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『よろしく頼むよ、アート・フィーグルス』
『承りました』
アートは先ほど会話を脳内で反芻して、まるで似合わない礼服のようだなと自らの名を自嘲した。
硝流の執務室からの帰り道。先ほど翠連と進んだ短い距離を今度は一人で戻る。翠連は『大規模演習』の根回しのため、硝流の執務室にとどまった。アートは実動部隊を指揮するため、自分の執務室に既に必要な人間を呼んである。彼らと打合せをして晶を迎えに行かなければならない。
硝流は何人もの人間を介してアートに命令を下す公式な『お願い』ではない、先ほどのような家族に関する私的な『お願い』の後は、必ず何気なくアートのフルネームを告げる。それは意図してアートに立場を分からせるためだろう。もちろん逆らう気などさらさらないアートはそのことに敵愾心を抱くことはないが、自分の名とされているものに、毎回つきまとう違和感だけはぬぐえず、何とも言えない気持ち悪さを感じることになるのだ。
アート・フィーグルス、いやアート・サテナスは本来生まれることのなかった命だ。
世界中央機構の認可で、フィーグルス家は悲願であった希少ジーンリッチの所持をかなえた。独自の医療機関を持たないフィーグルス家は、サラクール系列の医療研究機関に希少ジーンリッチの出産を依頼。待望の赤子はフィーグルス家遠縁にあたるサテナス家の長男として誕生することになった。だがフィーグルス家の政敵であるとある企業が、フィーグルスの分家の最大派閥であるバウンズ家に接近。バウンズ家はサラクール家の新興勢力と手を組み、サテナス家を冤罪で糾弾。世界中央機構に認可の取り消しと卵子の廃棄を宣言させた。
この一連の暴挙は世界中央機構の会長不在の際を狙い、まだ一枚岩でなかった世界中央機構の内部の脆弱さを露呈させた。会長が戻った際には既に希少ジーンリッチの卵子は廃棄されていたが、その過程で生み出された受精卵は保護された。
希少ジーンリッチを出産するはずだったサテナス家の未婚の娘は、希少ジーンリッチの母となるために厳格に躾けられた娘だった。希少ジーンリッチの父となる男との信頼関係もできつつあり、そのことに誇りをもっていた。だから希少ジーンリッチを産むことができないと知った彼女の絶望は深かった。心を病みつつあった彼女の胎に治療として保護された受精卵が戻された。
産みだされたアート・サテナスは孤独な少年だった。『お前は違う』とまだ自らの力で立つことができない息子をなじる心を病んだ母。そのことに心を痛め必死に妻と子に愛情を向けようと努力し、自らの限界を知り離れていった父。物心ついた時から、アートの傍に人はおらず、言葉少なく接する年かさのメイドと、家庭教師としてつけられた穏やかな父の恩師という男だけが世界のすべてであった。
幼いアートの状況を知り、養子として引き取ったのが、ルーファス・スミシュールという名の、世界中央機構の次代を担うと期待されていた会員の青年だった。未だ機構においては若年の一会員であったが、しっかりとスミシュール家嫡男としての教育も受けており、世界中央機構の会長の信頼も厚かった。後に機構の会長となるルーファスがアートを引き取り、アートの住処は母のヒステリックな声が時々届けられる静かな田舎から、世界中央機構の本拠がある賑やかしいとあるマンションの一室に移った。
歴史あるスミシュール家の嫡男であるルーファスは、何彼と世話を焼かれる実家を嫌い一人暮らしをしていた。といってもまだ世界中央機構では年が若い彼は帰る暇がないほどに雑務ん追われ、ほとんどを機構の本拠ビルで過ごしており、彼の家とされているマンションに帰ってくることも少なかった。
そんな場所でアートは、ほぼ毎日交代でやってくるメイドやルーファスのやかましい姉妹に世話を焼かれて過ごし、最終的には養父の実家に拉致されるように連れ去られた。
連れ去る際に幼子を1人放り出して世話もしない甲斐性なしと途切れることのない罵声をまだ若い養父に浴びせたのは、ルーファスの妹である。養父の母は兄妹の喧嘩を穏やかに見守り、困惑するアートにも一緒にジュースを出して、ゆっくりと事の成り行きを見守っていた。最終的に気が済んだ彼の妹によって、アートは実家で育てます宣言を受け、ルーファスは何とも言えない表情で苦笑し、「すまなかった」と言ってアートに頭を下げた。
アートは不思議だった。養父はなにも悪くない。だって彼はアートとは血縁関係はないのだ。なんの義務もない。アートを養子にしたのも、世界中央機構の会長の命令だろう。幼いアートは口さがない大人から浴びせられる言葉や、外から入ってくる情報で大体の状況を理解していた。だから彼が頭を下げる理由が分からなかった。分からない世界に生きていたから。
不思議そうに首を傾げるアートを見て、ルーファスは悲しそうに表情を歪めた。彼の母は穏やかな顔で養父の頭をこぶしで殴り、「これが貴方の罪です」といった。そしてアートに微笑み、「あの不肖の男は今から貴方の兄です。そこのわたくしの娘は貴方の姉です。わたくしがあなたの母です」そう言った彼女の言葉が聞いたことがないくらいにあたたかくて、言葉にも温度があるんだとびっくりしたのを覚えている。
アートは養父の実家に生活の拠点を移した。そこでたくさんのことを教わった。そのなかには、生きていくために必要な勉学だけでなく、多分家族のあたたかさもあったと思う。アートという人間を構成するものは、あの日ルーファスの母がアートをあたたかな場所へと連れ去ってくれなければ、もっと別の醜悪なもので満たされていただろう。
一人前となるために教育を受け、独り立ちする頃には、アートは類稀なC―Ⅱチップ適応者として機構へと迎えられた。厄介者から、Dチップ装着者をコントロールできる世界の貴種として掌を返したようにかしずかれた時には、苦笑するしかなかった。
再会した時養父は機構の副会長となっており、彼はアートに初めての任務とともに、フィーグルスの養子という最高級の『礼服』をも準備していた。アート・フィーグルスという名も、その時に養父から与えられたのだ。
□□ルーファス・スミシュール スミシュール家第三子。兄弟構成は姉姉本人妹。唯一の男児にして嫡男として厳しい教育を受ける。家族の仲は歴史ある名家としては良好で温かく、ルーファスは二人の姉と妹にかわいがられて?(姉証言。ルーファス発言権なし)過ごす。母はサラクール分家の出身。本来母と父は対等な関係の政略結婚だったはずだが、ルーファスの父が母に逆らうことはない。女性が少々苦手で弟が欲しいと切望していた。17歳で一般会員として世界中央機構に入構。幹部会員として籍を持つシュミシュール家代表である叔父の補佐につく。学生時代から世界中央機構の会長の評価が高く、幹部候補として、そして将来の機構の三役としての道筋が入構時から決められていた。