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二つに分かたれたマカールの死体が倒れる
その死相は恐怖に塗れていたが、彼が恐れを感じることは二度とない
「ッ!」
死体が倒れる音で真っ先に我に返ったジャイコフは懐から球状の何かを取り出すと足元に叩きつけた
鈍い音と共に弾けたその途端に黒い煙が立ち込めて彼の体を隠してしまう
「くそ、今時煙玉かよ!誰か、風起こせ!!」
煙の規模も小さく、すぐに魔術で突風が起こりその煙は晴らされてしまう
だがジャイコフはほんの一瞬だけでも視線が切れればそれでよかった
煙が収まった場所には彼の大弓が残っているだけだった
「何とかなりそうか……」
戦況は既にこちらへ大きく傾いていた
ジィンスゥ・ヤの助っ人を筆頭にバザルタの腕自慢が矢面に立ち敵を押し込んでいる
ドラッグの再生力と身体能力の向上は確かに厄介だ
しかし如何に常識外れの力を発揮したと言っても所詮は人間
力も生命力も強力な魔獣に人が敵うはずもない
そう考えてみれば理性を手放した人間など、低級の魔獣程度の脅威でしかないのだ
マカールやジャイコフのような元から強い人間が使えば理性もそれなりに残っているようだが
―――道具とは使うもので、使われるものではない。お前たちは危ないおもちゃを手にして喜んで使っているガキと同じだ。
(なるほどね……こういう事かよ)
以前にジグがマカールへ言い放った言葉の意味を理解した
あいつは挑発するためじゃなくて本当にそう思っていたって訳か
敵の主力であるマカールが倒れ、もう一人が逃げたことで勝敗は決したと言っていい
カティアは額の汗を拭うと緊張を少し緩めようとして思い直す
「……おっといけない。こうやって油断したから前に不覚を取ったのを忘れるところだった」
以前にドラッグ使用者と戦った時に手痛い失敗をしたのを思い出し、緩みそうになる気を引き締める
それが彼女の命を救った
「っ!?」
視界の隅に違和感
そう思った時には体が動いていた
咄嗟に下がったカティアの目の前数センチをダガーが横切る
黒く塗りつぶされたダガーは狙いを外し、近くにいた護衛のマフィアに刺さった
「ぎゃっ!」
悲鳴を上げた彼が腕を押さえる
そう腕だ
ダガーの軌道は首ではなく腕を狙ったものだった
殺しが目的ではない
「お嬢、下がってください!!」
そう考えを巡らせるカティアを異変に気付いた部下が庇うように前に出た
彼らに向かって何かが突っ込んでくる
魔術だろうか、黒い靄のような何かはかろうじて人型をしていると分かるくらいだ
ダガーを投げたと思しき襲撃者はこちらの護衛にひるむことなく進む
速い
「この……がぁ!?」
「ぐぁああ!」
黒い靄は瞬く間に距離を詰めると仲間の攻撃を躱して、お返しとばかりに反撃を飛ばしてくる
血を流し、地を這わされた彼らを踏み越えると靄はカティアに迫る
「……ッ、らぁ!」
下がるのは間に合いそうにないと判断したカティアが腰の短刀を抜いて斬りつける
靄はそれを受け止めると強引に押し込んできた
「くぅ……!!」
それに必死で抵抗していると、突然靄が消えた
蒼金剛を使った短刀が相手の魔術に触れてその制御を乱したためだ
「頑張るねえ。だけど俺も必死なんだわ!!」
「てめえは!」
至近距離で余裕のない笑みを浮かべるのは先ほど逃げたはずのジャイコフであった
(畜生が。旦那までやられちまった……上になんて報告すりゃあいいんだ)
ジャイコフは抗争の人ごみの間を縫うようにして走っていた
奥の手である欺瞞の魔術により、ぼんやりとした靄のように見えている彼は混乱に乗じて姿をくらませていたのだ
無論何かが通っていることには気づかれるが、戦闘中故に咄嗟に対応できない
しかしジャイコフは自分が未だ窮地を抜け出したとは思っていない
(威力偵察兼勢力拡大の足場づくり失敗……どころか幹部二人を失って何の成果もなくおめおめと逃げ帰って来たとあっちゃあ、立場より命の心配をしなきゃならねえ)
それだけは避けねばならない
何か、何かないか
自分の失態を少しでも好転させる何かが
(……見つけた)
そうして周囲を見回すジャイコフの目にカティアが止まった
ヴァンノとは別に抗争の指揮を執っている彼女はバザルタでも重要人物でありながら周囲には碌な護衛がいなかった
マフィアの中じゃ多少腕は立つがジャイコフからすれば大した相手ではない
降って湧いたチャンスにジャイコフの口端が緩む
自分の運はまだ尽きてはいない
アレを手土産にすれば、失態帳消しとまではいかずとも挽回の機会くらいは与えられるはず
使い方次第では大きな価値を持つ交渉材料になるだろう
