした。

 「アートは好きな人がいるの?」と聞かれ、微笑んで頷くと泣き笑いのような表情で「分かった」と言った彼女に、同情のような苦い気持ちと、それでも穏やかな幸せを願う優しい気持ちが湧き上がり、思わず彼女の髪を撫でていた。

「彼女には幸せになってほしいと思う。これ以上理不尽な思いをしないように、心のままに生きてほしいと」

 晶を見ていると、心が温かくなる。まるでひだまりのようだ。笑顔がかわいい。声が心地よい。少しずつ感情を取り戻す様が、本当にいとおしい。

 幸せになってほしいと思う。

 もし今彼女の側にいる軍人とともに居ることが彼女の幸せなら、その願いがかなえばいいと思う。逃げ切った先に彼女の幸せがあるのなら、脳内チップを欺けるだけ思いに沿おうと思うのだ。

「彼女に応えないのは、アルフィア様がいるからですか?」

 アートの傍に付き従う時間が多いルシウスだからこそ思うところがあるのだろうか。彼はいつもよりも饒舌で踏み込んできていた。アートは答えることができず、視線を窓に向けた。

 アルフィアを愛していると思っていた。

 でも違った。

 幸せになってほしい。傍で笑っていてほしい。

 穏やかで心に染み入る優しい気持ちはアルフィアに確かに向けていたものだ。

 でもそれは、アートを慈しんでくれた家族に、あの日アートを拾ってくれたルーファスやその母や兄弟になってくれた姉たちに向ける気持ちと同じものだった。この温かく静かな感情しか愛というものを知らなかった。だからアルフィアに向けるものが、アルフィアが自分に向ける愛情と違うと気づけなかった。

 あの日本当の衝動を知った。

 愛とは欲なのだと知った。

 心に獣が棲んでいることを思い知った時、アルフィアを裏切っていた自分を知った。

 ルシウスはフィーグルス分家の出身だ。アルフィアは彼にとって宗家の姫君で、なによりも敬い守るべき存在だろう。アートも世界中央機構に入構するまではそう叩き込まれた。アートがアルフィアと恋人関係であると周囲に認められているのは、それがアルフィアの望みであるからと同時に、フィーグルス家宗主が黙認しているからだ。フィーグルスに忠誠を誓うルシウスから、アルフィアに関して嫉妬にまみれた言葉を聞かされたり、内情を聞かれたりされたこともない。彼と再会したのはアートの本拠が硝流の支配下に移った後であったし、その時にはアルフィアとは意思の疎通はできなくなっていた。彼の目の前でアルフィアと恋人同士として接したことはない。アートはルシウスの前でアルフィアと会うことは止めた。機械に繋がれ眠るだけの彼女には何度も会いに行ったが、執務の合間に1人で会いに行った。ルシウスにアルフィアを愛していないことを知られたくなかったからだ。アルフィアを見つめる自分が以、前のように彼女を愛していると盲信していた自分と違うと自分自身が気づいていた。

「目的地に着きました」

 静かに告げるルシウスの言葉が時間切れを教える。アートはほっと息を吐いた。

「ルシウスは車で待機していてくれ」

 そう告げて、安堵する心を隠して息を吐いた。

 車外に出て、目の前の建物を見上げる。古びた三階建てのビルだ。クルルフに多い近代的な建物ではなく、流行おくれのテナントビルだった。資料で見た、晶が件の軍人と一緒にいた花屋があった街の隣街のちょうど境界になる地域だ。ぐるりと見まわすと、この建物だけでなく、視界にはいる建物すべてが古めかしい。人通りもまばらで、走っている自動車も少ない。閑静な街だ。

 『大規模演習』に出た他の班はまだここにはたどり着いていない。再び対象の建物を見上げて、アートはここに晶がいると確信した。1階のテナント部分に看板は出ていない。向かいの道路に立つアートからも内部の様子はうかがえない。閉鎖されたテナントだ。上階にはざっと見て10ほどの部屋があるようだ。そのどこかに晶がいる。

 アートはゆっくりと歩き出した。何となくではあるが確信がある。他の班の到着を待ってもいいが、大人数で押しかけて騒ぎを大きくするのは望ましくないだろう。それに話を聞く限り、向こうは晶を除いては1人であるはずだ。晶を強制拘束する術がアートにある以上、応援を待つ必要もないだろう。

