証を求める者
都の工芸職人は男の世界だ。
高い技術を持った親方の元に各地方から一流の職人になるために若い男が集まり、やがて技術を身につけた者は独り立ちしていき、親方となる。
そこに、女の立ち入る隙はない。
祖父の元に集まった多くの弟子のために食事を作り、衣類を洗濯する祖母と母を見てコウリはそれを学んだ。
コウリが五つの時、ある貴族が主催した簪職人の大会で父の作った簪が賞を獲った。
白い花を模したその美しい簪にいたく感銘を受けた紅莉は自信も簪職人になることを夢見たが、女であるコウリは作業場に入ることすら許されなかった。
祖母と母を尊敬していない訳ではない。
二人の支えがあるからこそ祖父も父も簪作りに集中できることは分かっていた。
しかし、彼らがどんなに美しい簪を作ってもそこに祖母や母の銘が刻まれる事はない。
父が匠として尊敬を集めても母が誰かに賞賛されることはない。
父の名は町中の人間が知っているが、母の名を知る者は家族しかいない。
(私が私である意味ってあるのかな)
このまま誰かに嫁いで、嫁ぎ先で尽くして、子供を産んで、そこで求められるのは従順な女であることだけだ。
(私は『私』が生まれてきた意味を作りたい)
祖父が多くの弟子から尊敬を集めるように、父が賞を獲ったように。
(私自身の価値を評価する証が欲しい)
***
「き、緊張してきました…」
出番直前にセンナの簪の位置を直しているとセンナは震える声でつぶやいた。
「本選は三回機会があるんだから、そんなに緊張することないわよ」
「でも、王妃様や王太子殿下の前で舞をするなんて」
紅莉はセンナの言葉に眉を上げると、センナの後ろに回り込み思い切り背中を叩いた。
センナが目を丸くし背筋を伸ばす。
「これから舞姫になろうって女がなに情けない声を出してるのよ。踊り子でもない平民が本選に残ってるなんて奇跡なのよ?もっと自信を持ちなさい」
紅莉の言葉にセンナは拳を握りしめた。
「そうですよね。せっかく本選に出れたんだからしっかりしないと」
その目に再び決意が宿ったのを見て紅莉は微笑むとセンナを送り出した。
センナは自分自身より他人のための方が力を発揮できるのかもしれないと紅莉は考える。
先ほどの紅莉の叱咤も、『平民が本線に残っているのは奇跡』という言葉で何かに思いを馳せる表情をしていた。おそらく、センナを推薦したという村長や二時試験で衣装を選んでくれた武官のことを思ったのだろう。彼らの恩に報いるために、センナは気合を入れ直したのだろう。
(それは素晴らしいことだけど)
紅莉はそんなセンナの姿に物足りないと感じた。
(あの時、風 凰架の舞を見た時の威圧感。自分の舞の美学と誇りのために感じた怒りの感情、あの子にも確かに我欲はあるはずなのに…)
いい子なだけの舞では小さく纏まってしまう。
(もっと欲しがりなさい、センナ。本気で舞姫を目指しなさい。そうでなければ、本物の天才に弾き飛ばされるわよ)
***
センナが舞を始めた頃、春麗は衣装をすっかり脱いで凰架の身支度を手伝っていた。
「よし、完璧」
凰架の纏め上げた黒髪に、銀の簪を飾った春麗は満足気に頷く。
薄灰色の上衣に藍色の裳という色合いだけで見れば地味な衣装だが、良く見れば上衣の袖口には繊細名刺繍が施され、裳も特殊な糸が織り込まれているため動くと光の角度で模様が浮かび上がってくる。一回目の選考の曲目を決めた凰架の舞を見た時に、春麗が感激余って急遽作らせた一品である。
「髪を纏めることってあんまりないから変な感じ」
凰架が不用意に頭を触ろうとするので春麗は慌てて止めた。
「駄目よ。触ったら崩れる!」
「わかった…」
春麗の余りに真剣な様子に凰架は驚きつつ大人しく言うことを聞いた。
「凰架の出番は最後だよね。せっかくだから見たかったなあ」
「練習で飽きるほど見たじゃん」
凰架の呆れた様子に春麗は眉を吊り上げた。
「あのねえ、舞っていうのは舞台に立って初めて完成するの。舞台の構図や奏者によって全然別物になるんだから」
「うんうん、わかる」
「真面目に聞いてる?」
春麗の熱量に凰架が若干引きつつ適当に流していると、入り口から声がかかった。
「風 凰架殿。前の方の舞が始まりましたので、移動の準備をお願いいたします」
春麗と凰架は目を合わせる。
「頑張ってね」
春麗は凰架の両手を握って、力強くそう言った。
***
紅莉は扉の前でゆっくりと呼吸を整えた。
(ついに、ここまできた)
十歳の時、都の祭事を見物に行って初めて舞姫を見た。美しく光り輝く楼華国の宝。
彼女の舞に心を打たれた紅莉は両親に頼み込んで芸館に入れてもらった。
紅莉が最初に入った芸館は平民が金持ちの商人や武官に見初められることを目的にしており、あまり真剣に舞を教えてはくれなかったが、紅莉は狂ったように独学で舞の稽古をし、持ち前の明るさと周りの踊り子から学んだ話術で都一の芸館である栄瑛館に口利きしてくれる客を捕まえた。
その後、栄瑛館で圧倒的な技術を持つ踊り子たちに揉まれながら舞を極めてきた。
