恋した人の奥様は、涙色をしている
下層市民に生まれつき、生真面目さと努力だけで生きてきたジョゼ。苦学生として大学を卒業し、安定した職にもついた。替えが利く社会の歯車のひとつとして穏便な生活を送っていたジョゼの元へ、学友のエロディがある提案を持ちかける。
「甥の家庭教師を、ジョゼにお願いできないかと思って」
それはランドロー子爵家の子息のことであり、第三身分のジョゼには分不相応な話であった。恐れつつも断りきれず、ジョゼはその職に就くことになる。
ランドロー子爵家現当主であるロイク氏は、数年前に妻を亡くし心を閉ざしていた。ジョゼは子爵子息であり生徒でもあるアンリが、父のことを恋しく思いつつも近づけずにいる状況を歯がゆく思い、ロイク氏との親子仲を取り持つために陰ながら奮闘する。そうした中、ジョゼはロイク氏の素顔に触れることになる。
そして、あるとき気づいてしまった。
自分は、ロイク氏を愛してしまったと。
生まれた瞬間に泣いた記憶を持っている。そう言うと誰もが軽く鼻で笑うが、わたしの最古の記憶は言葉のない驚きと悲しみだった。温かく、暗く優しい羊水の中から現実へと引き出された瞬間、それは自分にとって辛い経験になると理解した。肌に触れ、肺を膨らませた空気。そして目蓋越しですらわかる光。それらの刺激にわたしは泣いたのだ。この世のすべてから守ってくれていた場所から、追放された事実を嘆いて。
幼い頃から自分の歩む道が優しくはなく険しいだろうと理解していたし、その考えは今でも変わらない。言い訳するつもりはないが、そのゆえにわたしはいくらか内向的な性格になったのだと思う。自己主張は苦手だし、できるなら目立ちたくはない。そして、そんな生き方をしてきた。それが偽りのない等身大の自分であったから、特に問題も感じていない。
努力をするのは好きだった。誰からも褒められずとも、自分にはその結果がわかるから。良い結果が出るとそれを褒めてくれる人はいる。しかしそれは動機にはならなかった。良いも悪いも、どちらであっても結果なのに、片方だけが称賛される理由がわからないのだ。
わたしのこの考え方はそれなりに特殊であるらしい。おもしろがってくれる人も少しはいた。そんな一握りの友人と職場がわたしの生活だった。
「ジョゼ。お願いがあるのよ」
仕事帰りに立ち寄るよう言われていた友人宅。招じられ茶を出されるなり、学生時代からの知己であるエロディが魅力的な上目遣いでわたしへ告げた。こう言うとわたしが断らないと知っているからだ。
彼女はわたしとは違い華やかで女性らしい特性を持った人だ。憧れとはまた違う気持ちで、わたしは彼女をとても良いと感じている。そして彼女もわたしを良いと言ってくれている。互いに姉妹を持っていないが、そんな気分でいた。ちぐはぐで奇妙な友情だが、わたしたちは長く親友と呼べる間柄だ。
「なにかしら、エロディ」
「あなた、転職を考えてはいなくて?」
「特に考えていないわ。どうして?」
「あのね、甥の家庭教師を探しているの。ジョゼにお願いできないかと思って」
「まあ、なにを言うかと思えば」
わたしは静かに首を振った。エロディの御母堂は子爵家から商家へ嫁いで市井に下った方だ。彼女が言うところの甥とは、その生家へ属する人間に他ならない。
「わたしが貴族家の子を教えるだなんて。できるわけがないのはわかるでしょう」
「そんな事はないわ。ジョゼはいつだって一番の成績だったじゃない」
「問題点は、そこじゃないわよ」
「そこよ! 賢い女性を探しているのだもの」
「わたしは、本当にただの庶民よ。知っているでしょう」
エロディはわざと話を核心から逸らそうとしている。それはいつもより大きな身振り手振りでわかった。こんなときの彼女は、なにかわたしには言えない悪巧みをしているのだ。わたしは丁重にお断りした。なんと言われようと、下層市民に生まれついたわたしには、貴族家に仕えるだけの教養はない。この友情ですら不相応だと思っているのに。エロディは口をとがらせる。
「ジョゼさん、わたくしからもお願いできないかしら」
ノックの後に部屋へ入ってきた、優しげな女声にそう言われる。エロディの母、ランドロー子爵家御出身のレティシア様だ。貴族籍を失ったとは言えその品はまるで損なわれず、かえって鬱屈のない伸びやかな美しさを増している。
「小母様、でも、それでは……」
「あなたがなにを不安に思うか、わかっておりましてよ。けれどね、考えてみてほしいの。わたくしの兄は、エロディをかわいがってくれているのよ」
わたしは友人の顔を見た。得意げなその翠の瞳は、わたしのくすんだ榛色の瞳とは違って好奇心と活力に溢れている。育ちの良さを感じさせるとはいえ、エロディは貴族としての教育を受けていない。本人にその気持ちもない。
学生時代はランドロー家とのつながりを求めて彼女へ近づく者が後を絶たなかったが、それらを自分で蹴散らしていたエロディの勇姿は語り草だ。わかってはいる。求められているのは、そうした対外的なものではないのだろう。わたしは口実を探しつつ言う。
「今の仕事に満足しております」
「そうでしょう。あなたが不満を言うところを見たことがありませんもの」
レティシア小母様はわたしの元まで来て手を取り、膝を着かれた。驚いてわたしは立ち上がってほしいと懇願する。レティシア小母様はエロディに似た表情でわたしへと言った。
