シュレディンガーの部員
冤罪探偵の前日譚です。
本庄照様主催、大学アンソロジー参加作品。
――酢豚にパイナップルって、マズイじゃん?
いや、分かるよ。酸味が加わって肉も柔らかくなるんだろ……けどさぁ、楽しい気持ちで肉食ってる時に急にかってぇパイナップルの芯を噛んじゃったときのあの感覚。
俺に言わせりゃ"合わない"んだよな。
世の中にはそういう足し算がいくつかある。
たとえば、塩素系洗剤と酸性洗剤。キケンだろ?
たとえば、老人に餅だ。もはや言うまでもない。
たとえば……そうだな。今の光景なんかもそうだ。
大学生+オールバック+白スーツ。ついでに身に付けたアクセサリーは金の腕時計と来たもんだ。
さて、詐欺かヤーさん絡みか。
……やっぱり逃げた方がいいよな。これ。
**
――その男は泣いていた。
「なぁ~頼むよォ、一緒に来てくれよォ~~~」
俺の膝元へ抱き着くようにひっつく彼は、そう言いながら滝の如く涙を流す。ハタから見ればラグビーのタックルみたいな状況だが、大学+タックルも大概危険な足し算なのでこの話はここでやめておく。
眼前に迫る彼のでっかいピアス痕を眺めつつ、現実逃避にそんなワケの分からんことを考えていた俺をよそに、イカれ……イカした風貌の彼はしかしその格好と裏腹にやたら甲高い声で俺に問いかけた。
「君、一年生だよねぇ!?」
「そ、そうっすけど……」
「ボクも一年生! お願いだから、人助けだと思って聞いてくれよ~~」
あまりの気迫に返事をすると、男は尚も涙を流しつつそう懇願する。どの道こうなってしまった以上逃げる手段もあるまい、と俺は頭を掻きながら口を開いた。
「……なんすか。入学初日にいきなり、そもそも初対面っすよね」
「だって、目が合ったんだもん」
ポケモントレーナーかこいつは、と吐き捨てたくなるのを必死に堪えて俺はため息に変換する。そんな様子に慌てたのか、彼は矢継ぎ早に次の言葉を放った。
「ね、フィーエルヤッペンって知ってる!?」
「あー、そういう商売興味なくて」
「詐欺じゃないよ!? スポーツだよ!」
「分かってますよ。謎の荷物を走って運んだり、国家権力からダッシュで逃げたり」
「だから犯罪じゃなくてね!」
バタバタと彼が腕を動かす度、その右手に嵌められた金時計がキラキラと日光を受け輝く。時計にはさほど詳しくないが、それでも高価なことだけは容易に想像がついた。
「サークルの勧誘だよ!」
「犯罪サークル?」
「ちーがーう、先輩が部員ひとりにつき新入生二人集めて来いって」
「やっぱりねずみ講じゃねぇか!」
「だから違うんだって!」
「仮に違うとしたら説明が下手すぎるだろ!」
俺の一喝に彼はハッとしたらしい。ワザとやってるとしか思えないほど誤解を招く表現が続いていたが、ようやく男も冷静を取り戻したのか、コホンとひとつ咳払いすると改めて俺へと向き直った。
「ボクの名前は天海聡太、経済学部一年。フィーエルヤッペンってマイナーなスポーツのサークルに所属してるんだけど、そのサークルの勧誘をしてるんだ」
「最初からそう言えよ」
「スポーツサークルって言っても、ほとんど飲みサーみたいなもんなんだけど。今日も飲み会する予定で、新入生集めて来いって先輩に頼まれたんだよ……お願い、来てくれないかな? 別に入部は今日決めなくてもいいし、飲み代も部活で持つから」
「最初からそう言ってくれよ、兄弟!」
天海が言い終わるや否や俺は彼の背中をバシンと叩いて立ち上がる。天海は俺の変わり身に面食らったらしく、オールバックの髪型からは想像のつかないほどつぶらな瞳でこちらを見上げた。
「え、来てくれるの?」
「おう。こちとら下宿の敷金と学費で持ち金吹っ飛んだばっかの貧乏学生だからな。タカれるもんはタカるって決めてんだよ」
