25.夜のお散歩
夢だと分かっている。
わたしはもう、子爵家にはいないのだから。
* * *
両手を床につき、額も床に押し当てながらわたしは
叱られるようなことはしていない。ただ異母姉はその時の気分で思う事が変わるのだ。
今日は紅茶が飲みたいと言うから、お茶を淹れる事を担当しているメイドにお願いをした。それをお部屋に持っていくと、紅茶の気分じゃなかったとカップを床に落とされてしまった。
気分によって変わるのはいつもの事。カップを落として部屋が汚れたと叱られるのもいつもの事。理不尽ではあるけれど、それに抗う術もない。ただこの嵐のような言葉が過ぎ去っていくのを待つしかない。
目の前にある床の模様を眺めながら、わたしはただじっと耐えていた。
不意に、光が溢れた。
顔を上げると虹色の光が壁となって、わたしと異母姉の間を阻んでいくのが見える。まだ何か言っているフローラの声は、わたしには届かない。
光はわたしを包みこみ、その温もりに促されるよう意識がゆっくりと遠退いていく。夢の終わりを予感して、わたしはほっと息をついた。
* * *
目が覚めた。
最近悪夢を見る事が多いのは、先日、街でフローラに会ってしまったかもしれない。異母姉はわたしを憎んでいるし、疎んでいる。わたしをお金に変えるのは、慰謝料として当然だと言って憚らない。
わたしもあの人……
起き上がったわたしは膝を抱えた。枕元の時計を見て、信じられなくて二回も確認してしまった。だってまだ眠ってから一時間も経っていなかったんだもの。
一時間であんなにも濃い夢を見てしまったのか。なんだか体が重く疲れているのは夢のせいだろう。
どうにも目が冴えてしまった。眠れる気がしなくて寝台を下りる。
本を読む? レースを編む?
そのどれもちょっと違う気がして、わたしは寝着の上にガウンを羽織った。前をしっかり結べば部屋の外に出ても大丈夫だろう。
誰にも会わないだろうけど、と内心で思いながらわたしはそっと部屋を出た。
静かな廊下にわたしの足音だけが響く。
明かりは絞られているけれど、不安を煽るものではない。
厨房に行ってお茶でも飲もうと思ったのだけど、回廊を歩む間に気が変わった。夜風を浴びて揺れている花達に誘われるかのように、私は中庭へと足を向けた。
春の香りが満ちる中庭を清々しい風が優しく通り抜けていく。
見上げた空にはもうすぐ満ちる月が浮かんでいる。その月があまりにも眩いものだから、星は姿を潜めているようだ。あの星の川を見たのはつい先日のことなのに、なんだか随分と時間が経ったような気もしている。
「娘、何してんだ」
「ひ、っ……!」
不意に掛けられた声に飛びあがる。身を縮めたわたしが振り返ると豹の姿のディエ様が歩み寄ってくるところだった。
「ディエ様……びっくりしました」
「お前の悲鳴はもう少し何とかならんのか」
「驚かせると先に予告して下さるなら、可愛い悲鳴も用意しますが」
「言っておくが俺は別に驚かせているわけじゃない」
低く笑ったディエ様の姿が光に包まれる。あっという間に人の姿を取ったディエ様はわたしの事を見下ろしながら首を傾げている。
「で、お前は何だってこんな時間に外に居るんだ?」
「ちょっと目が冴えてしまって。少し外の空気を吸ったら眠れるかと思いまして」
「ああ、なるほどな」
夢見が悪かった事は言わなかった。
きっとディエ様は気付いているから。夢で守って下さって有難いのと同じくらい、あんな姿を見られるのが少し辛い。惨めなわたしを見られたくない。
でも守って下さらなかったら、わたしはもっと夢に囚われてしまっているだろう。
狡いと分かっているけれど、夢の事はディエ様には話せていなかった。
直接的なお礼も伝えられていない。でも……もう少しだけ時間が欲しい。
「散歩でも行くか」
「お散歩ですか?」
「ああ。ルカとリオには言うなよ」
そう言って悪戯に笑ったディエ様が見惚れてしまうくらいに素敵で、わたしは頷く以外に出来なかった。
眠れないわたしに寄り添ってくれる、その気持ちが嬉しかった。
わたしとディエ様が光に包まれて──慣れた浮遊感の向こうから聞こえてきたのは聞いた事がない、でも優しくて穏やかな水の音だった。