 アートはビルの横に設置された非常階段から足音を殺して上へ向かった。まずは2階に滑り込み、熱源探知を起動して気配を探る。ここには人がいるようだ。いくつかの部屋で探知にひっかかる。だがアートは踵を返し、3階に向かった。階段を上り、3階に降り立つ。降りた瞬間から「ここだ」と分かった。ゆっくりと歩き、2つの熱源のある部屋の前に立つ。

 ノックをしようと手を上げて止めた。意味のないことのように思えたからだ。恐らく内部の人間も気づいているだろう。熱源が部屋の隅で不自然に動きを止めたからだ。

 古びた鉄製の緑色のドアを開けた。ノブを回した時にきいと音が鳴ったが、気にせず靴のまま入り込む。ドアを開けてすぐはがらんとした空間だった。ここに人の気配はない。アートはかまわずキッチンスペースを回り込み次の部屋に入った。ドアのないもう一つの部屋は、キッチンコーナーを回り込むとすぐに視界に入った。部屋には大きなソファと、奥に大きな窓があった。その窓の少し手前に、晶と資料で見た青年が立っていた。

 アートの予想通り、二人はアートの侵入に気づいていた。二人とも閉まってはいるが窓を退路にしてアートを見つめている。アートが部屋に入った時から青年が晶をかばうように立ち、小柄な晶はその姿を半分以上隠されているが、ナルメアからの近接接続情報によると健康状態に異常はないようだ。自分の意思で青年の傍に立ち、今もぎゅっと青年の手を握り締めている。

 アートは抜け目なく晶を観察し、青年に視線を移した。

 思ったより上背があった。肩から上の写真のイメージで何となく背が低いような気がしていたからだ。実際はアートとあまり変わらないだろう。晶が傍にいるからだろうか。体格も考えていたよりもがっしりとして見えた。

 ただ抜け目なくアートを見つめるブラウンの大きな瞳は冷たく、丸くて可憐な形をしているが、写真で見たよりもシャープに見えた。顔色も写真よりは幾分日焼けが抜けて肌が白い。だが血色は良く頬や唇は男性とは思えない可愛らしいピンク色をしていた。

「わたしは近衛警邏1班の者だ。緊急事案につき強制的に侵入した。令状はまだだが、もうしばらくしたら書類も整う。そちらの女性をお渡し願う」

 御託を並べようとも思ったが、簡潔に告げる。晶と青年の関係性が分からない以上、情報をくれてやる必要もない。もし晶とこの青年が親しい関係性だったら、それだけ述べれば通じるだろう。

晶とアートの間に立ちはだかる青年は、少し気遣うように目だけで晶を振り返る。彼の手を握る晶の手に力が入ったのが見えた。

 二人はどう出るつもりなのか。退路は窓のみ。敵はアート一人。とにかく運動能力のない晶は、現在補助アプリの接続を切っている。ここは三階なので彼女を抱えて窓から飛び降りるのも至難の業だろう。晶がいるので襲撃者がアート一人なのはおそらく知ってはいるだろうが、足手まといを連れてアートの手をすり抜けて晶をさらうのは難しいはずだ。思えばおそらくアートが近づいているのを知りながら、二人はこの場所を動いていなかった。必ず何か意図があるはずだ。その意図が分からなければ、合わせてやることもできない。

 油断なく見つめる青年の横に、晶が並び立った。まずは言葉を失った。髪が朝見たときよりも短くなっている。背中の半ばほどまであった艶やかな黒髪はザンバラに切られ、耳の下までしかなかった。

「髪が……」

 髪を見て思わず呟いたアートは続けて息を呑んだ。青年を少しすがるように見つめた晶はきゅっと唇を引き結びゆっくりとアートを見つめた。部屋に入ってから初めて彼女と視線が絡んだ。

