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目の前の危機が去ったことでカティアの緊張の糸が切れた
震えていた膝をついて荒い息を吐く
冷や汗が頬を伝っているのを見るに、結構ギリギリだったみたいだ
「すまない、遅くなった」
そう言って手を差し出すジグ
カティアはまだ立てそうにないので地面に座り込んで手を振ってそれを断る
「いいよ別に。一人で進むって決めたのはアタシだからな。あんたは自分の仕事を十分果たしてくれたよ」
当初ジグに求めていた役割を考えれば過剰すぎるぐらいだろう
自分の都合で動かせる便利な用心棒程度に思って雇ったが、良くも悪くも彼が及ぼした影響は大きい
今後のことを含め色々と考えなければいけないことはあるが、ジグがいるならば身の安全は保障されたと判断しても良いだろう
そう思えるくらいには、カティアはジグを信用していた
現金なもので、それを理解した途端に膝の震えは収まっていた
体は正直だねえ、などとオヤジ臭いことを考えながら身を起こすとジグの持っている腕が目に入る
先ほどまで自分を追い詰めて脅威を感じていたその腕、今となっては哀愁すら漂わせ……いや、やはりグロテスクなだけだった
「なあ、その腕いつまで持ってるんだ?」
「……もぎたてだぞ?」
「いや意味分からねえよ怖えよ。元あったとこに返してこい」
げんなりした顔でカティアが言うのでジグは倒れているジャイコフを見た
彼は意識を失ったままだが、苦しげな表情で何もない右肩回りを左手がまさぐっている
ジグはそっとその手に右腕を握らせてやった
左手は右手をまるで恋人のように指を絡ませて掴むと決して離さないように強く力を込めた
すると苦し気な彼の表情が安らいだように緩む
ジグはその光景を見て満足げに一つ頷いた
カティアと応急手当をするマフィアたちはドン引きだった
「あー……それよりも、思っていたより早いな。どうやってあの三人を撒いたんだ?」
「目的地の方向はバレていたし逃げるのは難しかったからな。撤退を選ばせる程度の損害を与えた」
そう言って銀棍を見せるジグ
よく見れば彼自身も傷だらけで激戦だったのだろうことを思わせる
「アタシよりかよっぽど重傷じゃねえかよ。誰か手の空いてる奴を…………ん?いや待て」
手の空いてそうな部下を呼んで怪我の治療をさせようとした途中、聞き逃せない言葉に待ったを掛ける
聞き間違いではない
ジグは撒いたではなく、退かせたと言った
「まさか、勝ったのか?あの三人相手に?」
「増援に尻尾まいて逃げてきたのを勝利と言っていいのなら、な。……せっかく買ってもらった胸当てなんだがな、もう壊してしまった」
少しばつが悪そうに視線を逸らすジグ
「……ふふ、……はっはっは!そうかよ!」
戦果を誇るよりも心配するのが経費や装備の事なのがカティアのツボに入ったようだ
ひとしきり笑った後に気合を入れて立ち上がると周囲を見渡す
戦闘は終わりを迎えていた
アグリエーシャの構成員はほぼすべてが捕えられるか殺されるかしている
カティアを見つけたアルバーノが歩いてくる
「お嬢、ご無事で何よりです」
「御苦労だったなアルバ。状況は?」
「死者四、重傷者十です」
「そうか……」
死人が出たことを聞いたカティアが目を細めた
マフィアをやっている以上死人が出たくらいで大騒ぎはしない
だが身内を守れなかったのは自分たちの力不足が原因によるものだ
カティアは言葉に出さずにそれを死者たちに詫びた
数秒黙祷した後に顔を上げると指示を出す
「アルバ、アグリエーシャの幹部を生け捕りにした。死なないように治療してヴァンノに引き渡してやれ」
「了解です」
アルバーノは部下を呼びつけ指示を出す
彼らに運ばれていくジャイコフ
楽には死ねない、どころの話ではない目にこれから遭うであろう彼をジグが見送る
しかしそれもまた奴の選んだ生き方だ
自分も選択を誤れば奴とそう変わらない最後が待っているだろう
とはいえ後は消化試合の様なものだ
街を侵そうとした敵対組織は退けた
これからまたアグリエーシャが手を出すかどうかは分からないが、手口が分かった以上その時は対策も十分に立てていることだろう
今回はマフィア側の不始末のせいもありギルドを頼れなかったが、次は冒険者たちを矢面に立たせることができる
確かにあのドラッグは危険でアグリエーシャにも強者がいることは分かった
しかし上級の冒険業ならば対抗できる
直接的な暴力をギルドが防ぎ、薬の蔓延にはマフィアが目を光らせればこの街をとり込むのは困難だろう
(なるほどな。これがこの街の防衛機構か)
マフィアは必要悪
そんなことをのたまうつもりはない
彼らは間違いなく悪党で、一般市民からすれば害そのものだ