「そ、そうなんだ……」
一歩引くようなその反応は困惑かはたまた憐憫か。いずれにせよ盛り上がっているのはこちらだけのようであった。まぁ金持ってそうだもんな、こいつ。
「なんにせよ、助かるよ。ただ……」
「ただ?」
「さっきも言ったけど、最低でも二人見つけないといけなくてさ。あと一人集めなきゃいけなくて」
天海は少し不安げに語る。が、他方で俺は楽観的な態度で答えた。
「ふぅん。ま、俺みたいに飲み会無料をアピールすりゃもう一人くらいサクッと集まんだろ」
「そうかな?」
「あぁ。適当に声掛けてこいよ、見といてやる」
偉そうに言っているが要するに丸投げである。もっとも人数集めは天海に課されたミッションであり、そもそも俺が手を貸す義理など無いのだが。
発破をかけられ、天海は意を決したように前を向く。そうして手近な一人にターゲットを定めると、彼は何故か左右に大きく揺れながら近付いていった。
「そこのお兄さん、お得な話があるんだけど――」
「はいストップ」
パコォン、乾いた一撃が鳴り響く。静観を決め込むつもりだったのだが、どうやらあまりの勧誘のクソさ加減に勝手に体が動いていたらしい。そのまま俺はズルズルと天海を物陰へ引き摺ると、目の前にしゃがみこんでため息をついた。
「いや、まぁ正直やると思ってたよ」
「……何が?」
どうやら本当に自覚症状がないらしい。そのおとぼけ顔がなんだかとてもカンに障り、俺は無言でもう一発その脳天に振り下ろした。
「イテッ」
「あのな、個人の自由だしあんまり言いたくなかったけどよ……その髪とその外見であの言い方じゃ、そりゃあ誤解を招くだろ」
「えっ、でも大学ではこれがウケるって」
「どう見てもチンピラ。ウケるどころか受け子にしか見えねえよ」
一刀両断されたのが余程衝撃だったようで、彼はガックリと肩を落とす。どうやら本当に無自覚だったらしく、それはそれでタチが悪いと俺は思わず呆れ返った。
「お前、こんなんやってたら日が暮れちまうぞ」
「じゃあ君が手伝ってよ」
「何がじゃあなんだよ」
「もし、もしだよ」
口を尖らせる彼に俺は反駁する。すると、彼は何やら腹に一物ありげにニヤリと笑った。
「このまま人が集まらなかったら、飲み会も流れるかも――」
「よっしゃ行くぞ天海! ほらそこ歩いてるメガネ、押しに弱そうだぞ行け行け行け囲め囲め押せ押せ押せ押せ!!」
**
「……で、僕が連れてこられたわけだ」
ところ変わって部室棟前。
不運にも俺達に拉致……じゃなくて勧誘され、両脇を固められる形でここまで運ばれてきたメガネの彼は、少し不機嫌な態度でそう語った。
「でも、なんで僕なんだい? あの場には他にも沢山居たと思うけど」
「目が合ったから」
「んなポケモントレーナーみたいな……」
「そう不機嫌になるなよ。飲み会タダなんだぜ?」
「いや、そもそも僕達未成ね――」
「おっと。言わせねぇぞ」
無理矢理彼の言葉を遮ると、彼はため息を吐きつつ器用に俺達を振りほどく。白いワイシャツにカーキ色のスキニーと、天海とは対照的に随分スマートな出で立ちをした彼はまだ文句を言いたげであったが、少なくとも逃走の意思は残っていないようであった。
「……しかし、部室にわざわざ行く意味あるのか? 俺としては飲み会に参加出来りゃそれで充分なんだが」
「君たち的にはそうだろうけど、一応形としては入部検討者だからね。先輩と顔合わせくらいは頼むよ」
プレハブ建ての部室棟を見上げつつ訊ねると、彼はやけにニヤニヤしながらそう答える。そんなにノルマ達成が嬉しかったのだろうか。
――これでドアを開けたらやっぱり詐欺でした、ハイ情報商材買うまで帰しませんよ……なんてことは流石に無いよな?
