27.優しい毒にも似ていて(ディエ)
目の前で横たわるクラリスは、ただ眠っているだけのように見える。
それがそうでない事は、俺が一番良く分かっているのに。
「
「主様主様、クラリスを起こしてほしい」
俺に仕える双子の
この二人はクラリスの事を大事に思っていた。
人の子が物珍しかったわけではない。自分達よりも弱い存在を慈しんでいるわけでもない。二人はただ純粋に、クラリスの事を可愛がっていた。
二人の横に立ったままクラリスへと目を向ける。
朗らかな微笑みも今はない。それが無性に心をかき乱した。
「……人の世に戻した方が、こいつの為かもしれん」
「でもクラリスはここに居たいと願っている」
「クラリスは主様のお傍に居たいと思っている」
そんなの……言われなくても伝わっている。
元々俺への好意を持っていたこいつの心が、ある日を境に一層騒がしくなった。
心を読もうとしなくても、その瞳が、その微笑みが、その声が──俺を好きだと歌っているようだった。
その気持ちを否定する事などできない。気持ちは彼女自身のものだから。
そんな綺麗事を口にしつつ、実は……ただ、彼女の好意に溺れていたかっただけなのかもしれない。
だが、それはクラリスの為にはならないものだった。
「人の世に戻ればそんな気持ちも薄れるさ。人の子が
俺の言葉に二人は俯くばかりだ。
小さな体全体から、悲しいという感情が伝わってくる。刺さるようなその心の声が、俺の胸を軋ませる。そんな感傷、俺には必要なかったはずなのに。
「主様主様、クラリスに神力を与えるのは……」
リオが青い瞳から涙をぽろぽろと零している。いつも冷静なリオがここまで心を動かすのかと思うと、その隣ではルカが緑の瞳いっぱいに涙を湛えている。
「……神使にするということか。それは……出来ない。人の子に俺の力は強すぎる。多少を与えてこの症状を誤魔化す事が出来たとしても長くはもたねぇ。繰り返せばいつか器の方が壊れるだろう」
言いながら、自分でも心がおかしくなりそうだった。
クラリスが死んでしまうことなど、俺は望んでいなかった。
クラリスがいま昏睡状態に陥っているのは、神域に満ちる
清浄すぎる神気は、人の世に過ごしていたクラリスには優しい毒にも近かった。その身を蝕んでいる事を、当人には気付かせない程に緩やかな毒。
神気に蝕まれ続けたその心は、永久の眠りについてしまう。心が眠ってしまったら、体は朽ちていくしかない。
俺は──それを知っていながら、クラリスを神域に置き続けた。
双子にはずっと言われていた。
クラリスを神域に留めるために、神使にするべきだと。
精霊にも指摘されていた。
クラリスの体が蝕まれ続けている事を精霊達は分かっていた。
それでも、クラリスが壊れてしまう事を分かっていて神力を注ぐことが出来なかった。
彼女が嫌だと言っても、有無を言わず人の世に戻せば良かったのだ。症状が出るまであと少しだけと先延ばした結果がこれだ。
もうとっくに症状なんて出ていて、クラリスは蝕まれ続けていたというのに。
「クラリスはもうここには居られない?」
「それはいやだ。寂しいのはいやだ」
子どものように駄々をこねる双子の頭に手を載せる。撫でた金の髪には薄ピンクのリボンが結ばれていて、それは星祭りの時のクラリスを簡単に思い出させるものだった。
『ディエ様』
クラリスの明るい声が耳に残っている。
俺を見つめる瞳に宿る熱も分かっている。
それに応える事もなく、突き放す事もしなかった自分の狡さがこんな事態を招いたのだ。
覚悟を決める時なのかもしれない。
「……とりあえず、今回ばかりは少しだけ神力を与える。それで目が覚めるだろう。今後の事は……こいつにも聞かなきゃ決められねぇ」
「先延ばしは良くない」
「逃げるのは良くない」
双子の辛辣さに苦笑いが漏れる。
長い付き合いだというのもあって、この二人は簡単に苦言を呈してくる。それはいつだって俺の心を抉るように真っ直ぐで、正当なものだった。
「……こいつを神域に置いておく方法がないわけじゃない。だがそれはこいつにとって苦難の道になるかもしれん。当人を差し置いて勝手に決める事もできねぇだろ」