 ひゅうっとアートの喉の奥が鳴った。

「わたしは行きたい場所があります。今は帰れません。硝流兄さまにもそうお伝えください」

 聞きなれた声が鼓膜を震わせた。だがアートはその声に意識を向けることができなかった。視線が、彼女の瞳から外せない。脳が視覚以外のすべての機能を停止させていた。

 闇を研ぎ澄ませて透明にしたかのような群青の瞳。大きなその虹彩に刷かれた一筋の銀の筋。まるで彗星のような輝きがまっすぐにアートを見つめていた。

 瞬間、血が滾った。その瞳が、声が、記憶と一致した。

 違うと思った。今朝も確かに朝のルーティーンで晶に会って会話をした。いつものように輝くような笑顔でアートに好意を伝えた彼女に、冷めた心で応対した。いつもと同じ朝だった。

目の前の少女はアートの日常に突如舞い降りた異物だ。目も鼻も口も、美しい顔も、華奢で小さな体も、今アートを見つめる少女は今朝会話をした少女と容姿はなにもかも一致する。でもずっと彼女を探し続けた本能が、今朝存在した晶と違う存在だと叩きつけてくる。その瞳をずっと求め続けてきた。幻想の中の存在だと、もう会うことはないのだと自らに言い聞かせても、ずっと探し続けてきたのだ。

「貴方は誰だ?」

 掠れた声が出た。思わずこぼれ出た言葉だったが、彼女はその宝石のような瞳を大きく見開いた。それだけで、確信した。見開くことでよりきらきらと輝きを増した瞳に、求める心が呼応する。

「アキラ。貴方を拘束する」

 そう宣言して駆けだしていた。鼓動が大きい。いつにない感覚だ。まるで口から心臓が飛び出しそうだ。どんな時でも、命の危険があるときでさえこれほど動揺したことはない。だが今は毛穴という毛穴は開き、全身で興奮している。胸が焼けるほどの激情のままにトスカミュールをベルトから引き抜き、晶がすがる青年の肩に振り下ろした。

 目を見開く青年が残像のように見えた。避けるのは読んでいる。アートが部屋に入った時から、青年が身体強化をしたのは分かっていた。青年の避け方によってこちらの対応が変わる。

マニュアル通りならば彼は被警護者である晶を突き飛ばしアートのトスカミュールを避ける。そうしないと次手が遅れる。晶と引き離した青年をそのまま攻撃し、彼を拘束する。彼―マリス・ナリファスには聞きたいことがある。多少の怪我は仕方ないとしても、生きて捕えなければならない。相手は国連部隊出身。一応の訓練は受けているだろうが、対人戦を主とした戦いというよりも、災害復興部隊としての働きが大きかったはずだ。一対一の戦闘で負ける気はしない。多少時間がかかるが生きて拘束できるだろう。

もし彼がマニュアルに反して晶を抱き上げて避けるなら、アートの次の攻撃が通る。晶を抱えた青年にアートがスピードにおいても経験においても後れをとることはないだろう。

だがもし青年が晶を宝物のように抱きしめたなら、アートはマリスを生かしておくことはできないかもしれない。それほどに研ぎ澄まされた感覚に身をゆだねながら、内心は揺れ動いている。常に監視され爆弾で脅迫されている状態だ。自分を律することは完璧にできている自負はあった。だが今は自分が採るべき選択を選ぶことができないかもしれない。

マニュアルに反し、青年は晶を抱えて後方に跳んだ。彼女の腰に腕を回し、大きく跳躍した彼は反撃することはできない。人間一人を抱えるということはそういうことだ。更に密着した二人の距離に、アートの脳内は沸騰する。空を切ったトスカミュールを強く握り、それによってわずかにバランスをくずした体制を軸足をばねに立て直すと、次の瞬間には地を蹴り、二人に向かって駆け間合いを詰めた。

間合いを詰めるのは一瞬だった。晶の腰に回る青年の左腕に向かってトスカミュールを振り下ろす。視野の隅に映った青年の表情は一瞬で引き締まり、今度こそ彼は晶を突き飛ばし、崩れた体勢を立て直すために床を転がり身を起こした。どさりと晶が背中から着地し転倒する。能力すべてが机上作業に全振りし、運動能力が極端に低い晶はもちろん受け身を取ることはできない。投げ出された右側から床に転がり、小さくうめいた。彼女が頭を抱えるように軽く腕を動かすのを見て、アートはトスカミュールの形状変化をナルメアに申請した。