ふと、俺は胸に嫌な予感を抱く。が、天海はそんな俺に当然気付くこともなく、まるでスキップするかのような軽やかな足取りで俺達の先導を始めていた。
――ま、そうなったらコイツ盾にして逃げるか。
メガネくんに視線を移しつつ、俺は少し速度を緩める。自然、彼の方が少し前を歩く形になり、それに彼自身も不安を覚えたようでこちらをチラリと見た。
「ねぇ。どうしたんだい」
「い、いや別に……」
「一応言っておくけど、君が僕を巻き込んだんだからね」
速度は変えず、しかし有無を言わせぬ圧で彼は俺を見る。どうやら天海と違ってアホでは無いらしい。その圧に負け、俺は小走りで再度彼に並んだ。
「着いたよ。部室棟三階B室、ここがフィーエルヤッペン部の部室だ」
「へー……本当に部室あったんだ」
壁にかけられたフィーエルヤッペン部の文字を眺めつつ、メガネくんは呟く。
やはり彼も半信半疑だったらしい。しかしそんなドストレートの反応に気を悪くすることも無く、紹介を続けた。
「ちなみに両隣は味噌汁部と洗濯研究会の部室ね」
「俺が知らないだけでうちの大学ってもしかして花嫁修業界の最高学府だったりする?」
「就職実績を円グラフにしたら『専業主婦』の割合多すぎて初代のパックマンみたいになってそうだね、それ」
「……というかそもそもに、だ。フィーエルヤッペンってなんなんだ?」
今更の疑問であるが、俺は競技の内容すら知らずにここにいる。隣の彼も同様だったようで、俺の言葉にウンウンと頷いていた。
「ま、その説明も中でするよ。まずは入って――ん?」
言いつつ片手でドアノブを捻った天海を、乾いた金属音が拒む。あれ、あれと彼は繰り返しノブを回すも、やはり結果は同じであった。
「おっかしいな……この時間なら誰か中にいるはずなんだけど」
ま、いいやと言いつつ彼はポケットをガサゴソ探り、ややあって一本の鍵を取り出す。それをノブの鍵穴に突き刺すと、彼はゆっくりと右手を回転させた。
「よーし開いた開いた……あれ?」
ガチャン。
重い金属音。間違いなく、それは扉が開いた音であった。
が。
……ガチャン。
「ん?」
「え?」
「は?」
それは二度、鳴り響く。
「えっ、ちょっ……」
天海も流石にそれは想定外だったようで、当惑した様子で改めてノブを捻る。が、ドアノブはやはり微動だにせず俺達を拒んでいた。
「向こうに誰かいるんじゃないかい? 着替え中とか」
腕組みの姿勢でその様子を静観していた隣の彼が、おもむろに口を開く。天海は頷くと、扉越しに呼びかけた。
「おーい、誰かいますか?」
「……返事ねぇな。おーい」
流石にトタンの板一枚に阻まれて聞こえなかった、なんてことは無いだろう。天海に代わって俺が、今度はノック混じりに同様の呼び掛けを試みるも、しかし室内からはなんの反応も帰ってくることは無かった。
「あの、開けますよ~?」
言いつつ、天海は再度鍵を差し込む。そうしてまたゆっくりと鍵穴を回すと、またも確かに解錠の音がプレハブの廊下に響き渡った。
「よし、開い――」
ガチャン。
今度は言い終わるよりも更に素早く、鍵穴から抜いた瞬間また金属音が鳴る。もはや確認せずとも、それが鍵を閉じた音であったのは明白であった。
「なんだよもう!」
言いつつ、彼は癇癪を起こしたように突如扉を蹴りつける。扉は曲がりこそしなかったものの、しかし古い建物であるせいか悲鳴のように軋んだ。
「まぁまぁ、落ち着けよ」
「落ち着いていられるかよ。なんなんだよマジで、からかってるのか?」
「……ねぇ」
宥める俺と苛立ちを隠さない天海を交互に眺めていたメガネが呟く。その声に俺達が振り向くと、彼は腕組みの姿勢でこう言った。
「鍵、回したまま開けてみたら? 向こうに扉を開けたくない誰かが居るなら押し合いになって開かないかもしれないけれど、少なくとも人が居るかどうかの確認は出来るでしょ」
「それだ!」
指を鳴らして俺が賛同すると、隣で天海も膝を打つ。言うが早いか天海は再再度鍵を突っ込むと、今度は景気付けと言わんばかりにフンッと勢いよく鍵を回した。
「いくよ……って、あれ?」
押し込むと、案外抵抗はなかったらしい。天海の背後で半身をピタリと扉に付け、全力で押し合う姿勢を見せていた俺は拍子抜けの態度で室内を覗き込んだ。
「えっ」
「おや」
「マジか」
三者三葉、それぞれが驚きを声にする。
その部屋は、もぬけの殻であった。
部屋にはボロくてチープな長机と、椅子が三脚並ぶのみ。真っ白で飾り気のないシンプルなその部屋には、正面に開け放たれた窓から春の穏やかな陽光が差しているのみであった。
