28.目を覚まして
ゆっくりと意識が覚醒へと向かっていく。
水の中を揺蕩っていたような体が戻ってくる不思議な感覚。
まだ重たい瞼を押し上げると、わたしの目に一番最初に飛び込んできたのは──ディエ様のお顔だった。
「……ディエ様?」
どうしてここに、とか。
どうしてわたしの手を握っているのか、とか。
聞きたい事は沢山あるはずなのに、口から出た言葉はただそれだけ。
ディエ様はどこかほっとしたように表情を和らげると、繋いでいるのとは逆の手でわたしの髪をそっと撫でた。それがあまりにも優しいものだから、胸の奥がぎゅっと切なくなってしまう。
「起きたか」
「……あれ、わたしの部屋? わたし、レース編みを……あー、寝ちゃったんですね。ご迷惑をおかけしました……」
中庭でレース編みをしていたら眠ってしまったのだろう。
そういえばわたしを起こそうとしていたディエ様の声が聞こえた気がする。それも無視してすっかりと寝入ってしまったらしい。
「それより、悪い夢は見なかったか?」
悪い夢。
それはきっと子爵家の夢のことだろう。
「夢は見ていないと思います。覚えていないというより夢自体を見ていないといいますか……どれだけ深く眠ってしまっていたのか」
苦笑いを漏らしながら起き上がるけれど、ディエ様はまだ手を離してくれない。恥ずかしい気持ちも強いけれど、ディエ様がわたしに触れて下さることが嬉しいから、気付いていない振りをする事にした。
「悪い夢を見た時、いつもディエ様が助けて下さっていたんですよね。ありがとうございます」
夢について触れられて、お礼を言わないなんて出来なかった。
そう口にするとディエ様は小さく頷くばかりだった。
夢の中のわたしは蔑まれて甚振られて、とても惨めな姿をしていただろう。それをディエ様に見られていたと思うと羞恥でどうにかなってしまいそうだけど。
「あんな姿を見られてしまって恥ずかしいんですが」
「恥ずかしい?」
「恥ずかしいですよ。だって……わたしは虐げられるくらいに価値のない存在だって事ですもの。それを……ディエ様に見られるのは恥ずかしいです」
「何言ってんだ、お前は」
呆れたような声にディエ様へと顔を向ける。苦々しい顔をしたディエ様が繋ぐ手にぎゅっと力を込めた。その温もりが指先から染みわたってくるようで、ぽかぽかと体が熱くなってくる。
「恥ずべき振る舞いをしてんのは、お前を虐げてきた奴らだ。お前は堂々としていたらいい。お前は虐げられるべき存在でも、蔑まれていい存在でもない」
「……ありがとうございます」
ディエ様はきっと心からそう言ってくれている。
言葉に慰めの色なんてない。わたしを見つめる赤と黄の瞳は、どこまでも真摯にわたしの事を見つめてくれている。
胸の奥で固まっていた何かがほろほろと崩れていくのを感じた。目の奥が熱くなって泣きたくなるのを堪えようと瞬きをするけれど、目尻が滲むのは止められなかった。
「異母姉に会ってしまってから悪夢を見る事が増えたんですが、それはやっぱり会った事が原因なんでしょうか」
「ああ。お前がここに身を投じた事であの女は、お前が死んだと思っていたんだろう。それで薄れていた縁が、再会した事でまた深く繋がったんだろうな」
「うう……振り向くなとディエ様が言っていたのに、自分の迂闊さが嫌になります」
「最初に言っておかなかった俺が悪い」
「……何だか今日のディエ様は優しいですね?」
思ったままについ言葉を漏らしてしまうと、眉間に皺を寄せたディエ様がぐいっと繋ぐ手を引っ張った。引かれるままに体を寄せたわたしに、ディエ様は──思い切り額を指で弾いた。
「痛い!」
「俺はいつも優しい」
「優しいですけど、今日は何だか特別優しい……」
そこまで言葉を紡いだところで、またディエ様が額に指を近づけるものだから、それ以上口にする事は出来なかった。
「そ、そんな事より……あの時、異母姉はわたしの事を確かめるように名前を呼びました。もしかして、わたしの姿は曖昧になっていたりしました?」