トスカミュールはビオ・クルスの執行機関の職員が支給される唯一の武器だ。非戦闘時には30センチほどの棒状の柄のみの形状で、職務に赴く際携帯が義務付けられる。第一種戦闘時―携帯する者が特に命の危険を生じず、何らかの戦闘が行われる際には無申請で携帯ベルトの『鞘』から抜くことができる。当該『執行モード』では柄から棒状に6.0センチほど伸びて戦闘を可能にする。刃物ではなく主に接近戦で打撃によるダメージを与えるものだが、棒状の先端に10センチほど微小の針が500本ほど付いている。この針には強力な麻酔薬が塗布されていて、攻撃がたとえ相手の急所に入らなくても、この針がかするだけで針の麻酔薬によって相手は戦闘不可能になる。

それだけでも十分殺傷能力の高い武器だが、トスカミュールは第二種戦闘時―携帯するものが命の危険を伴い、Cチップを通じてナルメアに申請・承認時には『殺害執行モード』となる。サブマシンガンに形状にメタモルフォーゼをしたトスカミュールからは高出力マイクロ波が照射され、対象物の水分を沸騰蒸発させ、水蒸気爆発を誘発する。対象が膨張し破裂する様はかなりえぐく、殺害執行モードが承認される事例はあまりない。

今回はもちろんアートに命の危険はない。執行モードで拘束するべき事案だ。だがアートは第二種戦闘状態を選択した。通常の隊員なら棄却される。だがアートは世界中央機構が派遣した幹部クラスの人間だ。ナルメアに発した申請が棄却されたことはない。今も手の中の棒状の武器はアートの申請に応え熱を持ち、淡く発光し始めている。メタモルフォーゼの前兆だ。

青年―マリス・ナリファスが目を見開き息を詰めた。ひゅっという空気が鳴る音が耳を打つ。彼もアートが何をしようとしているのか分かったのだろう。反射的に彼の筋肉が収縮し、間合いから避けるように跳躍するのが見えた。

だが遅い。アートは笑った。トスカミュールの銃モードの射程は25メートルだ。どれほど避けても、この狭い部屋だと捕まえることができる。殺意を持ってアートがトスカミュールを持ち上げた時、急速に手の中の熱は存在を失った。

申請を棄却された。驚愕は一瞬だった。ちらりと晶を見ると彼女は倒れた体勢のままアートを見ていた。その潤んで濡れた群青色の瞳はきらきらと熱を持ち、まっすぐにアートを映している。インターフェイスだ。彼女がナルメアに接続し、アートの申請を棄却した。

初めて晶に拒絶された。

一瞬アートの体の動きが停止する。だが戦闘中の熱と高揚を無理やり思い出し、晶から視線をマリスに移す。マリスは一瞬の攻防を理解したようだ。油断なくアートを見ながら、肩で息をしている。アートを見ながらも彼の意識が晶に向いていることが分かった。

突然マリスが肩を押さえ膝を付いた。先ほどトスカミュールを振り下ろした時に、針の一つが彼をかすめたのだ。1ミリほどの傷がついただけでも、一瞬で行動の自由を奪う強い麻酔薬だ。マリスは何らかの訓練をうけているのか意識をすぐに奪われてはいないようだ。顔色もほとんどかわっておらず、発汗もしていない。だが少し荒くなった呼吸が彼の変事を教えていた。

どさりとマリスが倒れた。意識はほとんどなかっただろうが、頭部を守るように倒れたのはさすがというべきだろう。だが彼ができた抵抗は自らの最低限の命を守る行動のみ。戦闘相手であるアートの目の前で無防備に背中をさらしたマリスは、完全にアートに制圧されたといっていい。

アートはゆっくりと晶を目指し歩いた。意識を失った男の処理は後でいい。今は何よりも晶を手の内に捕えることを優先したかった。ことさらゆっくりと歩いたのは、晶に心の準備をさせるため。そして荒れ狂う自らの心を静めるためだ。

「マリス」

 晶が悲痛な声を上げた。肩が痛むのかかばうようによろりと立ち上がった彼女の腰を一瞬で間合いを詰めて捕まえる。彼女が男の名を呼んだことからも晶と青年の親しさがうかがい知れる。突然の邂逅にアートの心も荒れ狂い、晶の瞳に自分の知らない誰かが映ることすら許せそうになかった。