「誰もいないね……ここ、二階だっけ?」
「そ、そうだけど」
天海に問いを投げながらも、メガネの彼はまっすぐ前を見つめながら窓辺へと歩み寄る。それからずいと窓辺へ身を乗り出すと、落とした視線を二往復させた。
やがてその目は何かを見つけたらしい。さらに大きく身を乗り出すと、彼は手を振りながら声を張った。
「あの、すみませーん。用務員さんですかね?」
「そうじゃが、なんじゃー?」
扉のすぐ側に立つ俺達には見えなかったが、どうやら窓の下には用務員さんが居たらしい。俺達も窓辺へと辿り着くと、たしかに箒を持ったツナギ姿の老人がこちらを見上げていた。
「そこで何されてるんですかー?」
「見りゃわかんじゃろ、掃除じゃ掃除」
まぁたしかに見りゃわかる、と俺も隣で静かに頷く。実際問題、ホウキ使ってやることなんざ掃除か宅急便くらいである。
どうやら爺さんの仕事はそろそろ佳境のようで、既に箒を地面に置き落ち葉やゴミでパンパンに膨れ上がった袋を力強く結んでいる最中であった。
「あの、聞きたいことがあるんですけどー」
「なんじゃー、ワシゃ忙しいんじゃが」
「さっき、ここから誰か飛び降りてきたりしませんでしたー?」
ゴミ袋の様子から察するに、どれだけ少なく見積もっても数分はここに居たはずである。そして内側から閉められた鍵と、開け放たれた窓。メガネの彼が脳内で立てているであろう仮説の詳細は、傍で立っている俺にも簡単に想像できるものであった。
が。
「――いんや? 飛び降りるどころか、こんなとこ誰も通らんかったぞ」
首を振りつつ放たれたその答えに、俺達三人は息を呑む。
「え、本当ですか? 本当に誰も?」
「……なんじゃ、鬼ごっこでもしとったんけ? 元気なのはいいことじゃが、危ない真似はせず怪我する前に程々でやめとくんじゃぞ。ほっほ」
当惑して聞き返す俺達を他所に、老人は笑いながら袋を持ち上げる。そうして右肩に箒を担ぐと、何故だか少し満足気な態度で去っていった。
**
「――だから、フィーエルヤッペンは内容こそ棒高跳びで川を越えるだけの単純な競技に見えるけど、実際オランダでは……聴いてる?」
「あー、聞いてる聞いてる」
どこからかホワイトボードを持ち出してきて解説を始めた天海に思いっきりケツを向け、俺達二人は扉のサムターン錠へと食い入るように熱い視線を送っていた。
「……どう思う?」
「変なところは無いと思うけどね。強いて言うなら随分緩んでるから、弱い力でもクルクル回るって感じだけど……そもそもこの建物も結構古そうだし、怪しいとまでは思わないな」
「まぁ、そうだよな。緩んでるつっても流石に勝手に閉まるほどでは無いし、当然何か仕掛けがあるってわけでもない」
指先でサムターンをくるくる回しながら答える彼に、俺も頷きながら賛成する。となるとやはり窓か、と振り返ったタイミングもまた彼と全くの同時であった。
「あ、やっとこっち見た。それで、フィーエルヤッペンは日本だとまだ競技人口三十人程度のマイナースポーツなんだけど、これは逆に言うと」
「わり、コレちょっとどけてくれ」
まさしくマシンガンばりに得意げな早口を披露している彼に歩み寄りながら、俺は一応申し訳なさげに白板を指す。すると彼は不服そうに口を尖らせたが、意外にも文句などは口にすることなくホワイトボードを横へと動かした。
そんな彼に片手で礼を送りつつ、俺は数十分前に三人でそうしていた時のように窓枠に身を乗り出すと、再度メガネの彼へと同じ質問を投げかけた。
「どう思う?」
「うーん……」
が、先程と違って彼の反応は鈍い。
ややあって彼は外の花壇を指すと、少し眉間にシワを寄せながら自信なさげに口を開いた。
「たとえばだけどさ。あそこのツツジ……あの植え込みに向かってジャンプしたら、着地したまま姿を隠せるよね」
「なるほど、つまり?」
「だから用務員さんがこちらを見ていないタイミングで跳んで、ツツジの植え込みに着地すれば……ごめん、忘れて」
流石に無理があると思ったのだろう、言い終わる前に先回りして彼はかぶりを振る。まぁ確かに可能か不可能かだけで言えば可能であるのかもしれないが、いくらなんでもバクチが過ぎるだろう。音で気付かれる可能性だって十分にあるし、何よりジャンプした瞬間振り向かれたら即アウトである。そして何より、上から見る限りツツジの植え込みに人が着地したような痕跡は見当たらなかった。
再び、俺達二人は腕を組んで思考に耽る。すると疎外感を感じたのだろうか、天海も窓際に寄ってきて口を開いた。
「普通に中に居たのはフィーエルヤッペン部の誰かで、たまたま用務員さんが気付かなかっただけじゃないの……って何その顔」
