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「アート」
警邏庁舎のエレベータを降りてしばらく歩いた時に、廊下に佇んでいた人影に呼びかけられて、アートは懐かしい回想に漂っていた思考が引き戻される。金色がかった茶色の瞳を細く眇めてアートの姿を視線に収めると、彼は歩くアートの横に立ち並ぶ。どうやら待たせていたようだと気づき、ちらりとフィーグルス一族特有の金が混ざる瞳を見返した。
「聞いたか?」
彼-ルシウス・ヒューリマンとは、世界中央機構で座学を叩き込まれていた時からの付き合いだ。要点のみの呼びかけで十分通じるのは分かっている。ルシウスは数度茶金の瞳をまたたかせ、歩を止めないままアートに続き、軽く頷いた。
「先ほど3係から報告が上がってきました。貴方が執務室にいらっしゃらなかったので、私の方に」
「その件で硝流様から呼び出しをうけていた」
おそらく予想していたのだろう。ルシウスは何も言わず頷いた。
アートが所属する近衛警邏1班の主な仕事は要人警護だ。班長であるアートを頂点に、ルシウスがその補佐で副班長、その下に1~4係と警護内容によってグループに分かれている。またそれぞれの係長は近衛警邏2~5班の主任も兼務するので、1班の中間管理職は他の班とは違い、上級政務官の資格を持つ官僚でもある。そのためアートやルシウスとは違い、1班の隊員は武官というよりは文官といった括りになる。班の中でのやりとりや伝達は、アートが世界中央機構の訓練担当部署で学んだ、上下関係が厳しくどこか熱い世界とは違い、冷めた権謀うずまく、政治の写し絵のようになっていた。
アートは世界中央機構の担当として、毎朝タウンハウスの晶の部屋まで迎えに行き、彼女をアカデミーまで送る。これは晶の担当についてから休みなく続けられてきたし、その日常に異変が起こることはなかった。
アカデミーからは1班3係の現場先着隊と晶に張り付く対象警備隊に引き継ぐことになり、今日も問題なく彼らに引き継いだ。晶の失踪は現場先着隊が、常駐するアカデミーの門から晶の次の移動先である昼食食堂に移動し、晶が昼食に移動した際に起こったようだ。明らかに引き継ぎの隙間を狙った意図的な失踪である。晶の失踪を認識した対象警備担当が連絡をよこしたのが先ほどだが、硝流が情報を掴む方が早かったようだ。
ルシウスからの説明を聞いて状況を把握したアートは悩ましく頭を振った。晶が起こした行動はそれほど突飛なものではない。完全に油断をつかれた形だ。
晶の警護は、衛星からの晶のGPS情報や登録した生体反応をに頼っている。晶が研究室で扱うものが極めて秘匿性が高いものだからだ。彼女が研究室にこもると、警備部隊は同じ部屋に入ることは許されないので、ドアの前で衛星からもたらされる彼女の情報で無事を確認する。もちろん通常はそれで問題はない。衛星からの情報を任意で書き換えることができないからだ。だが晶はそれができてしまう。しかもいつもは従順で大人しく、行動が鈍い彼女だ。毎日の繰り返しの中、どうしても油断が生じてしまう。
どうしたものかと頭を悩ませながら到着した会議室のドアをノックして、部屋を見渡す。今日の先着警備担当の二人と、対象警護の二人、近衛警邏2班班長と彼を管轄する1班2係の主任が既に揃い、大きな机を囲っていた。
「晶様。失踪したんだってー?あんたに振られ続けて、自棄になったんじゃね?」
2班班長がにやにや笑いながら軽口をたたく。
彼は修司・タギキリス。特に大きな家の後ろ盾なく、現場からのたたき上げで隊を預かる班長にまで出世した男だ。精悍な少し日に焼けすぎな顔は40という年齢に見合わず若々しい。40歳というと現在の平均寿命を考えると十分に年嵩であるが、彼は衰えを見せることなく精力的に働いている。軽口や気安い態度で派閥主義の軍の中を巧みに泳ぎ、四角四面の若い世代にも絶大な人気を誇っていた。