 アートに捕らえられ、晶は飛び上がるように驚いたようだ。小さく悲鳴をあげて距離を取ろうとする。その身じろぎほどの抵抗を封殺し、晶の瞳をのぞき込む。深海の色。宇宙に走る銀の残像。その奇跡がともに在る瞳を。アートが長い間焦がれた瞳を。

「アキラ」

 アートの呼びかけに晶が目を見開く。彼女は悟っただろうか。アートがアキラの存在に気付いたことに。長い間傍にいながら欺いてきた哀れな男に捕えられたことに。

 初めて会った時に彼女だと思った。でも二度目に会った時には晶の中から彼女は消えていた。

 だからずっと「晶様」と呼んできたのだ。もう彼女はいないのだと自らに言い聞かせるために。

「貴方を拘束する」

 その瞳を見つめながら宣告する。先ほどは無線での接続だったために晶の方から接続を拒むことができた。だが今は。ゼロ距離の今ならば確実に晶を捕えることができる。

 C-Ⅱチップのみに許された権能。ナルメアを支配することが可能であるために、すべてのチップの上位に立つDチップを、唯一制限できるチップ。Dチップを制御するストッパーであるC-Ⅱチップは、Dチップ装着者の意思に反して、彼らの意識を支配下に置くことができる。Dチップに課された唯一の枷だ。晶はアートから逃れることはできない。

 晶の瞳を見つめ、その手を取る。チップに意識を集中する。ゆっくりと繋がり、包み込むイメージ。静かに静かに入り込む。大きく見開いた群青の瞳がゆらゆらと揺れる。アートが握りこんだ手が、ぎゅっと握り返された。

 晶と繋がる。しっかりと捕まえ、支配する。

 この瞬間は好きではない。Dチップ装着者が心を守るために反射的に暴狂う意識を、抑え込むのは心が痛む。だが先ほどからアート自身にも制御できない荒れ狂う加虐心が、残酷にも晶を支配することに喜びすら感じさせる。しっかりと彼女の意識を捕え抑え込んだ時、支配した高揚が全身を駆け巡った。

 一瞬だった。晶の瞳が銀に輝いた。その瞬間に、精緻に張り巡らせ囲い込んだ檻が破壊され、支配者と被支配者が逆転した。

 はっと息を呑んだのは、晶だったか。アートだったか。二人の意識が見つめあったまま拮抗した。思わぬ反撃にアートは思考停止する。アートを見つめる瞳は群青で、涙をたたえたそれはゆらゆらと揺らめいていた。

 突然後頭部に衝撃が走る。遠のく意識を一瞬で手繰り寄せ、倒れようとする体を立て直す。足を踏ん張り振り返った時、こめかみに鈍い痛みが走った。

「かっはっ」

 目の前が真っ赤になり、口の中に鉄の味が広がった。思わず口からこぼれ出た呼気は血の唾液も一緒に吐き出す。

 急所をとらえられた。体の制御がきかない。アートは必死に晶をとらえた手のひらに力を入れようとしたが、その手から求める温もりはすり抜けていった。

 手の中にあった存在が去り、アートは離れていく背中を見つめる。目を開けと叱咤する意識に反して、視界がひどく緩慢に狭まっていった。晶は腕を開いたマリスに飛び込んでいった。先程無様に倒れたはずの男はしっかりと晶を抱き止めると、一度アートに視線を向ける。距離は1メートルと離れていない。だがアートは再び失う未来に心が沸騰しそうだった。

 手を伸ばそうとした。名を呼ぼうとした。だが意思に反してアートの体は何一つ反応を返すことはなかった。一度だけ振り返りアートを写した群青の瞳は、再び自らを抱き締める青年に向かう。彼女の耳元で何かささやく青年に応えるようにうなずいた晶は集中するように薄く目を閉じる。そして促すように背を押す青年に続きアートの横をすり抜けていった。小さくなっていく足音に慟哭する心を引き裂かれながら、アートは何度もその名を呼んでいた。



□□身体強化□□

ナノマシン手術を施された軍事サイボーグに標準装備されている機能。衛星の支援なく身体機能をあげることができる。筋力の増大と感覚器官の向上は戦闘時には必須の機能で、身体強化を行っていない一般人との筋力の差は10倍、感覚器官の差は50倍と言われている。ナノマシン手術はCチップとは独立した技術で、Cチップ保有者ではなくなっても身体強化機能は残る。


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