「や、つまんないなぁと」
「まぁ、ツマンネェな」
とても簡単で、現実的で、面白くない答えである。だがその可能性がいちばん高いのも事実であり、結果として俺達の答えは非常に感情論の強いものとなった。
当然というべきか、その反応は天海のカンに障ったらしい。彼は少しムッとした態度で俺へと顔を寄せた。
「これは推理小説じゃなくてこれは現実の出来事なんだよ。つまるとかつまんないとかそういう問題じゃないだろ」
「まぁ、そうなんだけどさ……ってお前そのナリでガン飛ばすなよ凄い絵面だぞこれ」
あぶない、ちょっとチビるところだった。いくら根の性格を知っているとはいえ、オールバックに白スーツの男に詰め寄られるこの構図はなんだか色んなところから水分が出てきそうな気分である。
「……まぁまぁ。仮にそうだとしても、全ての謎が解決したわけじゃないだろ」
そこに仲裁しに入ったのはメガネ君だった。そもそもコイツも同じ答えだったのに、何故俺だけ詰められなければならないのか。やや不公平感を感じながらも、俺は天海と共に彼の方へと視線を移した。
「大まかに今ある謎は3つ。逃走方法と動機……というか部屋から逃げ出した理由、それから犯人が誰かって感じなんだけど……本当に部屋から盗まれたものは何も無いんだよね?」
「うん。ホワイトボードは今さっき借りてきたもので、元々部屋には机と椅子しか置いてなかったし」
「たとえば、部費とか」
「ないない。部費なんかまだ集めてないし、そもそもこんなとこに不用心に置いとかないでしょ。あ、ちなみにフィーエルヤッペンは費用がかかりにくくてね――」
「……そっか」
謎のタイミングでいきなりエンジンの入った天海を適当にスルーしながら、アテが外れたと言わんばかりに彼は頭を搔く。その様子が少し気になり、俺は彼に問いかけた。
「どうした?」
「いや。天海君が犯人だとしたらさ」
「ハェ!?」
想定外の切り口に、天海はまんまるな口からドデカい奇声を発する。その様子に今のは発音記号なら/hæ/だな、なんてくだらないことを考えながら、視線だけで俺は彼に続きを促した。
「……仮に天海君を犯人だとしたら」
「ああ」
「まず、天海君は何らかのトリックで鍵を閉められたように自演する。ここのトリックは何も考えてないけど」
「……それで?」
「で、扉を開けたら今度は部費が盗まれたと騒ぎ立てる。当然、僕達は窓から出ていったであろう何者かを疑う」
この時点で現実とは違う以上、恐らくこの推理自体は間違っているのだろう。とはいえそれは最初の彼の様子から想像できたことだ。俺はそのまま続きを求める。
「まぁ、そうなるわな」
「しかしいつまで経っても犯人は見つからない」
「そりゃあ、天海が犯人ならそんな奴はハナから居なかったことになるからな」
「そしたらフィーエルヤッペン部は部費を盗まれた被害者として、学校から部費の補填を請求出来るんじゃないかな……なんてさ。ちょっと無理やりな筋書きだけど」
要するに保険金詐欺だとか、狂言の類である。確かに動機としてだけ見れば納得は出来るのかもしれなかったが、しかし彼が実際このアイデアをボツにしたのと同様に、推理にしては少しばかり弱すぎるというのが本音であった。
「ないない、ないよ」
「分かってるよ。天海君は僕が訊くまで部費の話を全く出さなかったし」
「そうだよ、失礼しちゃうなぁ」
犯人扱いが相当不服だったらしい。天海は口角泡を飛ばして反駁する。その様子に彼もごめんごめん、と申し訳なさそうに頭を下げていた。
「やっぱりウチの部の誰かでしょ」
「……そうなのかな。まぁ、盗まれたものもないみたいだし、動機の意味で言っても部外者とは思えないけど」
「しかも部員だとしても、逃げた理由も分からなければ用務員さんに姿を見られなかった理由も分かってないからな」
フィーエルヤッペン部の解説を再開したいのか、それとも単純に飽きたのか。天海は既にこの謎から興味を失いつつあるらしい。未だ謎にしがみつづける俺達に、彼は面倒くさそうに尋ねた。
「……正直、どうでもよくない? なにか被害があったわけでもないし」
「いやそうなんだけどさ。でもここで放り投げたら、なんか一生ふとした瞬間に思い出しては気になる気がして……」
「んな大袈裟な」
呆れた、と言いたげに彼ははため息をつく。たしかに大袈裟かもしれなかったが、ただ天海を含む競技者に失礼を承知で言えば少なくともフィーエルヤッペンの解説よりは数倍興味を惹かれていた。
そんな俺の様子にいい加減苛立ったのだろう。天海は再度ホワイトボードを動かそうとしながら、やや強引な口調で俺達へ言った。
