calmato e appassionato
初恋の記憶は、苦く、痛く。
小学生の添島幸希は、母親よりも年上のピアノ講師・酒井美奈代に焦がれるような恋をする。
憧れは恋慕に。
恋慕は欲情に。
少しずつ変わりゆく心は、ある雨の日をきっかけに決定的な変化を迎えて、そして。
僕の初恋は、小学校に入って間もない頃に習い始めたピアノの先生だった。母から言われて仕方なく入ったのが先生の個人教室で、たぶん一目惚れだったのだと思う。
『こんにちは、はじめまして!』
花のような甘い香りに、天からの祝福を思わせるような美しい声。昼下がりの淡い日差しのように朗らかな笑顔。
出会った瞬間に、世界に色が増えた。
それは人生で初めて味わう感覚で、後にも先にもあれほど鮮烈な出会いを知らない。僕はそれくらい、ただ微笑んで挨拶してくれただけの先生に心を奪われてしまっていた。
酒井美奈代先生。
浮気性だったという父と離婚してからひとりで僕を育ててくれた母や学校の先生を除いて、僕が初めて知り合った大人の女性。
背は低いけど背筋が伸びているからかどこかスラッとした雰囲気のある人で、それでいて笑顔は朗らかで可愛らしい。いつも優しいけれど手本としてピアノを弾いて見せてくれているときの目には、夜空に輝く一等星のような輝きがあって、格好いいとも感じることがあった。
ハーフアップに纏められた亜麻色の髪は、先生の一挙手一投足ごとに揺れる様が絹糸のように滑らかで。ピアノを弾く指は同級生と比べると少し骨張って硬そうなのに、白魚という比喩がこれ以上内ほど当てはまるくらいに美しくて、しなやかだった。
一目で惹かれて、時間いっぱい教われば忘れられなくなって。週に二、三度も会えば今度は会えない時間が途方もなく長くなった。
いつもならそんな風に感じたりしないのに、時間が僕に意地悪しているようにさえ感じてしまう。どうにかして面影を探してしまうせいで、学校のピアノを見たり、先生の名前に使われている漢字を国語の授業で見かけたりするたびに、胸が熱くなるのを感じたものだった。
先生と出会ってからの世界はとても色鮮やかだけど、その鮮やかさは会えない時間さえも鮮明に彩ってしまって、苦しいことすらあった。母にせがんで先生のマンションまで連れていってもらうこともあったけど、いつも忙しくしている母には頼めない日も多くて。ピアノの時間以外は、切なさと胸の痛みとがせめぎ合う時間でもあった。
だから、いつかお願いしたことがあった。
『先生とまいにち会いたいな』
『ママが連れてきてるのじゃ足りないの? ほんとに幸希は美奈代先生のこと好きなんだから~』
母は呆れ半分、茶化し半分といった様子で笑っていた。母の手前、素直にそうだと言うのもなんとなく気恥ずかしかったけど、たとえ嘘でも先生への好意を否定するのも嫌で黙りこくってしまった僕に、先生はころころと愛らしい声で『先生は嬉しいよ?』と笑いかけてくれて。
先生は覚えているだろうか?
あの言葉は僕にとって、褪せることのない宝物だ。
言葉も、笑顔も、そのときの胸の高鳴りも。
忘れるはずのない──仮に忘れようとしたって忘れられるわけがない──ものだった。
その言葉に甘えるように、僕はしょっちゅう先生の家に通った。風が強い日も、多少の雨が降っている日も、友人に誘われて入ったコーナー攻めクラブの活動で少し遅くなった日も通っていた。時々他の生徒の姿があったりするとなんとなく胸がモヤモヤしたけど、そういう姿を見せないくらいの意地はあった。
『幸希くん、来てくれたんだ。こんにちは!』
どんな日に訪ねても、先生はそう朗らかに笑ってくれた。いつも何かしらの飲み物を出してくれたりして、生徒の指導をしていないときには僕と一緒の時間を過ごしてくれた。
ふたりでいるときは、専ら僕がいろいろな話を先生に聞かせるばかりだった。聞き上手な方がいいと聞くからそういう風になりたいとは思っているけど、先生と会えると思うと楽しみすぎて、話したいことばかりになってしまう。
先生も、僕のとりとめのない話を楽しそうに聞いてくれた。きっと先生にはわからないような話もあっただろうに、すごく興味を持ったような素振りで相槌を打ってくれて、話していてとても気持ちがよくて。
だから、僕はどんどん先生に夢中になって。
そういう欲望が首をもたげ始めたのは、そんな頃だった。
僕に限らず、誰しも訪れる思春期。
同級生たちが誰がいい、あいつがいい、そいつはエロいだのと品評会で盛り上がるなか、僕はどうしてもその輪には入りきれなかった。
もちろん、友人たちがその手の話をしていたら僕も相槌くらいは打つが、そういう話をしているとき、僕の頭は先生でいっぱいだった。
美奈代先生は、たぶん僕よりずいぶん──ひょっとしたら母よりも──年上だ。顔は綺麗で可愛らしいし、声だって信じられないくらいに綺麗だ。テレビで見る女優とかと比べたって、先生の方がずっと魅力的に感じる。
だけど、ピアノを弾くときの少し骨張った手や、遊びに行ったときにたまに見かける物憂げな表情は、いくら大人でも若い女の人とは何かが違うと子ども心に思った。