気になってはいたのだ。
街を歩いていても誰もわたし達に気を留めない。星祭りで知り合いにすれ違っても気付かれないし、フローラだってわたしが振り向かなかったらそのまま立ち去っていただろう。
「人の記憶に残りにくいという意味では曖昧だな。俺にもお前にも、そういう術を掛けてあった。あの女がそれでもお前を認識したのは、それだけ元の縁が深かった……そんな嫌な顔をすんな」
「すみません、つい」
縁が深かったなんて言われて、うんざりしてしまったのだけど。
ディエ様が笑うくらいに、酷い顔をしてしまっていたみたいだ。嫌だけどさすがは血縁者という事なのかもしれない。
わたしの気持ちを読み取ったように、ディエ様がわたしの頭をぽんと優しく撫でてくれる。その手は額に落ちて、先程弾いたばかりのところも労わるように触れてくれた。
「まぁそれはいい。次に街へ降りる時はもう少し強い術にしよう」
「……また連れて行って下さるんですか?」
「行きたいだろ?」
「それはもちろん!」
前回は異母姉に反応してしまって、ディエ様に迷惑を掛けてしまった。あんな失態を見せた後だから、もうお留守番になってしまうかと思っていたのだ。
だからまだ次があるという事が純粋に嬉しくて、繋いでいた手を逆手で包み、ぶんぶんと大きく振ってしまった。
ディエ様は低く笑うばかりで、わたしのしたいようにさせてくれている。それも嬉しかった。
「そんな事より……お前に話しておかなきゃならねぇ事がある」
椅子から腰を浮かせたディエ様が、寝台の端へと腰を下ろす。重みが増えた事で響く軋んだ音に鼓動が跳ねた。
足を床に投げ出して、腰を捻るようにして上体をこちらへ向けているディエ様は、指を絡めるように手を繋ぎ直してからわたしの事を真っ直ぐに見つめた。
「……このまま神域に居れば、お前は死んでしまう」
「……え?」
背中がぞわぞわする感覚が気持ち悪い。
唇が渇く。体が冷えていくのが怖ろしくて、繋いだ指先に力を込めた。
「そ、れは……わたしは人、ですし。いつかは死ぬと分かって……」
「お前に残された時間は多くない。人の世に戻ればそんな心配もなくなるが。神域はお前の命を削っていく」
だからディエ様は、わたしを人の世に戻そうとしていたのか。
わたしが死んでしまうと、知っていたから。
「お前がここに居たいというのは知っている。双子も……俺も、お前がここに居てくれるならとは思うが、命には代えられねぇ」
「えっ、ディエ様? いま……わたしに居て欲しいって言いました?」
「そこまでははっきり言ってねぇ」
「わたし居ます! ここに居ます!」
「お前、俺の話を聞いていたか?」
「わたしに居て欲しいって事はしっかりと!」
リオとルカがわたしを好いてくれているのは伝わっていた。わたしももちろん大好きだ。
二人はわたしがここにお世話になる事を後押ししてくれたのだし、これからもここで過ごす事に賛成してくれると思っていた。
でもディエ様もそう思ってくれていたなんて!
先程までの怖ろしさなんてどこかに吹き飛んでしまったようだ。だって、ディエ様もわたしと一緒に過ごしたいと思って……それは言い過ぎだろうか。でもまぁいいだろう、大体はそういう事だ。
浮かれる気持ちを抑えられず、わたしはにこにこと笑顔を浮かべていた。
ディエ様は呆れたような視線を向けてくるけれど、今のわたしには何も気にならない。
「このまま神域で過ごせば死ぬんだぞ?」
「人の世に戻ったっていつかは死にますし」
「バカかお前は。人の世なら年を重ねてから死ねるだろう。ここに居たら何も出来ねぇままで死ぬって分かってんのか」
「でもディエ様のお傍に居られます」
はっきりと言葉を口にすると、今まで聞いた事がないほどに深くて大きな溜息をつかれてしまった。
「聡いと思っていたが、やっぱりバカだった」
悪態だって気にならない。
だってディエ様が、とても優しい眼差しでわたしの事を見つめているから。
だから何も怖くなかった。