あの水音は、波の音だったのか。
光が弾けた先、わたし達は砂浜へと場所を移していた。
眩い月明かりが白い砂浜を照らして、砂粒がきらきらと輝いている。鼻を擽る潮の香りにわたしの心は浮き立っていた。
「海! わたし初めてです!」
引いては寄せる波が白い。
絵本で見たような光景に、先程までの鬱々とした気持ちはどこかに吹き飛んでしまったようだ。
「そりゃよかった」
低く笑ったディエ様が歩き始める。
わたしも慌てて追いかけて、隣に並んだ。砂浜を歩くのは初めてだけど、こんなにも足を取られるものだなんて知らなかった。靴に砂が入ってきているのか、じゃりじゃりとちょっと不思議な感じがする。
思い切って靴を脱いだわたしは、両手にそれぞれ靴を持って裸足で歩く事にした。うん、こっちの方が歩きやすい。
「ねぇディエ様……わたし、ずっと気になっていた事があったんですけど」
「……おう」
この砂浜はどこまで続いているのだろう。
人の世なのか、それとも神域のどこかなのか、それも曖昧なくらいに綺麗な場所。
ゆっくりと話し始めたわたしに、ディエ様はちらりと視線を向けた。先を促すような声はひどく優しい響きをしている。
「初めてディエ様にお目にかかった時、わたしが生贄として身を投じた時の事なんですが……」
「お?」
怪訝そうに眉を寄せる様子に、ディエ様は覚えていないのかとちょっと悲しくなってしまう。口が尖るのを自覚しながらふぅと大きな溜息をついた。
「ひどい。ディエ様、覚えていないんですか?」
「いや、気になる事なんて他にもいっぱいあるだろうに。何でまたその時の事なのかと思っただけだ」
確かにディエ様の言う通り、気になる事、聞きたい事は沢山ある。でもそれを聞いたら……変わってしまう事が怖い。
だからそれには触れないで、もっと明るい話になるように。
「ありますけど、でも今はこっちです。わたしが泣いてしまった時、豹のお姿だったディエ様が……わたしのほっぺたを舐めましたよね?」
「……覚えてねぇ」
「いや、今の間って絶対覚えていますよね! 忘れたふりするなんてひどいです!」
「あーうるせぇ」
肩を竦めて盛大な溜息をつくディエ様だけど、その声に棘はない。
だからわたしも調子に乗って、持っていた靴を振り回しながら言葉を紡いだ。
「あれってもうキスですよね? お嫁に貰ってくれるっていう事でいいですよね?」
「お前は何を言ってんだ」
「だってあんな破廉恥な事されて、よそにお嫁に行けないですよ」
「変な言い方すんな、バカ」
頭を小突かれ、痛いですと文句を言ってもそれがちゃんと伝わっているかは怪しいところ。なんだか楽しくなってしまってくすくすと笑みを漏らすと、呆れたような溜息が降ってきた。
「まぁわたしはディエ様のお傍から離れるつもりはないので、よそにお嫁に行く心配なんてしなくてもいいんですけれど」
「はいはい」
流されてしまった。
でも……これで少しは伝わったらいいなと思う。
わたしは、わたしの知らない事があったとしても。わたしの身に何が起こるとしても。
ディエ様のお傍に居たい。変わるのが怖いのは、ディエ様のお傍に居られなくなってしまうかもしれないから。
わたしが望むのはディエ様のお傍に在る事だと、そう伝わったらいい。
だからいつか、わたしが
「そろそろ帰るか。双子にバレてそうで怖ぇ」
「ふふ、こっそり帰りましょう」
見下ろしたわたしの足はすっかりと砂まみれだ。外で洗わないとお部屋に帰る事は出来ないだろうな。
戻ってからの事を頭の中で組み立てて、ディエ様の光に包まれてわたし達は神殿へと戻っていく。耳に残る潮騒が優しくて、きっと今夜は気持ちよく眠れそうだと思いながら。
「どこに行っていた?」
「逢引き?」
転移した先、中庭でわたし達を待っていたのはお仕着せ姿の双子だった。
もう夜も更けているのに二人の姿はちっとも乱れていない。それを不思議に思うよりも先に、わたしとディエ様は並んでお説教を受ける羽目になってしまった。
でもそれさえも、何だか嬉しい時間だった。
波の音がわたしの胸に残っている。優しい夜をきっとわたしは忘れないだろう。