「ですので、これはお願いなのです。ジョゼさんのお人柄を見込んでの。わたくしのお願いを、聞いてくださらない?」
参ってしまって、わたしは言葉を失った。しばらくの後、わたしは現職を暇乞う期間を述べる。レティシア小母様とエロディは、そっくりな笑顔を浮かべた。
退職の願いはあっさりと聞き入れられた。それなりに貢献していたとは思うが、所詮わたしも替えが利く人間のひとりなのだろう。引き継ぎをし、私物を片付けたら終わり。上長から次職を尋ねられ、素直に家庭教師と答えた。
「そんな、長くは続けられない職に着いてどうするつもりだ。もううちでは雇ってやれないからな」
円満退職だと思っていたが、そうでもなかったらしい。
初顔合わせは週末だった。エロディが笑顔でわたしの腕を取り連行して行く。お貴族様のお屋敷に行くなど気が気でないわたしの、逃げたい気持ちを察してだろう。レティシア小母様の指示により、服装は極めて飾り気なくおとなしくしていた。それはわたしの常であったからほっとしたのは言うまでもない。
「伯父様、おひさしゅうございます」
「先週顔を見たばかりだが」
「それだけ恋しく思っておりました」
執事に先導され招じ入れられた部屋で待っていたのは、白髪が交じる褐色の髪を短く刈り上げ整えた、壮年の紳士だった。白いシャツにクラバット、それに金糸雀色の刺繍がされた焦げ茶のベスト。揃いのスラックス。エロディと同じ翠の瞳で、けれど受ける印象は鋭くまるで違う。ロイク・ランドロー子爵御本人だろう。
子爵はエロディへ両手を広げた。エロディはためらう素振りすら見せずにその腕の中へ飛び込む。
「伯父様、わたしの自慢の友人を紹介させてくださいね?」
「私がおまえの頼みを、断れないのを知っているな?」
「もちろんです。ジョゼ・ポワソンよ。この世で一番賢い女性なの」
エロディの紹介の言葉になんと言っていいか途方に暮れつつ、わたしは頭を下げた。じっと値踏みの視線を感じるが、背を正して立ち目を伏せる。ランドロー子爵は静かに「なるほど。おまえが言うならそうなのだろう」と言った。
貴族的行儀作法の手習いは、大学で申し訳程度に受けはした。だからといって実践でそれを再現できるわけでもない。エロディは事も無げにわたしをテーブル席に着かせ、メイドが茶を用意する。手を着けていいのか迷い、エロディの振る舞いに準じた。
「で、ポワソン嬢を連れてきたのはどういうわけだ」
「ジョゼをアンリの家庭教師にしてちょうだい」
「それが狙いか」
ランドロー子爵はひと言そう吐き捨てた。わたしは驚いてしまったが、エロディはその反応を想定していたのか、かわいらしく首を傾げて大仰に「まあ、なんて言い草でしょう」と言った。
「また、ねずみを飼えと言うのか」
「伯父様、わたしの友人を、そこいらのあばずれといっしょにしないで」
鋭い声色の子爵へ、エロディは臆せず即答する。子爵はわたしをじっとご覧になりながら口先で詫びる。わたしはなにがなにやら、とりあえず自分が歓迎されていない事実は理解し席を立とうとした。それをエロディは片手で制した。
「このままでは、アンリがかわいそうです」
批難を含んだ声色でエロディは言った。子の名前を出されると弱いのか、子爵は少しだけ視線を逸らす。そのときノックがあった。子爵の誰何とともに少しだけ扉が開き、そこから小さな頭が覗く。
「父さま。ぼくの先生がきたの?」
子爵が応じるよりも早くエロディがその言葉を肯定した。子爵と同じ髪色の少年は、そっと入室して扉を閉める。そしてわたしへとうれしそうな視線を向ける。
「アンリ・ランドローです。よろしくおねがいいたします」
このような場合どうすればいいのだろう。板挟みの状況ながら、わたしは席から立ち上がってそのあいさつに応えた。名乗りをいただいて、返さぬわけにはいかない。子爵ははっきりと聞こえるため息をついた。エロディが美しい笑みを浮かべた。
そして、なし崩し的にわたしはランドロー子爵家に雇用される。日を改めてひとりで屋敷に赴くと、契約書類は整えてあった。話に聞くとこれまで幾人も家庭教師が雇われ、解雇されて来たとのことだ。わたしは不安を覚えた。子爵と同じ年頃の家令男性へその理由を尋ねる。彼はわたしの目をじっと見てから言った。
「あなたは、だいじょうぶでしょう。他でもないレティシア様のお眼鏡に適ったのですから。心配すべき事態は起こらないと信じています」
その言葉はわたしの不安を解消してくれはしなかった。一方的に信頼を寄せてもらっても、わたしはどうすればいいのだろう。
結論から言うと、多くの時を経てわたしはその信頼を損なった。
アンリ様は愛らしい少年で、わたしによく懐いてくれた。なのでわたしはじきにこの仕事を愛するようになったし、精一杯に勤め上げた。その末に選んだのは、退職だった。
わたしは、過信してしまったのだ。自分自身を。
季節が二巡して……わたしは二十六になった。密かに作っていた後任の方への引き継ぎ資料を、与えられた居室の机に残す。そして、その上に退職の意向を記した詫び状。
住んでいた家は退去した。遠くへ行こうと思い、汽車の乗車券は買ってある。いつもと同じようにわたしは退勤する。そしてもう二度とこの屋敷には来ない。
わたしは、愛してしまったのだ。雇用主を。卑賤の身でありながら。
他でもない、ランドロー子爵、その人を。