「ちゃんと説明する?」
「ちゃんとクラリスに向き合う?」
鋭さに眩暈がしそうだ。
だが事実だから否定も出来ない。
俺は眠るクラリスの額に手を当てると、本当に気持ちばかりの力を注ぐ。一瞬だけ放たれた光はすぐに彼女を包み込むように広がって、吸い込まれるように消えていった。
「主様主様、勝手に決める事が出来ないというのは分かった」
「いまこの処置が、ただの先延ばしだという事は置いておいて」
「でも主様は、クラリスが是と言えばその先を選べるの?」
「のらりくらりと躱してしまうのではないの?」
「あー……」
本当に痛い所をついてくる。
まだ迷っている俺を見透かすように、二人が俺を見つめていた。あまりにもその真っ直ぐな視線に、首を横に振る以外に出来なかった。
「……こいつを死なせたいわけじゃない。だからといってただ人の世に戻したいと思っているわけでもない。俺だってまだ、分かんねぇんだ」
本音を吐露すると、二人は盛大な溜息をついて肩を竦めて見せた。
これでも俺は神なんだが、双子は本当に遠慮がない。
「主様主様、決めるところは決めないと愛想をつかされる」
「いつまでも想ってもらえるわけじゃない」
「私達は夕食の準備をしてくる」
「クラリスが目を覚ましたら、沢山食べて貰えるように」
「おい、こいつはどうすんだ」
立ち上がってまだ涙の残っていた目元を拭った二人は、揃った足並みで扉へと向かおうとする。
今のところは心配がいらないとはいえ、クラリスを部屋に一人残すのか。そんな思いで声を掛けると、何を言っているとばかりに怪訝な目を向けられた。
「主様が見ていてほしい」
「起きたら教えてほしい」
「おい」
「クラリスは食べる事が好きだから、食事を抜くわけにはいかない」
「倒れたことを気にしてしまうだろうから、ご馳走を作らないと」
そう言われて否と言えないのを、この二人は分かっている。
俺の返事を待たずしてあっさりと二人は部屋を出て行って、静かに閉まった扉の向こうで気配はここから離れていく。
深く吐いた息は溜息にも似ていた。
しかし自分が原因でクラリスが倒れたと言えなくもない。それならば目を覚ますまで側に居るのも、必要なことなのかもしれない。
言い訳めいた考えに自嘲しながら、一人掛けの椅子を寝台横へと引き寄せて腰を下ろした。
眠るクラリスを見て、悪夢を見ていないかと不安になる。
あの異母姉と会ってしまってからというもの、クラリスの夢見は非常に悪い。再会してしまった事で、クラリスと異母姉の縁がまた繋がってしまったのだろう。
悪夢が始まっても、俺に出来る事と言えば壁を作って距離を取ってやるだけだ。
抜けているように見えて聡いクラリスは、それが俺の仕業だと気付いている。
だからクラリスはきっと……俺が隠し事をしているのも気付いているのだろう。隠している事そのもの自体は分からなくても、俺が……正直ではないとは知っているのかもしれない。
「……お前はいつだって真っ直ぐなのにな」
漏れた声は、自分でも驚くほどに柔らかい。
この部屋には俺と、眠るクラリスしかいないのに、誤魔化すように空咳を繰り返した。それほどに自分らしくない声だった。
そっと手を伸ばし流れる銀髪に触れてみる。癖のない髪はさらさらと指から流れていった。
真っ直ぐな祈りが心地よかった。
何に対してもひたむきに向かうその姿勢が微笑ましかった。
諦めているわけでもなく、ただ受け入れる。辛い境遇に身を置いていたにも関わらず、彼女の心は歪んでいなかった。
柔らかな笑顔が可愛らしいと思った。
理由なんて幾らでも思いつく。でもそれをどれだけ重ねるよりも……ただ、傍に居て欲しいと思う気持ちが強かった。
「なぁ……俺の嫁になるか」
聞こえていないと知っていて呟く俺は臆病だ。
髪に触れていた手は、クラリスの手を取って指を絡める。
温かな指先が、生きていると伝えてくる。それにほっとしながら、繋ぐ手に力を込めた。
またいつものように、明るく……騒がしい程に俺の名前を呼んで欲しいと願いながら。