「じゃあもうアレだよ、透明人間。透明人間が鍵閉めて逃げたから用務員さんは見えなかった。終わり終わり――」
「……それだ」
パチン。
俺は反射的に、指を鳴らしていた。
それは春の少し乾き気味な空気の中でよく響き渡り。
「悪い、ちょっと行くわ。多分すぐ戻ってくる」
「えっ、どこに」
「透明人間の姿を拝みに!!」
同時に降りてきたヒラメキは、それに負けず劣らずの快音を脳内に掻き鳴らしていた。
**
「――遅い」
「遅かねぇだろ、十分かそこらだぞ……」
ゼェゼェ息切れしながら部室へ戻った俺を、天海達は椅子に座ったままの姿勢でそう迎えた。走った距離は決して長くは無いはずだったが、受験明けの怠けきった体に全力疾走は随分とこたえたらしい。まるで産まれたての子鹿の如く、俺の足はガクガクと震えていた。
「この部屋で十分はなかなか長いよ。実際待ってる間暇だったし」
「じゃあ、着いてこりゃ良かったじゃねぇか……」
「ついて行こうと思ったけど、君が速すぎて置いてかれちゃったんだよ……ほら」
天海の言葉に顔を上げると、目の前には彼の大顔ではなく青いラベルがひょいと現れる。どうやら俺の帰りを待つ間に飲み物を買ってくれていたらしい。気の利くこった、と俺はそれを片手で受け取ると胃にジャバジャバと流し込もうとし、勢い余って肺にもぶち込んだせいで一気にむせ返った。
「うわ、部室に吐かないでよ」
「ゲホッ……大丈夫、すまん。興奮と疲労で嚥下と呼吸間違えた」
瀕死になりながら返答すると、呆れや困惑よりもドン引きといった様子のメガネ君の姿が視界に入る。涙でぼやけた視界の中、彼は恐る恐るといった様子で態度で口を開いた。
「あの、解けたならはやく謎解きして欲しいんだけど」
「容赦ねぇな、お前……」
言いながら、俺は再度ドリンクを口に含む。それを今度こそゴクリと飲み込むと、俺は改めて二人に向き直った。
「じゃあ、謎解きを始めるが――まず最初、天海が鍵を開けた時。俺はずっと気になってたことがあるんだ」
「気になってたこと?」
「ああ」
頷きながら、更に俺はペットボトルを傾ける。中身は既に三分の一程度まで減ってしまっていた。
「なんで天海は、二度も鍵を開けることが出来たのか」
「二度も……って、あぁ。それは確かに」
「えっ、ええ?」
メガネ君はすぐに納得したようだが、一方で当の天海はまだ理解出来ていないらしい。俺は彼にペットボトルの底を向けると、一つ質問を投げかけた。
「仮にお前が中に居たとして、外の誰かに入られたくなかったとしてだ。一回目の解錠は不意打ちだったかもしれないから、鍵は回りきるだろう。そしてお前は慌てて内側のサムターンを回し、施錠する」
「う、うん……あ」
彼は実際にサムターンを回すような手つきを見せながら俺の言葉をなぞり、そしてようやく気付いたらしい。その小さな声と共に、俺はゆっくりと頷いた。
「そしたら普通、扉の向こうのやつが帰るまではそのままサムターンから手を離さなくないか? 再度、鍵を回されないために」
「……まぁ、僕ならそうするね。手を離した瞬間鍵を回されて、今度こそ施錠が間に合わずに扉を開けられる可能性もあるわけだし」
「そう。だから普通鍵は二度も開くわけが無いんだよ。だが、そうはならなかった」
メガネの彼が同調し、俺は自分の推理に更なる自信を持つ。そうして少し青ざめた表情の天海へと視線を移すと、俺は続けた。
「となると、コレは人の仕業ではなく……トリックと考えた方が自然だ。誰かが鍵を開けたら自動的に閉まるようなトリック、つっても割と単純だけどな」
言いながら、俺はポケットをまさぐり一つのアイテムを取り出す。掌の上に乗ったそれをまじまじと眺めたメガネ君は、訝しげに尋ねた。
「なに、これ。ゴテゴテしたデザインで……なんかキモいね」
「ウチの大学のマスコットキャラクターのキーホルダーだよ。さっき出た時、購買部でついでに買ってきたんだが」
「そうなんだ、にしてもキモいなぁ」
「うん、ボクも気持ち悪いと思う」
二人とも随分な評価である。まぁ俺もこいつのこと可愛いとは微塵も思えないのだが、とりあえず今重要なのはコイツのデザインの酷さではない。俺はコホンと咳払いをして、ドアへと歩きながら続けた。
「このキーホルダー、実は結構重みがあるんだ。多分この……なにこれ、触手? たてがみかな。ツノかもしれねぇけど、こういう装飾がやたら多いからその分重さに繋がってるんだろうな。体感八十グラムくらいはある」
「たぶん耳だと思うけど」
