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べネンシアドール〜その恋が合意に至るまで〜

※お酒と恋は二十歳になってから

 カランとドアベルを鳴らして扉を開けば、ふんわりと木の樽の匂いが漂ってきた。


「いらっしゃいませ」


 照明を落とした店内で、カウンターの上に吊るされたピンライトの光を受けながら、壁面収納された色とりどりのガラス瓶達が煌めいている。


 その前に立つのは一人の男性。

 一枚板で探すの大変だったって嬉しそうに話してたカウンターに手をついて、こちらに接客用(ヨソイキ)の笑顔を向けている。

 相変わらずの童顔、恐れ入る。アレでわたしより十歳も年上だって言うんだから、詐欺もいいところだ。


「……お客様?」


 入り口でボンヤリし過ぎたのか、声が掛かる。

 それと同時に首を傾げる姿があざと可愛く見えるのは、なんとなく偏見だろうか?


「お一人ですか?」


 コクリと是を返せば、彼の目の前、カウンターの席を指された。

 カウンターには何人か先客がいたけど、木の板のいい感じにカーブしたところにある席は、他の人から距離が取れて、なんとなく一人で過ごしやすい席だった。


 席につけば、するりとコースターが置かれる。

 このバーのロゴ、なんだっけ? 一足先にココへ行ったらしいお姉ちゃんに聞いたんだよな。


 あぁ、確か。


「「ベネンシア……」へようこそ。バーは初めてですか?」


 わたしの呟きと同時に聞き覚えのあって、聞いたことのないヨソイキの声が落ちてきた。

 パッと視線を上げれば、白いシャツに黒いベスト、黒のギャルソンエプロンをつけた店員さん。いや、この場合マスターとでも呼んだ方がいいのかも。

 ……だってココは彼のお店だし。


「……ご注文は?」


 そう問われて困ってしまう。

 だってメニューも何もくれないし、最近行き慣れてきた安いチェーン店の居酒屋みたいに壁に何か貼ってる訳でもない。


 明らかに戸惑っていると、くすり……と小さな笑い声が聞こえてきて、ムッとしてしまう。


「まずは軽めの物で何かお作りしましょうか?」


 他人行儀に差し出された提案を、コクリと頷いて受け入れて。


 目の前に置かれたのは淡いオレンジ色のグラスだった。

 コクリと一口含めば、パッと柑橘の香りと……金木犀の華やかな香りが鼻を抜けていった。

 オレンジの甘さの中に、僅かなアルコールの苦味。

 だけどそれがイヤじゃなくて。


 二口、三口と傾けてからグラスを置けば、吐く息からふわりと秋の香りがした。

 チラリとマスターに視線を向ければ、カウンターに座る別のお客と話しながら、色々な作業をしていた。


 男らしい長い指が、グラスをくるりと返して。

 壁面収納を眺めて、曲線が美しいお酒の瓶を手に取って、愛おしげにラベルを撫でる指先に、トクリと鼓動が跳ねる。


 それを誤魔化すようにオレンジ色のお酒をクピリクピリと流し込んで。


 シェイカーを振る前に一度シャツの肩あたりを気にしたり、シェイカーを思い切り上下に振る時に動く背中の筋肉とか、そんな一つ一つの仕草が……あの時とは違うって突き付けてくる。

