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「君の担当は、アルフィア・フィーグルス。フィーグルス宗家の一人娘だ。君は相続権を持たない養子としてフィーグルス家に入ることになる」

 あいさつもそこそこにそう切り出したルーファスは、表情を歪めてアートの返事を待った。良家の嫡子として教育を受け、巨大組織のナンバーツーまで上り詰めても、彼は表情豊かだ。心の裡を隠す意図や相手に誤認させようとする意図はなく、ただただ素直だ。この表情を見るに、機構が下したアートの初担当はルーファスには不本意なものだったのだろう。

「承りました」

 軽く礼をして諾と言ったアートにルーファスは「すまない」と言った。

 首を傾げたアートを見てルーファスは苦笑した。

「君の意思も関係なく、親をころころ変えて。しかもあのフィーグルスだ」

「俺は貴方の息子になれてよかったと思っています。今回の措置はあの家に担当として無理なく入るためです。特に意を唱える必要を感じません」

「君はいつも満点の回答をするんだな」

 ルーファスの憂いを取り除きたくて本心を言ったのだが、彼はアートのその本心すら心を痛める対象だったらしい。自分もだいぶ成長したのに、いつまでも守ろうとしてくれる存在に少し心が温まる。

「大丈夫ですよ。ちゃんとやれます」

 機構が派遣する『Dチップ担当者』の任務は主にDチップ装着者の監視だ。Dチップ装着者の安全管理や生活管理はDチップ装着者を所持する家に委ねられている。しかしDチップ装着者が好ましくない環境に身を置いていたり、機構が危険視する団体と接触を持とうとしていると、担当者権限で直接Dチップ装着者に干渉したり、所持する家に働きかけたりすることができる。だがその多くが傍に侍り、毎日その思想や行動をチェックし報告するという、日常の延長のような生活になる。今回Dチップ装着者の家に養子に入るのも、Dチップ装着者に無理なく受け入れさせるためだろう。

 Dチップ装着者につく機構からの担当者でC-Ⅱチップ装着者が就くのは、50年ぶりである。ながらくC-Ⅱチップ適応者が不在であったためだ。Dチップ装着者は総じて所持を許された家の奥深くに守られて生活する。C-Ⅱチップは適応者が少なく存在しないものは仕方がないので、多くはCチップ装着者が担当に就くが、そもそも手厚く守られた存在だ。特に支障はないのだが、C-Ⅱチップは唯一Dチップを支配する権限を持つチップだ。存在するのなら担当に就けたいというのが実情なのだろう。まだ若く機構に入構して1年と経っていないアートが担当として駆り出されたのもそういった背景があったからだ。

 1週間の準備期間の後に荷物をまとめてトルキリンのフィーグルス本邸を訪れると、待たされることなく宗主である、サルキア・フィーグルスと引き合わされる。

サルキア・フィーグルスは勢いのある新興財閥の長というよりは、保育園の園長と言われた方がしっくりくるやわらかい微笑をたたえた壮年の男だった。アートは養子の書類を既に交わしていたので、応接室でアートの正面に鷹揚に座る男は親子ということになる。彼はお互い挨拶をしてソファに座ると、第一声に「アルフィアをよろしくお願いします」と言ってアートに頭を下げた。

彼はアートにアルフィアについて教えてくれた。それは事前に機構から与えられていた調査書と同じ内容ではあったが、概要だけが書かれている記録とは異なり、親目線の成長の記憶というのはとても微笑ましく、あえて詩的な表現をすると色のついた鮮やかなものだった。

アルフィア・フィーグルス。フィーグルス家長女にして唯一の嫡子。希少ジーンリッチ。現在17歳。16歳の時にNMOを発症し、BチップからDチップの装着者となる。同期率は10パーセント。

15歳の時からトルキリンの国立アカデミーでMOウィルスの研究に携わる。現在は発症に関わる機構の調査を受けるため休学中。

「現在の体調はいかがですか」

「Dチップを装着前は伏せることが多かったのですが、現在は体調もよく、発症前の状態に戻りつつあります。医師の見立てではあと1か月静養すれば日常生活に戻ることが可能とのことです。あとはアカデミーへの復学は貴方の判断次第といったところでしょうか」

 アートは意思の診断書と3日おきに記された患者の報告書にも軽く目を通す。確かにこの状態だと日常生活に戻ることは可能だ。機構としてもDチップ装着者はできるだけ日常生活をおくらせることを推奨している。彼女の状態次第だが、遠くない未来アカデミーに復学することになるだろう。

「アルフィア様に会わせていただいてもよろしいですか?」

「どうぞ。貴方の姉です。会ってやってください」

 柔和な表情でアートとの会談に臨んでいたフィーグルス家宗主はその表情をさらに緩めた。

 彼の執事という老年の隙のない男性に案内されてアルフィアの部屋に向かう。奇妙な期待と恐れのような初めて味わう動悸に動揺しながら、努めてそれを表情に出さないように取り繕う。アート自身も自らの未熟さに苛まれながら開かれた扉の向こうに、彼女はいた。

 アルフィアは日常生活を送る二間続きのリビング部分ではなく、奥まった扉の向こうの寝室でベッドに身を起こし本を読んでいた。ノックの音に応えて顔を上げていたその柔らかい表情が、新たな客に少し驚きに染まる。女性の寝室に入ることに気後れしながら、少々紅潮した顔を隠せず俯いたアートを平坦な声で紹介すると、老執事はさっさと退室していった。