しかし彼らがいないと横に繋がりのない小悪党が無数に湧いて出る
種類も数も豊富な小悪党たちは無秩序かつ無軌道で、対処するのにとても手間と時間がかかる
そうなるくらいならば対処のノウハウがあり繋がりも面子もあるマフィアの方がまだマシということだ
ジグは指示を出しているカティアの後ろに立ち万が一に備えて周囲を警戒している
すると同じように指示を出していたヴァンノが近づいてきた
「いやぁ何とか片付きましたな、お嬢」
「お前がカンタレラのタヌキ爺を説得してくれたからな。後処理は奴らに任せていいんだろう?」
「それぐらいは任せてやらねえとあちらさんの顔が立たねえってもんです」
そう言ってくっくと笑うヴァンノ
美味しいところは頂きつつ面倒な後処理を相手の面子と称して押し付けるその手腕は頼もしくも恐ろしい
「そっちもご苦労様、ジィンスゥ・ヤの達人さん。見てたよ。大した腕前だな」
「どうも」
こちらの労いに軽く応えた白髪女剣士
その視線がジグを追っていることにカティアが気づいた
傭兵とジィンスゥ・ヤに何の繋がりがあるのか不思議に思い肩越しに尋ねる
「知り合いか?」
「……冒険者の間では有名人だからな、彼女は。俺の依頼人が世話になったこともある」
「ああ、そういえば普段は冒険者の護衛をしているんだったけか?」
あまり深く突っ込まれると困るのだが、知らないふりをしようにもイサナの態度的に難しい
当たり障りのないことを言っておこう
二人のやり取りを見ていたイサナが呆れたようにため息をつく
「今度はマフィアの依頼?あなた本当に節操ないわね……」
(おい)
しかしあまりこの手のやり取りに慣れていないイサナが迂闊なことを言ってしまう
カティアはまだいいが、油断ならぬ人物がここには一人いるというのに
「ほう!普段からそんなにいろんなところから仕事が来ているんですなぁ……さっきのも見ていましたが、随分と腕が立つようで?」
ヴァンノが嬉々として食いついて来た
イサナが自身の失言に気づいたように顔を引きつらせるが、もう遅い
彼はいつものように粘ついた笑みを浮かべながらジグを舐め回すように観察する
「しかしイサナ嬢にまで節操無しと言われるとは、一体どんなとこから受けているんでしょうなぁ……」
「あんたは?」
ジグは努めて普段通りの声音で聞き返す
腹芸はあまり得意ではない
ヴァンノのように化かし合いに長けた人間に通用するとは思えないが、それでも一応しらを切る
「こりゃあ失敬。ワシはヴァンノ言うモンですわ。今回のドラッグ騒ぎに当たってバザルタの指揮をとらせてもらっとります」
そう言って慇懃に頭を下げて見せる
一見腰が低いようでいて、その実こちらのあらゆる動作から情報を得ようとしているのが分かる
非常に厄介なタイプだ
顔を上げたヴァンノが「それで、」と続ける
「随分手広くやっているようですが……もしかして、ジィンスゥ・ヤの依頼も受けていたりとか?」
ヴァンノの纏う空気が変わる
探るような気配がより強く、口調こそ穏やかだがまるで詰問されているかのような錯覚を覚える
下手な話術などなくともそれだけで並の人間ならばボロを出してしまうだろう
「……さてな。仮に受けていたとしても、依頼人のことは言い触らさない主義でね」
しかしジグは並の人間ではない
口でのやり取りこそ得意ではないかもしれないが、いくら圧力を掛けられようとその表情が崩れることはなかった
「あー、いやこれは失礼した。確かに、ウチとしても今回のことを表沙汰にされるのは不味いですからな。口の堅い人は大歓迎」
流石、慣れてらっしゃる
そう含みを持たせて意味ありげにこちらを見る
「……まあな。この手の仕事は大抵そうだ」
何とか誤魔化せたか
そう思いジグが内心でホッと息をついた
その一瞬の気の緩みをヴァンノは見逃さなかった
「しかし、驚かれないんですなぁ……ウチとジィンスゥ・ヤが仲良くしていることに」
「っ……」
(やられた)
この街の人間にとってジィンスゥ・ヤとマフィアの折り合いの悪さは有名だ
過去に大規模な抗争を起こしたこともある
その両者が手を組んでいるような光景を見て何の違和感も抱かないというのはおかしい
声にも、表情にも出さなかった
しかしほんの一瞬だけ返答が遅れた
ヴァンノのような男にはそれだけで十分だったのだろう
「なぁるほど、ね……色々と繋がってきましたなぁ?」
「……チッ」
ニタニタと笑うその顔が粘度を増す
舌打ちをするジグの視界の端でイサナが申し訳なさそうにこちらを見ているのが分かった
これまでジグはボロをほとんど出していない
ヴァンノもジグのことを不審に思いつつもそこまで思い至ってはいなかったが、イサナと知り合いだというのが点と点を結んでしまった結果というわけだ
やはり本職には敵わないな
内心で言い訳のように呟きながらため息をついた