「耳……これが? もういいや、とにかくこいつ重いのな。そんで、反時計回りに九十度回すと施錠するこのサムターン錠を縦向き、すなわち解錠にした状態で、キーホルダーの紐部分をテープかなんかでツマミの右側面に貼り付ける」
言いながら、俺は購買でついでに買ってきたセロハンテープをぺたりと貼り付ける。それからツマミの上部から反対側――ツマミの左側へと紐を通して謎生物を垂らすと、そのまま手を離した。
……ガチャン。
「な? まぁ、何もこのクソみたいなデザインのキーホルダーじゃなくてもいいんだ。要は何かしら、紐状でかつそれなりに重さがあるものを引っ掛けておけば、これだけ緩い鍵なら簡単に閉まる。ちなみに俺達は最後鍵を回転させたまま開けたから施錠されずに扉を開けることが出来たが、多分本来の解錠方法は少し違う」
「一応、聞いておこうか」
「単純だよ。思いっきり、勢いをつけて鍵を回せばいい。そしたらこのキショい生物は遠心力で弧を描いてサムターンを飛び越し、今度は右側にぶら下がる。そうしたらもう反時計回りの力は加わらなくなるから、無事解錠成功だ……だから逆に一回目や二回目の時は、そうならないようにゆっくりと解錠する必要があるな」
言いながら、俺は人差し指でサムターンをピンと弾く。するとキーホルダーは俺の推理通り、ぐるりとサムターンを越えて今度は左側へとぶら下がった。
「後は俺達が開いた窓に注目してるうちに、これを回収すればいい……けど」
「そこじゃないよね」
メガネの彼は俺の言いたいことに既に気付いているらしい。なんなら先程からの様子を見る限り、彼自身もこのトリックには行き着いていた可能性が高い。そんな事を考えながら俺は頷くと、少し大きく息を吸って続けた。
「ああ。なんつーか、別にカッコつける訳じゃねぇけどよ。コレ自体は割と早いこと思い付いてたんだ。ただ、このトリックが本当に使われたかどうかの確信が持てなかった」
「……僕はどちらかと言うと、窓からどうやって用務員さんの目を掻い潜ったか、そっちの事を考えていたな」
「その気持ちも分かるし、実際途中までは俺もそうだったよ。だって……」
言いながら、俺達二人の視線は一点へと集まる。
「このトリックは、鍵を開けた奴にしか使えねえんだから」
「……っ」
話の流れからこの結論になることは薄々察していたのだろう。天海は先程メガネに犯人呼ばわりされた時とは違い、落ち着き払った様子でただ俯いた。
「さっきも言ったが、このトリックは唯一解錠する人間だけが、解錠と施錠をコントロール出来るんだ。だがそれは、逆説的に開けた人間が犯人ってことになる」
「けど、動機は? 仮に天海くんが犯人だったとして、部費が盗まれたなんて騒ぎ立てるわけでもなく。一体、何がしたかったんだ?」
「――このトリックは、誰もいない部屋に誰かが居ると見せかけるために使うもんだ」
俺の言葉に、メガネ君が納得した様子はない。だが一方で天海は、遂に観念したと言わんばかりに肩を落とした。
「始めから無かったんだろ? ノルマを課した先輩も、フィーエルヤッペン部も」
「え」
「透明人間の正体見たり、だ。本館の一階にサークルの募集掲示板があるだろ……俺はさっきあそこへ行ってきたんだ。購買はそのついで」
「……そこで、何を見たの?」
「なんにも? フィーエルヤッペン部の募集なんてどこにも無かったぞ。おかしいよな、部員はこんなにも必死に勧誘活動してるってのに」
その言葉に、ようやくメガネ君も悟ったらしい。遅れて彼もまた驚いた表情で天海の方を振り向くと、天海は両目に大粒の涙を浮かべていた。
「妙だとは思ってたんだ。部室に道具のひとつも無いし、新入りのはずの人間が部屋の鍵持ってるし、色々とな」
「……」
「お前、大学でフィーエルヤッペン部を作ろうとしてたんだろ。けど競技はマイナーだし、そもそもの部員がたったひとりじゃ人が集まるわけもねぇ。それで……」
「まさか、他にも部員が居たように見せかけたかった……?」
コクリ、彼は静かに頷く。と同時に彼のつぶらな目はボトボトと音を立てて決壊した。
「――ごめん、騙すつもりはなかったんだ。ただ、大学公認の運動部として扱われるには、最低でも三人集めないといけなくて、でも全然集まらなくて、どうしていいか分からなくて、せめて人がいると思ってくれたらって、それで……」
まるで、子供がイタズラを謝罪する時のような。そんなたどたどしい自白であった。犯行と呼ぶにはあまりにも純粋で、不器用で。無粋に暴いてやるべきではなかったのかと、俺はその涙を見ながら少しだけ後悔の念を覚えていた。
「この部屋も、洗濯研究会からの借り物なんだ。会長に頼み込んで二つあるうちの部室を貸してもらってて……けど、両隣が汁部と洗研じゃやっぱり全然集まらなくてさ」
