17.想いはわたしの胸に
いくら見上げたって、青星は見えない。
あれは
就寝前のお祈りを済ませ、夜空を見上げていたわたしは、何度目になるかも分からない溜息をついた。
昼からずっとこの調子で、自分に苦笑してしまうくらい。
昼食もおやつも夕食も、いつも通りにしっかり食べた。
ルカとリオとお喋りもした。ディエ様の事もちゃんと見られるようになった。目元をしっかり冷やしたから、泣いてしまった事を皆に知られたりもしていないはず。
鏡の中の自分は、いつもと変わりなかったもの。
『俺はやめとけ』
ディエ様の声が頭の中をぐるぐると回っている。
わたしの好きな低い声は、少し困ったような響きを宿していた。
「……困らせちゃったなぁ」
困らせたかったわけじゃない。
ディエ様にわたしを好いて欲しかったわけでもない。わたしは人で、ディエ様は神様だもの。身分違い以前の問題というか……畏れ多い。
やめとけ。
わたしがディエ様を想うことをやめたほうがいい。そう言っているのは分かる。でも……。
「そんな簡単に切り替えたり、出来ないものよねぇ」
小さな呟きは夜の風に溶けて消えた。
わたしの部屋は二階にあって、中庭に面している。回廊の灯火がお庭まで届いているから、風に揺れる花の影も、同じようにゆらゆらと伸びているのが見えた。
穏やかで、静かな夜。草花が揺れる音が響くだけの──いつもと変わらない夜。
そう。
わたしが失恋したからって、何も変わらない。
ディエ様はきっと……たぶん、わたしをここから追い出したりはしないだろうし、双子達とも仲良くしていけるはず。
何も変わらない。
わたしがこの後、ディエ様のお言葉を無視してぐいぐいと気持ちを押し付けたりしたら、そうはならないかもしれないけれど。
大丈夫、なかった事に出来る。
これ以上好きにならなければいい。気持ちを自分で制御して、昨日今日みたいな失態を犯さないように気をつけよう。
夕食の時は出来ていたもの。ディエ様のお顔を見ても顔は赤くならなかったはずだし、声だっていつも通りだったと思う。
……本当はディエ様のお顔じゃなくてその向こうの壁だったり、喉辺りを見ていたからなんだけど。
話しかけられてもすぐに応えなくていいように、口に食事を詰め込んで、時間を貰ってから口を開いただけ。
心臓は相変わらず騒がしいし、目の奥だってずっと熱かった。
だけど
瞬きをすると涙が零れた。
自室で泣くくらいはいいだろう。ちゃんと冷やしてから眠れば明日に響くことはない。なんたってわたしも魔法使いの端くれですし、水瓶まで行かなくたってハンカチを濡らしたり出来るのだから。
鼻を啜ったわたしは窓を閉めて、それからきっちりとカーテンを閉めた。
部屋の中は寝台横の小さな明かりしか灯していないから薄暗い。少し冷えた腕を手で摩りながら寝台へと向かった。
お行儀が良くないけれど勢いよく寝台へと飛び込んでみた。
適度な固さのマットレスはわたしの事を受け止めてくれる。枕をぎゅっと抱き締めながら、うつぶせのまま──わたしは泣いた。
嗚咽が漏れるけれど誰に聞こえるわけでもない。
だからとりあえず、すっきりするまでは泣いてしまおうと思った。
どれだけの時間が経ったのか、寝台横の時計を見ればそろそろ日付も変わろうとする頃だった。
結構な時間を泣く事だけに費やしていたらしい。頭はぼんやりするし目も重い。嗚咽と深呼吸が入り混じって変な声が漏れてしまった。
指先で瞼に触れてみると、いつもと感覚が違う。これでもかとばかりに腫れている。
分かっていて泣いたのだけど、あまりにも腫れているものだから何だか笑えてくるほどだった。
寝台横のテーブルに置いておいたハンカチを、手の平に生み出した水で濡らす。適度に濡らさないと寝台もべちゃべちゃになってしまうから、加減に気をつけなければならない。