 彼がいなくなり、アルフィアと二人きりになると、一瞬恐ろしいほどの静寂が訪れる。アートはやかましい彼の義理の姉たちを思い浮かべとにかく困惑していた。ルーファスも姉妹と一緒にいるととにかく口をつぐんでいた。アートも口を差しはさむ隙もなく、差しはさむ必要も感じず、姉たちとの会話は常に聞き役だった。だから同年代の女性と二人きりになった今、何を話したらいいのか分からなかった。

「Dチップ装着者のアルフィア・フィーグルスです。貴方が弟になった機構から来られた担当者ね」

 柔らかい声は男女の違いはあれど、親であるサルキアとどこか似ていた。安心させる静かな声音というのだろうか。アートは深呼吸すると口を開いた。

「アート・フィーグルスと申します。アルフィア様。よろしくお願い致します」

 アルフィアはアートのあいさつを聞くと、ふふっと羽を揺らすように静かに笑った。

「顔を上げて、アート。今日から貴方と私姉弟となるのよ。私きょうだいがいないから楽しみにしてたのよ。アルフィアと呼んでね」

 乞われて顔を上げて、アートは少し驚いた。こんなきれいな女性を初めて見たからだ。

 ルーファスの姉や妹も美しいかおかたちをしていた。いつも身だしなみに気を配り、化粧も彼女たちに良く似合う華やかなものだった。だからアートはなんとなく女性といったらすぐに姉たちを思い浮かべてしまう。ある意味アートも箱入りだった。

 だがアルフィアは彼女が持って生まれた、素のままの美しさがあった。恐らく化粧はなされておらず、いつもバラ色に頬が輝いていた姉たちとは違い、顔色もどこか青白く心配になるくらいだ。だが彼女は匂い立つような美しさがあった。目鼻のパーツも恐ろしく整っていて何かを足したり引いたりする必要性も感じない。特にじっと好奇心を隠しもせずアートを見つめる濡れたような大きな黒い瞳は印象的で、見つめられるとアートの心拍数を否応なく跳ね上げた。

 ろくに挨拶もできずどぎまぎとした出会いであったが、アルフィアはそんなアートに気を悪くするでもなく次の日からも気安く接してくれた。彼女の雰囲気はサルキアに似て柔らかく、警戒心を奪い去ってしまうものだった。最初はDチップ装着者とその担当者だった二人も1か月もしないうちに姉弟と同じような打ち解けた仲になった。医師の見立て通りアートの許可もありアルフィアはアカデミーに1か月後に復学したが、その際にはアートは護衛として常にアルフィアとともにあった。

 彼女とは任務を介在としたつながりだった。だがルーファスに拾われてからは機構に自分の存在意義を託し夢中になって学び自らを鍛える日々を送ってきたアートにとって、アルフィアとの関わりは穏やかで優しくぬるま湯につかっているかのような、温かいものだった。

 思春期を運命に翻弄されて過ごした二人は、新しく出会った異性に夢中になった。出会ったときは確かに姉弟だったアルフィアの瞳に熱がこもるようになったのはいつからだろう。いつも対外的には言葉を飾り流麗な言い回しで学友や教授たちをやり込めている彼女が、素の言葉でアートを求め愛を囁くようになったのはいつからだろう。アートはいつの間にか彼のひび割れた心にやわらかい液体が浸透するようにアルフィアの愛を受け入れていた。

 彼女が好きだった。美しい顔でもなく、希少ジーンリッチとしての才知でもなく、冷たい表情を甘くほどけさせる彼女の表情でもなく。彼女の中に宿る熱が、彼女が求めてくれる熱情が好きだった。

 アートは生まれてから、求められることがなかった。いつも自分を抑え求める心を押し殺してきた。

 だから「アートが好き」と涙をこぼす彼女が、その時に生まれた優しくあたたかい自分の心が、確かに誰かを愛しいと思える自分が好きだった。

 希少ジーンリッチの彼女は、機構に生活を監視されている。彼女の意思でこどもを望むことはできない。結婚すら管理される。彼女との未来は存在しない。でも今だけでいいから彼女の思いを受け入れたい。彼女の心を受け入れたい。アートは心からそう思い、アルフィアの心に応えた。



 意外なことであったが、アルフィアとアートの思いは周囲に受け入れられた。アルフィアもアートも対外的に恋人となったことを表明することはなかった。NMOを発症しているアルフィアにはもとより長い未来は約束されていない。だからだろうか。親であるサルキアは隠してもいないアルフィアとアートの関係を知ってはいただろうが咎めることはなかった。機構から担当替えがあるかと覚悟をしていたが、おそらくアートとは別に派遣されフィーグルスに紛れている監視員から報告が上がっているだろうが、機構からも特に干渉はなかった。

彼女との性的接触がなかったことも大きいのだろう。常に監視されているアルフィアだ。予定が決められた時間の合間に会話をしたり、軽く身体を接触するだけの関係だった。アルフィアを見つめ、彼女から見つめられその瞳にお互いを映すだけで満足だった。優しい言葉を並べ誰も自分たちを傷つけることがない。まるでおままごとのような微笑ましい関係だった。未来を望まない二人は、周囲にとって都合がよかったのだろう。

 穏やかな優しい時間が続くと思っていた。

 アルフィアのNMOがステージⅡまで進み、彼女の意識がなくなるまで。


□□アルフィア・フィーグルス  希少ジーンリッチ。Dチップ装着者。17歳で発症。それまではトルキリンの国立アカデミーでMOウィルスの研究に携わる。15歳の時からアートが担当につく。20歳になってすぐにNMOがステージⅡまで進み寝たきりになる。現在はサラクール財団経営のMOウィルス研究施設に収容されている。


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