(俺が組織でやっていくにはそれしかねえ)
組織から抜けることは最初から考えていない
今さら抜けたところで先は見えているし、何よりアグリエーシャは裏切りを許すほど温い組織ではない
どれだけ逃げようとも見つけ出し、血の制裁が下されるだろう
ジャイコフは隙を窺いながらダガーを抜くとカティアに向けて駆け出した
麻痺毒を塗ったダガーを腕めがけて投げつける
しかしなんと標的はそれを察知して回避したではないか
存外に勘が鋭い
そのまま抱えて連れ去るつもりだったが予定変更だ
邪魔者を蹴散らして強引に連れて行かせてもらおう
気づいたバザルタの護衛が立ち塞がるが、遅い
欠伸の出そうな速度の攻撃を避けると足を狙って斬りつける
止めを刺している暇はない
今は動けなくできればそれでいい
障害とも呼べないそれを踏み越え手を伸ばす
「らぁ!」
獲物が健気にも抵抗してきた
意外にも鋭い斬撃に驚いたが、その程度だ
受け止めると力で強引に押し込む
「お?」
何故か欺瞞の魔術が解除されてしまった
不思議に思い相手を見ると、手にする短刀が蒼みを帯びていることに気づいた
蒼金剛のナイフとは贅沢な
しかしいくら性能のいい武器を持っていようと扱うのが小娘では宝の持ち腐れというもの
膂力に任せて押し切ろうとするジャイコフに歯を食いしばり必死に耐えるカティア
「頑張るねえ。だけど俺も必死なんだわ!!」
「てめえは!」
欺瞞の術が解けてジャイコフの顔を見たカティアがその狙いを察する
先程のダガーはやはり外したのではなくこちらの動きを封じるためのものか
「させるかよぉ!!」
自分が捕えられれば組織にどれだけの不利益が出ることか
末端のいつでも切り捨てられる立場であればまだいい
だが自分のためであれば組織が……
足手纏いは御免だ
しかし悲しいかな、覚悟だけではどうにもならない力の差がある
「いい加減、諦めなよ!」
「うわっ!?ぐふっ……」
ジャイコフが組み合ったダガーを強く弾き上げる
押しとどめるのに必死だったカティアはそれに対応できずに両腕を跳ね上げられてしまった
ガラ空きの胴体へジャイコフの蹴りが突き刺さる
胃袋がひっくり返りそうになる錯覚を感じながら後ろに転がされた
「うっ……」
吐き気がこみあがってくるのを必死に堪えながらすぐに立ち上がる
腹部が熱い
ただの一撃で体が悲鳴を上げているのが分かる
だがそれでも、ここで捕まるわけには行かない
蹴り飛ばされながらも手放さなかった短刀を震える手で構えようと前を向く
「……あ」
その目前に既に振りかぶられたダガーが迫っていた
「悪いけど、抵抗するなら腕の一本は落とさせてもらうぜ?」
生きてさえいれば十分に交渉材料になるからなぁ
そう言いたげに歪められたジャイコフの口元
宣言通りダガーの軌道は左肩口から真っ直ぐに切り落とすものだった
追いつかない体
それでも目だけは背けまいとジャイコフを、その凶刃を睨みつける
だから、見逃さなかった
「ほう、気が合うな。俺もそう考えていたところだ」
ダガーがカティアの腕を切り落とす直前
声と共に横合いから伸ばされた手がジャイコフのダガーを持つ手を掴む
その手はジャイコフの力で勢いをつけた振り下ろしを腕一本で止めながらピクリとも動かない
のみならず逆方向へ押し戻し始めた
「へ?……ぃぎゃああああああああ!!!!」
腕は振り上げた位置まで行っても止まらず、そのまま関節の可動域を無視して一回転
当然、腕はそんな角度まで曲がるようには出来ていない
骨が砕けるのもお構いなしに回された腕はべきべきと鳴った後、すぐに肉と筋繊維が引き千切れるびちびちという音が混ざり始めた
一拍遅れて響き渡るジャイコフの常軌を逸した悲鳴
あまりの絶叫に周囲の目が一時的にこちらに向き、そして彼らは皆、驚愕のあまり動きを止めた
逃げたと思っていたジャイコフがいたことに?
否
自分たちの重要人物が襲われていたことに?
それも、違う
「ああぁぁぁ!腕、うでがぁぁああ!?」
ジグは一回転させた腕を強引に引き千切る
絞った雑巾のように捻じれた肩口から細長い糸のような物がまとめて引きずり出される
捩じ切ったため血管が絡んだせいか、意外にも血の量はそこまで多くはない
それでも穴の開いたバケツのようにぴゅーと血が飛びジグの頬を濡らした
まるで子供が虫の手足をもぎ取るが如く
先程のイサナの絶技とはまるで違う理由で彼らは動きを止めてしまう
静まった場でジャイコフの絶叫が響き続けていた
「声が大きい」
悲鳴に顔をしかめたジグがもぎたてのジャイコフ・アームRを振るう
腕は綺麗なスイングと血の軌跡を描きながら傷口を押さえて喚いていたジャイコフの頭部に直撃
意識を失った彼はそのまま血だまりに倒れ伏した