母に茶化されないように隠れて観た恋愛ドラマでも、深夜にテレビ放送された昔のラブロマンス映画でも、友人が自慢げにスマホで見せてきた大人向けの動画でも、つい僕と先生を重ねてしまう。
そんなの駄目だと思ってすぐに打ち消そうとするけど、それで消えてくれるときもあれば、なかなか振り払えないときもあって。
時々、先生への罪悪感が胸を締め付けることもあったけど、それでも想像も空想も妄想も、やめられそうになかった。
そうやって迎えた、6年生の夏。
夏休みが過ぎても夏は続き、まだ蒸し暑い日。晴れていたと思っていたら急に雲が空にせり出して、あっという間に濡れ鼠になってしまった僕は、先生の部屋に向かう前に少しでも体の水気を取っておこうと、近くのコンビニでタオルだけ買った。
エントランスでサッと体を拭いてから先生の部屋に向かおうとしたとき、オートロックがすぐに開かなかったのは気になっていた。
インターホン越しの『どうぞー』という声がいつもより硬かったことにも気付いていた。
予感は、すぐに的中していたことがわかった。
僕を部屋に迎えてくれた先生の目元は、赤くなっていた。
「先生」
「すごい濡れちゃってるよ、幸希くん。大丈夫、風邪引かないでね?」
先生の笑顔は、なんとなく弱々しく見えた。
夕立のなかで掻き消えてしまいそうな先生を繋ぎ止めたくて、そして先生にそんな顔をさせている“原因”に対する微かな敵対心に足元を燃やされたような感覚のなかで、先生に呼びかける。
「先生」
「────、」
たぶん、先生にも僕が何を思っているのか朧気にでも伝わったのだろう。どうにか繕っていたいつも通りの笑顔は忽ち翳って、「ごめんね、心配かけて」と困ったような笑顔に変わる。
「ちょっといろいろ悩んじゃってて……、そんなに大したことじゃないんだけどね。ほんとね、どうしちゃったんだろうね」
「先生がそんな風に言うことないよ」
気付いたら、口をついて出ていた。
僕は、知ってるんだ。
先生が時々、寂しそうに窓の外を見ていること。
そんなときは決まって、カレンダーの日付に真新しいバツ印がついていること。
左手の薬指に付けられている指輪のこと。
たまたま外で見かけた先生が、いかにも不誠実そうな近い年頃の男性ととても幸せそうに歩いていたこと。
きっと何かがあったんだ。
そう確信して、僕は言葉を続ける。
「僕なら、先生にそんな顔させないよ」
陳腐な恋愛ドラマの台詞。
恋愛小説によくある言葉。
どこにでもありそうな話。
だけど、それを使ってでも、僕は。
「美奈代先生。僕は、先生のことが好きです。本気で、本当に誰よりも好きで……だから、そんな先生には悲しそうにしててほしくない……、だから、」
「…………、」
僕を見る先生の顔は、縋るように濡れて、揺れているように見えた。いつの間にか僕の方が背の高くなっていた先生のそんな姿を、僕はただ見ているだけなんてできなかった。
気付けば唇が重なっていた。
鼻を通る甘い香りに、少しだけ乾いた唇。密着した体から伝わる熱と、互いの洋服を挟んでいるもどかしさ。
漏れる吐息。
微かに触れ合った舌先。
そして、いつになく弱っていた先生の心。
きっと、僕らの関係を変えるきっかけは、その瞬間無限に押し寄せていた。
「はぁ────、」
そう息を漏らしたのは、どちらだったろう。
背中に感じる絨毯の柔らかい毛並み。
鼓動よりも速く窓を叩く雨音。
静かなようで騒がしいエアコンの風。
湿っぽく熱を帯びた、夏の名残。
それらに包まれた僕の視界いっぱいに、初めて見る先生がいた。濡れた瞳で僕を見下ろしながら、細身で艶やかな体を晒す姿は、今までしたどんな想像よりも現実味がなくて、どんな空想よりも熱っぽくて。
重なる肌。
絡まる舌。
交わる吐息。
繋がる汗。
漏れ聞こえる声。
そのどれもが、紛れもない現実だった。
何かを振り払うように、藻掻くように体を揺らす先生を見上げながら、ただひたすらに何かが高まっていく感覚に怯える気持ちと、この時間が永遠に続けばいいと思う気持ちと。
先生が時折漏らす聞いたことのない声が、耳を艶かしく包み込む。
想像より痩せていて確かな老いを感じさせるのに綺麗な体に、溺れそうになる。
心地よい息苦しさに責め立てられて、僕らは互いに酸素を求めるように唇を貪り合った。先生の舌にしか僕の空気がないみたいに、僕の舌にしか先生の空気がないみたいに。
先生の甘い香りが僕に移ってくる。
僕が外でかいた汗が先生に塗りつけられる。
ふたりの距離はこんなにも近くて、ふたりの違いらきっと世界のどこにもなくて、この瞬間の僕たちは誰よりもお互いの全てを知っていて。
そんな時間は、世界が明滅するような激しい感覚と強烈な脱力感と共に終わる。浅い息をつく僕の胸に倒れかかってきた先生の顔は、よく見えなくて。
「ごめんね。ごめんなさい、幸希くん」
薄闇のなか、先生の小さな嗚咽だけが確かで。
その震える肩を抱き締める体力すら、僕には残されていなかった。
先生がピアノ教室を閉めたのは、それからすぐのことだった。