彼の指揮する2班は機動隊である。事件があった時に武装して現場に乗り込み、武力を以って解決をする。平和な現在では国内での出番はあまりないが、国同士の取り決めで海外へ派遣されることもある。
修司・タギキリスとアートとの関りは仕事上のものだけだが、彼の性質なのか一応上司ではあるアートへの彼の態度はいつも気安い。アート自身は特に嫌悪感はないのだが、いつもアートに付き従うルシウスはいつもその態度を見ると、注意はしないのだが、不快そうに口元を歪める。いや初対面から距離の近い彼に最初のうちは注意していたのだが、アートが気にしておらず、修司にも直す気がないのであきらめたのだ。だが今の軽口はいただけない。アートは軽くため息をつくと、修司の言葉にびくりと肩を震わせた今日の対象警備の二人になだめるように軽い笑みを向けて、修司には渋面を向けた。
「軽率な言葉はつつしんでくれ」
修司が言ったように、晶がアートに『振られ続けて』いるのは事実だが、それはいつも行われるルーティーンのようなものだった。1度目は怒涛のはじめましてだったから、2度目の邂逅から行われているその『告白』は、今日まで欠かすことなく続けられている。Dチップ装着者と担当者との定例の顔合わせであるため、密室での出来事ではあるが、何せ毎日のことだ。どこからか外部に漏れたようだ。修司自身も挨拶代わりの軽口だったのだろう。アートの言葉に軽く肩をすくめて「悪かったよ」とさほど悪く思ってなさそうな顔で言った。
大きな黒い瞳を潤ませて、頬を赤く染めて小さな唇から紡ぎだされる「アートが大好き」という言葉は、特にアートの心を震わせることはないが、快か不快かでカテゴライズすると快い言葉に分類される。一時の気の迷いと断ずるには熱を帯びていることは感じるが、もちろんその思いにアートが応えることはない。その言葉を与えられ、思いを返した昔の自分の罪を思い出させる。アルフィアに対して抱いている罪悪感を刺激する。だがやはり温かい言葉は耳に心地よい。思いを返すことはないが、晶にはいつも「ありがとうございます」と返していた。晶はアルフィアのようにアートの思いを望まない。思いを受け取ったことを示すだけで、とてもうれしそうに微笑むのだ。
「先ほど警邏の中央管理室とクルルフ市内の防犯カメラとのリンクが完了しました」
微妙な空気を塗り込めるように、2班主任の匠・サーチェスの声が淡々と割り込んでくる。アートは拡散しようとする意識を集中させて修司に向き直った。
「今は2班の『大規模演習』の根回し中だ。都庁からGPSとのリンクの許可が出次第、ここを出る。あとサーチェス、今日の午後の市内の防犯カメラ映像から晶様の足取りを追ってくれ」
「もう解析中だ。大規模演習の許可が出るころには大体の現在地は割り出せるはずだ」
既に手配済なのだろう。文官の匠・サーチェスではなく、修司が横から答える。こういったことは抜け目のない男だ。
アートは修司から今日の警護担当の4人に視線を移した。
「今日の出来事を時系列で教えてくれ」
4人のリーダーにあたる男が少し頷いて口を開いた。
「班長から対象を引き継ぎ、わたしともう一人の対象警備担当が晶様に付き従いました。先着警備の2人が先にアカデミーに入り、問題ないことを確認しています。晶様は研究室に入り、わたし達は部屋の外での待機になりました。いつもと同じ食堂が空く時間帯に晶様は研究室を出て、わたし達2人を連れて食堂を目指されました。特に手荷物は持っていなかったです。食堂に入る前にトイレに行きたいとおっしゃったので、わたしが1人トイレの外まで同行しました。その後は10分経過しても出て来られないので、女性職員を呼びに行き中を確認してもらいました。わたしはトイレの前から動いていません。中には人はいませんでした」
「トイレには窓があるんだよな」