水で重くなったハンカチを目元に置いて、わたしはまた横たわった。手探りで上掛けをずらして潜り込む。ひんやりとしたシーツは石鹸の匂いがした。
泣き疲れて落ち着いて……それでも頭を巡るのはディエ様の言葉。
これはもう、忘れられない。それは仕方のないことだろう。
「……現状維持。うん、それしかないわ」
気持ちに応えて欲しかったわけじゃない。それは断言できる。恋心を自覚したばかりで、そんなことまで考えられなかった。
それならわたしは──何をこんなに泣いているのか。
そんなの、ひとつしかない。
ディエ様との
もしかしたらもう、遅いのかもしれないけれど。
明日からディエ様はわたしと距離を置いてしまうかもしれない。それを留める事なんて出来るわけがない。
気持ちを抑えられず、挙動不審になったわたしが悪いのだ。
だから──この気持ちはわたしの中に隠そう。
ディエ様への気持ちを無かった事には出来ない。激しい川の流れのようにわたしの感情をこれでもかとばかりに揺さぶる気持ちだったけど、この恋心は暖かい。
こんな気持ちを知るのは初めてで、大切に育ててあげたくて、ずっとわたしの中に置いておきたい。
いつも通りであれば、きっと大丈夫。これからだって上手くやっていける。
自覚していなかっただけで、元々ディエ様に惹かれていたのだ。そこに少し戻るだけ。
何も変わらない。
恋を知る事が出来た。それだけで充分じゃないか。
これからの方針が立ったわたしは、意識して深呼吸を繰り返した。
冷たかったハンカチが目元の体温と同化してくる頃、眠りが波のようにわたしの事を攫っていった。
「本当に愚図ね。今まではその顔を使って、取り入ってきたんでしょうけどあたし達には効かないわよ」
棘が形を取ったかのような言葉。そんな鋭いものを受け止めながら、わたしは両手を床について頭を下げる以外になかった。
目の前でわたしの事を蔑んでいる、異母姉のフローラ。
原因はわたしが原因でもない些細な事。だけど彼女はそれを大きく騒ぎ立て、わたしのことを追い詰める。理由なんて何でもいいのだ。わたしを貶める事が出来るのなら。
「いまお父様がお前の出荷先を選んでいるの。お金があるところがいいのだけど、庶子でしかないお前を受け入れてくれるまともな家があるわけもないでしょう?」
フローラがくすくす笑って、ピンクの髪が一緒に揺れた。大きな青い瞳は嘲りに塗れている。
「人には言えない趣味がある貴族の後妻か……裕福だけど妻を蔑む商人か。お前はどちらがいい?」
何も言えずに、わたしは床に額をつけていた。返事をしても怒られるし、答えなくても怒られる。それはもう分かっていた。
「何とか言ったらどうなの? またぶたれたいのかしら」
「……申し訳ございません」
「謝るよりもどこに嫁ぎたいか言ったらどうなの」
「嫁ぎ先に関しまして、わたくしが選ぶなど贅沢は出来ません故に、どうぞお許し下さい」
「嫁ぎ先? おかしな事を言うのね。出荷でしょう」
「申し訳ございません……」
もうしばらくすれば疲れてどこかに立ち去ってくれるだろう。
聞き流していればいい。機嫌次第ではぶたれるかもしれないけれど、まぁそれもいつもの事だ。
嵐をやり過ごすようなもの。
そう思ってわたしがじっとしていると──不意に、フローラの声が聞こえなくなった。
何があったのかと少しだけ顔を上げると、わたしとフローラの間には七色に輝く光の壁がある。フローラはわたしが顔を起こした事にも気付いていないようで、何かを口にしているけれど、それがわたしに届く事はない。
そうか、夢か。
そうじゃなかったら、フローラがこんな事を許すはずがないもの。
そう気付くと気持ちが一気に楽になって、大きな息が漏れてしまった。
夢だけど、何だか救われた気がした。
あの悪意から守られた気がしたのだ。
ふわりと漂う花の香りを確かにわたしは知っているはずなのに、なぜか思い出す事は出来なかった。