『君はどうして、そんなに舞姫に拘るんだい?』
昔、そう聞いてきた男がいた。
彼は永瑛館の常連客で紅莉より四つ程年上だった。都でも指折りの商家の跡取りで、彼が紅莉に好意を抱いているのは誰が見ても明らかだったし、紅莉も彼のことを憎からず思っていた。
彼の問いに紅莉は答えられなかった。
(ただの踊り子で終わりたくない。野に咲く花として摘まれるのは嫌。私は自分が生きた証を残したい)
それが平民出身の踊り子にとっては、いや王族や貴族でもない限り、過ぎた望みだと知っていたからだ。
そして紅莉自身、なぜ自分がそこに拘っているのか真に理解はしていなかった。ただの意地かもしれないし、舞を続けたい言い訳かもしれない。
それでも、紅莉は彼からの求婚を断って舞姫を目指す道を選んだ。
愚かなことをしたと陰口を叩かれながらも、より一層死ぬ物狂いで稽古をして、ようやく本選まで辿り着いたのだ。
扉の向こうから紅莉の名を呼ぶ声が聞こえた。
こちら側にいる楽舞局の女官が静かに頷くと扉を開く。
ゆっくり歩を進めると、最初に目に飛び込んできたのは豪奢に飾り立てられた王族用の審査席。王族の威厳を象徴する朱色の木枠に永遠を意味する王樹の意匠が刻まれ、金粉で装飾されている。
藍色の衣を纏った年若い王太子が泰然とした様子でこちらを見据えている。
(若くても王族ね。威圧感がすごいわ…)
だが、そんなことを気にしている場合ではない。
今この場において、主役は舞台に立つ舞手だ。
紅莉は厳かに剣を構えた。控えめな箏の音が曲の始まりを告げる。
紅莉が選んだ曲は『央蘭』だ。かつて北領にいたという女でありながらある豪族の長となり、北の蛮族から領地を守ったとされる、央蘭の人生を描いたとされる舞だ。
序盤は静かに剣を掲げるところから始まる。
北領の中でも一際過酷な領地で央蘭は生まれた。子供の頃の記録は残っていないが、恐らく豪族の令嬢らしく慎ましやかに育てられたのだろう。
彼女に悲劇が訪れたのは結婚して数年後、当主である父親が病で亡くなり、後を継いだ夫も北の蛮族の襲撃により当主を継いで僅か二年後に帰らぬ人となった。
曲の中盤に差し掛かると箏が不快な旋律を紡ぎ始める。それに合わせて剣の動きも複雑になっていく。この曲で最も技術が必要とされる振りだが、紅莉はもう何も考えずとも完璧に剣を操ることができるようになっていた。
しかし、普段は使わない剣の重さに少しも気を抜けないのは事実だ。
(彼女はきっと、剣の重さを知っていた)
紅莉が調べた限りでは、央蘭が剣を取り戦ったという記録はない。
しかし、領地を守る為の戦いで彼女が指揮を執ったことはどの記録にも共通していた。領地を守るために、振り下ろされる剣の重さを、流れる血の数を、知り背負ったのが央蘭という女性だと紅莉は解釈していた。
央蘭が戦ったのは戦場ではない。重責を背負いながらただひたすらに山に登り続けるようなたった一人の戦いだ。
(登った先には何がある?戦いが明けたらどうなる?)
どんなに舞っても紅莉はその答えを出せなかった。出せずにこの日を迎えた。それでも紅莉がこの曲を選んだのは。
(それでも背負い歩き続けるべきだと、そうせざる負えなかったのではなく、そうあるべきだと貴女が決断したのだと感じたから)
紅莉もまた、自分で歩き続けることを選んだ。
踏み出す一歩一歩がいつもより重く感じられる。
家族を失った時の悲しみはどれ程のものだっただろうか、自分の命で兵士の命が散った時のどれだけ自分を責めただろう。
(戦が終わった時貴女は安堵した?喜んだ?それとも虚無感に打ちのめされた?)
紅莉の歩む先に凛とした女性の後ろ姿が見える。
終盤、戦の激しさが増す様子を表すように、舞の動きもより激しさを増す。
央蘭は戦が終わるとすぐに領主の座を傍系の子息に譲り、表舞台から姿を消す。
(だから、この舞も戦いの終結と同時に幕を閉じる)
激しいせめぎ合いを思わせる振り、普段の紅莉ならこの手の技術では翠廉には及ばないだろうと考える余裕があったが、今日は違っていた。
(目の前がチカチカする…)
前を歩き続ける女性は依然として背筋をまっすぐ伸ばし、前だけを見つめている。
(待って、私もそこに連れて行って。貴女を知りたいの)
横一文字に大きく剣を振る、その一閃でこの舞は終わってしまう。
紅莉は重たくなった腕に渾身の力を込め、剣を真横に振った。
前を歩いていた女性は振り返り、紅莉を労うように小さく微笑む。
はっとした紅莉が顔を上げると目の前には舞を始める時と同じ、正装に身を包む審査員たちがいた。
(終わった…)
乱れる息を整え、紅莉は一礼をする。
カタンと小さな音がした方を見ると、美しい黒髪の女性が立ち上がっていた。
神官長よりも五色院よりも上座に座るその女性こそ、紅莉が目指す地位に名を連ねる者。現舞姫、夕蓮である。
「紅莉殿、貴女の舞は実に素晴らしかったです」
紅莉は驚きで目を見開いたが、慌てて深々と頭を下げた。