「そうです。空気を取り入れる小さなもので、成人した男性が通るのは難しいですが、晶様なら通ることは可能だと思います。窓から地面まで距離がありますが、それでも1階ですので、そこから脱出は可能です。窓は閉まってはいましたが、施錠されていませんでした。先着警備の者が守る正門からも死角になっており、警備対象外の職員通用口が近くにあります。職員通用口は自動セキュリティですが、不審なものが出入りした形跡はありませんでした」
「おそらく彼女はトイレの窓から出て、職員通用口から外に出た。セキュリティは書き換えられたんだ」
アートの言葉に、ルシウスは議事録用のメモを取りながら、軽く頷いた。
「そのルート以外にはないでしょうね。行き当たりばったりにも思えますが、おそらく以前から綿密に計画されていたと思われます。ためらいがなく、スムーズだ。制約がさまざまある我々では、本気で姿を消すことを計画した晶様を止めるのは、難しいですね」
「硝流様も警備体制の不備は指摘されていなかった。ただ彼女を連れ帰るように話があっただけだ。今日の警備担当が処分をされることはない」
「しかし大げさ。今までも何度かあっただろう。市内を探せばすぐ見つかるさ。『大規模軍事演習』の根回しまでして、2班を出動させるなんて」
肩をすくめてぼやく修司を宥めるように少し笑みを見せるとアートは口を開いた。
「会議前だからな。彼女はキーパーソンだ。せめて会議が終わるまでは目の届くところに留めておきたいのだろう。2班からは何人出せる?」
「うちからは市中警備にも人員を出してる。誰かさんが5班を遠ざけたから人手不足なんだよ。10人が限度だ。大体女の子1人だろう。フィーグルス班長が出たら拘束だってできるんだ。1班だけで十分だろう」
「国連部隊出身の軍人が一緒にいる可能性がある」
アートの言葉に、修司が「へ?」と間抜けな声を発して絶句する。
「軍人?詳細は?」
「特Sナルメア・プロテクションで詳細は秘匿されている。分かっているのは年齢と名前だけだ」
アートが言うと、机の中央に置かれた小型のモニタに先ほど硝流に見せられた件の人物の写真が映し出される。
「マリス・ナリファス。21歳だ」
モニタに映し出された顔をまじまじと見て、修司はぽかんとしている。
「これ軍人か?女?」
「いや男だ。どれほど使える人間なのかは分からない」
「これが晶様と一緒にいる、と?」
「その可能性がある」
「特Sナルメア・プロテクションで詳細を隠されている?」
「そうだ」
「いやいやいや。え?晶様の知り合い?フィーグルス班長は知ってたのか?」
「いや、初めて見る顔だ」
アートも渋面を作って首を振った。Dチップ装着者の交友関係は担当者によって完璧に把握される。アートも常に晶の身辺には気を配っていた。だがこの人物は本当に初めて見た。接触しているかもしれないと言われても信じられない。
アカデミーに入るまではサラクールのタウンハウスの奥に守られて過ごし、アカデミーに通うようになっても、常に警護の者に守られてアカデミーを往復していた晶だ。誰かと親しくすることはなかったし、少しでも知己を得ていたら、アートに報告がきていた。それは彼女が街歩きと称してクルルフの街に出た時も同じだ。自由に過ごしているように彼女に思わせていたが、行動は把握しており、接触した人物は後からすべて調査が入った。マリス・ナリファスという人物は、本当に晶の周囲に忽然と現れた男なのだ。
「大規模軍事演習の許可が都庁からきました」
困惑した空気を切り裂くように、自身のPSPCに目を走らせた2班担当の主任が告げる。男たちに緊張が走った。
「どうする?」
修司は既に指揮官の顔になってアートに問う。アートは軽く頷き口を開いた。