 ニコリと微笑んで接客する姿もやっぱり大人で。


 カウンターの向こうとこっち、どうしても縮まらない距離が……口惜しい。


 いつもいつも彼の背中ばかり見てきた。

 追いかけても追いかけても縮まらない距離に。

 彼の隣に立つ大人の女性達との距離だっていつまでも縮まらなくて。

 「もう少し大人になったらな」って、何度言われただろう。


 満を持して大人になったけど。

 やっぱり彼との距離は遠い。


 そんな現実を突き付けられて、じわりと目の奥が熱くなった瞬間。

 カラリとグラスの中の氷が融け落ちた。


 その音に気付いたのか、彼と話していた常連ぽい男性が話しかけてきた。


「お姉さん、ココ初めて来たの?」


 ニコニコと話しかけてくる相手に、下心は感じない。


「はい……。おねえ……じゃなくて姉に勧められて」


「そうなんだ。じゃあおじさんが初来店記念に一杯奢ってあげよう。マスター、彼女に何か好きなの飲ませてあげて」


「え? あ……そんな……」


 遠慮しようと慌ててると、彼がそっと人差し指を口にあててウィンクしてきた。

 ……なんだその仕草……って一瞬思ったけど、素直にご馳走になれって事かなと思ってコクリと頷く。

 その拍子に、グラスの水滴で僅かに滲んだお店のロゴが目に入った。


「じゃ、じゃあシェリーを」


「おっとお姉さん、それはいけない」


「へ?」


 何故か男性からストップが掛かる。

 何やらしたり顔で頷く男性と、微苦笑を浮かべるマスター。


「お姉さん、カクテル言葉って知ってる?

 なんか俺が若い頃流行ったやつなんだけどさぁ。

 んで、それで女の子がシェリー頼むと『今夜は貴方といたい』みたいなお誘いの言葉になるんだって。

 って、今の子は知らないか〜」


 くひっと笑う男性に悪意の色はない。

 だけど、そんな事を聞いて、そのままシェリー酒を頼むのもなんだか気まずい。

 どうしたもんかと曖昧に微笑んでいると……。


「シェリーで構わないのでしたら、せっかくですので『ベネンシア』でご用意しますよ?」


 マスターがふらりと壁に近づいて、長い棒のような物を手に取った。

 一メートルにも満たない長さの棒の先に、小さなカップが付いていて、まるで柄の長い柄杓みたいなソレをくるりと回す。


「これは『ベネンシア』と呼ばれていて、本来の用途はシェリー酒を樽から汲み出すのに使う物なんです」


 お、久々だねぇと盛り上がり始めるおじさん達。


「この先に付いたカップにシェリー酒を入れて、高い位置からグラスに注ぐと、シェリー酒の香りが立っていいんですよ。

 元々は輸入時の試飲用だったらしいですが……。これを使ってシェリー酒を注ぐ人の事を『ベネンシアドール』って言って、試験に合格しないと名乗れないんですよ」


 滑らかな動きでベネンシアのカップとは正反対に位置する鉤状になってる部分に指をかけて、反対の手でコロンと丸いグラスを手に取って……。


「おー、流石だねぇ」


 おじさん達が感嘆の声を上げる中、ベネンシアはくるりと弧を描いて、カップから銀糸のように落ちていく液体がグラスの中に吸い込まれていく。

 樽の匂いとフルーティーな香りが交じった物が、パッと周囲に広がって。


「どうぞ」


 気付けば目の前には薄いレモン色の液体が入ったグラスが在った。


「いただきます」


 おじさんに一礼してグラスに口をつける。


 ふわりと花を抜ける果実のような香りとは裏腹に、喉を通り抜けていくのは、普段より高いアルコールで。

 じわりとお腹の中が熱くなる。

 コクリコクリと喉を通って、くらりくらりと揺れる思考に身を任せて……。


 気付けば店に二人っきりだった。


「……ベネンシアの語源は……『AVENENCIA(アベンシア)』、日本語で協定や合意という意味らしい」


 一枚板の木目をボンヤリと指先でなぞっていたら、何故かエプロンを外したマスターが隣に立っていた。


「ふうん……」


 ポヤポヤとした思考は、なんとも覚束なくて。


「お前が二十歳になるまで手を出さないっていう、()()()()()()()()は、破棄された」


 二十歳になったよな? と改めて聞かれて、コクンと頷く。


「だったらあとはお前の()()だけだ」


 ピンライトの光を背に受けて、マスターの顔が影になる。

 だけど、キラリと光る目が真っ直ぐわたしだけを見ているのがわかるから……。


「約束守ってよ。恭おにいちゃん。わたしが二十歳になったら、お嫁さんにしてくれるんでしょ?」


「……何もこんな十も年の離れたオッサンにわざわざ捕まりに来なくてもなぁ」


 そう言いながらも、スツールから落ちそうになったわたしを抱き止めて、抱き締めてくれたから……。


 わたしは安心して……意識を手放した。


「くっそ! ココにきて生殺しかよっ。

 あぁ、いいさ。これだけ待ったんだ。あと少しくらい……な……」

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