94:スモークホール-1
「地面の感じが変わってきたわね」
『湿ってきたでチュ』
東に移動していると、徐々に周囲が荒地の乾いた地面やコンクリートから湿り気のある地面や丈の短い草地に変わっていく。
建物の高さも再び下がっていくが、今度は建物自体の高さが下がるだけでなく、地面に沈み込む事でも高さが下がっていっているようだった。
「お、水場が出てきたわね」
『茶色でチュけどね』
「そこは沼地だから仕方が無いわ」
さらに進むと、地面は泥で覆われ、茶色の水が溜まって出来た沼が出現し始める。
ただ、どれもが泥水の溜まった沼ではなく、そこが透き通って見える泉のような場所もあれば、見るからに落ちたら不味そうな虹色の油が浮いている沼もあるし、毒がありそうな深緑色の泡立った沼もある。
勿論、これらが入り混じって、何故か混ざり切っていない沼もあれば、サクリベスの方から流れてきている川もあるようだ。
「さて、此処からは少し気を付ける必要があるわね」
『でチュねぇ』
建物についてはビルのようなものは殆どなく、大半は工場だ。
ただ、工場と言っても、トタン屋根から石油コンビナートを思わせるような建物もあるし、何かの大規模な施設のような建物だってある。
工業施設なら何でもありと言う感じだ。
そして、これらの建物はだいたいが沼地に半分以上沈んでいたり、大きく傾いていたりするが、中にはダンジョン化している物もあるようだった。
『ダンジョンはどうするでチュ?』
「んー、時間によっては入って、入口近辺にセーフティーエリアがあれば、利用させてもらうのは手かも」
私は空中に『鑑定のルーペ』を向けて、鑑定を行う。
△△△△△
E1 沼に沈んだ工場
かつての文明の繁栄具合を窺わせる無数の生産設備。
しかし、今となってはひたすらに呪いを生み出して排出する忌々しいプラントでしかない。
呪詛濃度:5
▽▽▽▽▽
≪E1 沼に沈んだ工場を認識しました≫
「まずは……この前の交流イベントの成果の確認ね」
エリアがきちんと変わったことを確認した私は、コンクリート製の建物が傾いて半分以上沈んでいる、綺麗な水の溜まった泉に近づく。
泉の中に敵影は無く、何処かからか水が流れ込む事もない水面は綺麗に凪いでいる。
「よっと」
私はその泉に向かってゆっくり飛び降りる。
重力に引かれて体が落ちていき、水面に体が近づいていく。
「よし」
『成功でチュね』
しかし、水面に私の足が触れることは無く、地面の上と同じように私の体は浮き上がっている。
「これは探索がだいぶ楽になりそうね」
『良いことでチュ』
これは空中浮遊の呪いの仕様の一つで、水面も地面と同じように浮遊の対象になるのである。
で、これだけで終わるならば空中浮遊の呪いは沼地探索に欠かせない、優秀だが扱いの難しい呪いと言う素晴らしい評価を受けれたのだろうが……そうは問屋が卸さないのが空中浮遊である。
「念のためにっと」
私は膝を少しだけ折り曲げた後に、勢いよく伸ばす。
すると地面の上に居る時と同じように、空中浮遊の呪いが効力を強めるまでの間に足が伸びて、足の裏が水面に触れる。
その瞬間だった。
「ぬごっ!?」
『チュア!?』
一気に空中浮遊の呪いの効力が失われて、私の体が泉に引き摺り込まれそうになる。
私は全力で羽ばたくことによって少しだけだが体を浮かせ、一瞬ではあるものの全身を水の中から出すことに成功。
空中浮遊の呪いは効果を再び発揮し始め、私の体は水面で浮き続けるようになる。
「はぁはぁ。そ、想像以上にキツイわね」
『分かってはいてもビックリするでチュ』
そう、空中浮遊の水面に対する仕様は、水面に触れない限りは地面と同じだが、触れると同時にその効力が失われると言う物。
つまり、私のように地面に触れずに推進力を得られるのなら別だが、そうでなければ水面を移動している間に空気抵抗によって速度を失ってしまえば、水の中に落ちるしかないのである。
「ちょっと休憩ね」
『チュ』
で、質の悪いことに、どういう理由であっても水面に触れた時点で効力が失われるのが空中浮遊の仕様であるため、例えば強風などによって水面が波立っていたり、大きく上下動をしていたりすると……その波で空中浮遊が切れる事もあるらしい。
うん、水中の探索を出来るようにするためなのだろうけど、安定の不便さである。
「じゃ、向かいましょうか」
『分かったでチュ』
そんな訳で、水辺の探索の専門は水中適応関係の異形持ちで落ち着いたのが現状である。
ちょっと悲しいが……まあ、もしかしたら水以外の液体に対しても使えるかもしれない性質なので、頭の片隅に留めておくとしよう。
「んー?」
『どうしたでチュ?』
さて、沼地のセーフティーエリアもビル街のセーフティーエリアと同じように周囲に白い円柱が立っていて、サクリベスからの距離もだいたい同じとのこと。
また、私は始点の都合で利用できないし、利用するつもりもないが、サクリベスとセーフティーエリアの間にある道はある程度整備されているらしい。
なので、だいたいの場所は分かる。
だから私は沼地の上を直進して進んでいたわけだが……。
「ダンジョンがあるわね」
『行くでチュか?』
「進路上だし、入口を覗くぐらいはありかもしれないわね」
私の進路上にダンジョンがある。
茶色く濁った沼に、大きな煙突を持った工場が半分くらい沈んでいて、2階に付いている非常用換気ドアとでも呼べばいいのだろうか、大きな金属製の扉から中に入れるようだ。
いい感じに沈んでいて、地面からの足場も繋がっているので、普通に歩いて侵入も出来そうだ。
で、ダンジョンの範囲としては、工場の内部だけがダンジョンになっているらしい。
「微妙に暑い?」
『少し臭いでチュ』
ただ、ダンジョンの影響は外部にも出ているのだろう。
ダンジョンに近づくにつれて、沼が少しだが熱気を帯び、それに伴って独特の臭気を放つようになっている。
私の邪眼の毒ほどではないが、口にしたら酷いことになるだろう。
「お邪魔しまーすっと」
私はダンジョンの中に入って、とりあえず鑑定をした。
△△△△△
藁と豆が燻ぶる穴
呪いによって火が焚かれ、藁と豆が燻ぶり続ける工場型のダンジョン。
切っ掛けさえあれば、燻ぶった火は一気に燃え上がる事だろう。
呪詛濃度:9
▽▽▽▽▽
≪ダンジョン『藁と豆が燻ぶる穴』を認識しました≫
「『藁と豆が燻ぶる穴』……ねぇ」
『納豆臭いでチュ?』
「否定しきれないのがツラいところね」
ダンジョンの名前は『藁と豆が燻ぶる穴』。
そして私の前に広がったのは、呪詛の霧ではない黒煙が薄く立ち込め、僅かに焦げ臭く、微妙に納豆臭くもある空間だった。