「人手不足は理解している。2班からは10人でいいが、精鋭を出してくれ。2人1組で動く。うちからは俺とルシウスが行く。防犯カメラ映像から算出した可能性が高い6か所に緊急車両6台で現着してくれ。探索を終えてもし対象に出会えなかったら、現場から一番近く可能性が高い場所に移動する。6台が連携を取りながらこれを繰り返す。ここが臨時の管制室になるので、サーチェスここに待機し、全員への連絡と、都庁からの指示の中継を頼む」
アートは簡潔に指示を出した。待機を命じられた2班主任が目の前の端末を操作しモニタに地図が映し出される。クルルフ郊外の地図だ。20か所ほどに点滅している場所があり、数字が振ってある。
「晶様は無傷で保護。ナリファスという軍人は拘束。抵抗するようなら多少傷つけてもいい。必ず生かして拘束するように」
アートの指示に座っていた1班の面々は立ち上がり、一礼をして部屋を出ていく。修司も「了解」と答え、携帯端末を操り、2班へ簡潔に指示を出し始めた。
「遠隔でのC-Ⅱチップでの拘束は失敗したんだよな」
端末をポケットにしまいながら、修司がアートに向き直る。そしてあごを掻きながら、そう問いかけた。
「ああ。回路を断たれている。だが彼女と接触したら強制拘束は可能だ。必要があればチップで拘束する」
先ほどの苦い思いがよみがえり、アートは顔をしかめる。回路を断たれる感触が生々しくよみがえった。
「強制拘束って……。あんなに毎日好き好き言われて情はわかないのかよ。晶様かわいそう」
まるで見てきたように語る目の前の男に、アートは鼻白む。修司という男は司令官という立場であるのに情に篤い。それが彼の慕われる理由なのだが、まがりなりにも一つの組織を預かる人間としてはどうなのだろうか。
「警護対象だ。ありえんだろう」
「ほー。何年か前に警護対象と恋仲になった男を知ってるがねえ」
珍しく絡んでくる男に本気でうっとうしくなる。案件がたまってイライラする気持ちも分からないでもないが、それをぶつけられても困る。
「晶様は15歳だぞ。応える方が大問題だ」
「まあなあ。怖い兄上がいるからなあ」
苦笑して手を振って手打ちを表す男に冷たく一瞥をくれる。修司は肩をすくめて「悪かったよ」と悪びれることなく言った。
「どうせフィーグルス班長が行くところが本命だろう。分かるんだろう?晶様の居場所」
出口に向かいながら言う修司に横に並びながらアートは頷く。
「近づけば。恐らく」
「こわいねえ。チップ同士の絆ってやつは。まあこっちもせいぜいがんばるよ」
ぽんぽんとなれなれしくアートの肩をたたき、隣に並ぶ男は笑う。後ろに付き従うルシウスから大きなため息が聞こえた。
□□修司・タギキリス□□ ビオ・クルス郊外のファームノという街出身。4人兄弟の一番上。ファームノは首都クルルフからも遠く都市計画からは外された地方に属する。周囲を山に囲まれ風があまり通らず、稲作をなりわいとする家が多い。修司の実家も田んぼを所有しており、子どもの頃は田んぼのあぜ道を駆け回って過ごした。学校に通うため10歳で一番近い地方都市ナミスナに1人で居を移し、住み込みで働き、14歳から市立の中等学校に通う。寮生活で働きながらの通学であったが、そこで頭角を現した。学校推薦で20歳の時にナミスナ市長推薦を得て奨学金を獲得。第二都市ハルファで防衛士官養成学校に入学した。20歳で士官養成学校に入学は、後ろ盾をもった比較的裕福な家庭に育ったものが多い学生の中ではかなりの年嵩ではあったが、彼はここでも上級生同級生下級生に関わらずに慕われ、生徒会長も務めた。24歳でハルファ中央警吏部隊に入隊。ハルファでの治安維持に努めた。転機はハルファに拠点を置く、サラクール系財閥とは敵対する企業が起こした大規模な産業スパイ事件。潜入捜査に入ったクルルフ中央警邏の人間と合同で捜査にあたり、想定されたよりも被害を小さく解決できた。その一助を担ったのが、当時ハルファ中央警邏で一つの班を預かっていた修司であり、潜入捜査に入っていたクルルフ中央警邏の隊員の推薦を得て、クルルフの中央警邏に異動になった。現在40歳