「味噌汁部と洗濯研究会ってそういう略し方するんだな……待って洗研って部室二つも持ってんの? そんな規模デカいの?」
「……ほんと、騙して悪かったよ。ごめん。ごめんね」
「ま、まぁ別に俺達が何か損したわけじゃねぇしいいけどよ……てかお前、今日は騙せてもこんなんすぐ限界来てバレるだろ」
「いや、今日のうちに入部届け書かせちゃえばいいかなって」
前言撤回、こいつ無茶苦茶ちゃっかりしてやがる。
俺はズッコケそうになりながらも、メガネ君と顔を見合せ苦笑いを浮かべる。彼もため息をつくと、俺と同様に呆れたような笑みを浮かべた。
「ったく……もういいよ。入部届って机の上のこれか?」
「えっ」
購買に走った時から、俺はこうすると決めていた。
ポケットからボールペンを取り出すと、机の上に重ねられた紙を一枚抜き学部に名前、そして学籍番号を書き込む。
「えっ、えっ。ホントに?」
「本当だよ。ツネってやろうか?」
「……っ、ありがとう! 夢みたいだ!」
「だから現実だって」
天海の頬を軽く引っ張ると、彼は痛いと言いながら飛び上がる。だがそこに浮かんでいた表情は、屈託のない満面の笑みであった。
それから俺は向かいの椅子を一瞥し、そこに座るもう一人の入部候補へとペンを投げ渡す。
「ほらよ、メガネの」
「国家錬金術師みたいに言わないでよ」
「しゃあねぇだろ、天海はともかくお前の名前知らねえんだから」
「それは僕もだけどね」
そのツッコミで、ようやく俺達が互いに自己紹介のタイミングを逃していたと気付く。なんなら天海の名は知っているが、こちらが彼に対し名乗った記憶もない。俺はあれだけ話した後に改めて自己紹介をするという、少しばかり妙なシチュエーションに少し気恥ずかしさを感じながらも、左手の入部届を二人の中間地点にゆっくりと掲げた。
「俺は島村幸次郎。天海と同じで、経済学部一年だ。よろしくな」
「へぇ、島村って言うんだ……字、汚いね」
「うるせ。ほら早くお前も自己紹介しろよ」
メガネをクイと上げながら、彼もまた少し恥ずかしそうに笑う。それから左手に持った入部届を俺達の眼前へヒラリと向けると、彼は少し羨ましそうな声音で言った。
「うーん、二人は一緒の学部かぁ。僕は法学部だから、授業はあまり重ならないかもね」
「ま、一般教養とかでは会えるだろ。なになにえーと櫻木……なぁ、この文字はケイで合ってるのか?」
「うん。これでケイトって読むんだ。よろしく」
そう言った彼の入部届には、俺とは正反対に端正な字で『櫻木珪人』の文字が刻まれていた。
**
「ふー、食った食った。酢豚にパイナップルが入ってる以外は完璧の店だったな、食い過ぎてちょっと気持ちわりーや。天海、ごっそさん」
「食われた食われた……ねぇ、頼むから吐かないでよ。勿体ないから」
居酒屋の暖簾を抜けながら天海を振り返ると、天海はしょぼくれた顔でバカ長いレシートを広げていた。身なりから勝手にどこぞのボンボンと推測していたがどうやら違ったらしい。財布の余裕はそこまで俺達と変わらないらしかった。
「天海くん、ご馳走様。しかし、意外と年齢確認ってされな――」
「オイオイオイ櫻木やめとけ。俺達が飲んだのはただのレモンソーダとウーロン茶だ。あと米の煮汁」
「最後だけ苦しくないかな……あ、ところでさ」
なんやかんやこいつが一番食っていたような気のする櫻木は、しかし俺とは裏腹にケロッとした態度で笑う。こいつさっき少なくともモツ鍋一人で全部平らげてたんだよな、などと関係ないことを脳内で考えている俺をよそに、櫻木は天海へと訊ねた。
「話を掘り返すようで悪いけど。サムターン錠のトリックの重りって、結局何使ってたのかなって」
「えぇ、そんな見せびらかすもんじゃないけどな」
「言われてみれば、俺もちょっと気になるな」
「まぁ、どうしてもって言うならいいけど」
やけに勿体ぶる様子の天海に対し俺も櫻木の加勢に入ると、彼は少し恥ずかしそうにしながらポケットへと手を突っ込む。やはりそこに隠していたか、と頷く俺の目の前に、彼はゆっくりとブツを差し出した。
「これだよ、いつもは身につけてるんだけど。これを重りに使ったんだ」
「あぁ、やっぱりこれか……そのコーディネートなら、むしろ無いのはおかしいと思ったんだよな」
照れ混じりな天海の手からぶら下がるソレを紹介すると、櫻木は何故かとても腑に落ちた様子で頷く。その横で、俺だけが隠しきれない本音を漏らしていた。
「ダッッッッサ…………」
そこにあったのは、金色に光る馬鹿デカいチェーンピアスであった。