エピソード 1ー1
「フィオナ王女殿下、こちらの資料は確認なさいましたか?」
「うん、目は通したけど、覚えたかは……まだ自信ないよぅ」
「急に必要になりましたからね。大変だとは存じますが、これからは必要になる知識ですので早急に覚えなくてはいけません。後でテストをしましょう」
「はぁい……」
アイリスがフィオナにお勉強を教えている一室。窓辺から差し込む陽差しを受けてピンクゴールドの髪を輝かせるお姫様は、けれど資料に目を通しながら萎れていた。
フィオナ王女殿下が睨めっこしている資料は、この国の貴族とその家族構成、紋章や領地の特徴などが纏められた、国を治める者に必要な知識だ。
本来であれば少しずつ覚えていく類いの知識ではあるが、過去のフィオナ王女殿下は武術に傾倒していた。最近は勉学にも励むようになったが、どうしても目先に必要な知識を優先しがちになっていたため、いまこうして、そのツケを払っている、という訳である。
「でもさ、アイリス先生。領地の特徴なんかは覚えなくちゃダメって分かるけど、家名とかは初対面なら名乗ってくれるでしょ? それなのに、事前に覚えなくちゃいけないの?」
「むろんです。たとえば――」
アイリスは魔法陣を描く要領で、魔力を使って家紋を自分の胸元に描き出した。そうしてフィオナ王女殿下に向かって優雅にカーテシーをして見せる。
「わたくしはアルティ伯爵家の三女、エリーシアと申します。わたくし、同じ髪の色を持つ王女殿下に憧れていたんです。お目に掛かれて光栄ですわ、フィオナ王女殿下」
「え、あ、初めまして?」
アイリスの突然の行動の意図が分からないフィオナは戸惑いながらも応じた。そんなフィオナに向かってアイリスが一歩を踏み出し、フィオナ王女殿下の手を握った。
アイリスはにこりと微笑んで――
「フィオナ王女殿下はこれで死にました」
物騒なことを口にする。
もちろん、フィオナは意味が分からず、目を白黒とさせた。
「フィオナ、おまえはいま、ニセモノの令嬢に接近を許したんだ」
アイリスの背後から声が響いた。いつの間に――というにはいつものこと過ぎるので、アイリスは「いらしていたんですね」と振り返る。
そこには白を基調とした略式礼服を纏ったアルヴィン王子の姿があった。彼はアイリスに微笑みかけると「この時間なら、フィオナに勉強を教えている途中だと思ってな」と口にする。
どうやらアイリスに会いに来たらしい。けれど、アルヴィン王子はそのままフィオナ王女殿下へと視線を向けた。
「さきほどのアイリスの言葉を覚えているか?」
「えっと……アルティ伯爵家の三女、エリーシアと名乗ったよね? あとは……そうだ、髪の色が私と同じだって言ってたかな?」
反芻するフィオナ王女殿下に対してアルヴィン王子が頷く。
ちなみに、アイリスの髪の色はプラチナブロンドで、瞳の色はアメシストのような紫だ。髪の色がフィオナ王女殿下と同じだ口にしたのは、そういう設定だという説明である。
「だが、アルティ伯爵家の三女は流行病で亡くなっている。それに、アイリスが魔力で描いた紋章は別の家のものだ。それにエリーシアという貴族令嬢はいるが、髪の色はブラウンだ」
「えっと……それじゃ、つまり?」
「ほぼ間違いなくニセモノ、あるいは訳ありの令嬢だ。そんな令嬢の接近を無防備にも許し、手を握られるに至った。おまえが死んだというのはそういう意味だ」
「あ、そっか……だから、資料を覚えなくちゃいけないんだね」
瞳に理解の色を灯したフィオナ王女殿下を前に、アイリスはこくりと頷いた。
「貴族といえば、王都に出入りが多い者ばかりではありません。そういった者の身元を照会するには、ここに在るような資料が必要になります。ですが、必ずしも資料と見比べられるような状況ばかりではありませんから」
貴族を騙るのは重罪だ。だが、名を騙ることを重罪としているのは、その気になれば騙ることが難しくなく、その利用価値が大きい、という理由も含まれている。
「分かった、がんばって覚えるよ!」
フィオナはいままで以上に精力的に資料に目を通し始めた。
(この子はやはり、その知識の重要性を知ると頑張る傾向にありますね。ただ知識を詰め込むのではなく、実践形式で覚えさせるのがよさそうです。もっとも……)
その先は心の中ですら思い浮かべず、使用人に席を外すと目線を送る。それからアルヴィン王子を伴って隣の部屋に移動し、ローテーブルを挟んで向かい合い、ソファに腰掛けた。
「授業中に悪かったな」
「……授業を邪魔して謝るなんて、さてはニセモノですね?」
「失敬な。俺とて分別くらいは持ち合わせている」
「どの口が仰っているんですか」
いままでのおこないを思いだしてくださいと思う反面、アルヴィン王子にはアルヴィン王子の線引きがあるんだろうかと考えて追及をやめる。
そうして、本題を促すことにした。
「わたくしになにか用事があるんですよね?」
「ああ、確認したことがあってな。アイリス、おまえはこれからどうするつもりだ?」
「――っ」
ドクンと、アイリスの鼓動が大きく跳ねた。
巻き戻り転生を果たしてから一年ほど。アイリスの人生は、前世の自分、フィオナを幸せにすることにあったといっても過言ではない。
彼女の側にいるために尽力し、彼女の敵を排除して、彼女の成長を促してきた。だけど、他国の人間が女王の教育係というのは外聞が悪い――と、グラニス王に言われている。
「いまは……フィオナ王女殿下のお勉強を教えるまでです」
「だが、即位までと言われているはずだ。その後はどうする?」
「考えていません」
「離れる覚悟はあるのか?」
「考えていないと申しました」
触れられたくないことに触れられ、珍しくアイリスの声が険しくなる。そんなアイリスの内心を見透かしたかのように、アルヴィン王子は目を細めた。
「おまえらしくもない。だが……分かる気はする。実は、そんなおまえにいい話をもって来た。俺に協力してくれるのなら、おまえがフィオナの側にいられるようにしてやる」
「……それは、本当ですか?」
「ああ。おまえなら言うまでもないことだと思うが、今回のことはなにかと根回しが足りておらず、方々で混乱が起きている。それを鎮めるのに手を貸して欲しいのだ」
「その対価に、私をフィオナ王女殿下の側に置いてくださる、と? ですが、女王の教育係が他国の人間では外聞が悪いと、そう仰ったのはグラニス王ですよ?」
前王の言葉は、次代の王でも簡単には翻せない。ましてや、アルヴィン王子にはもっと難しいはずだ。なのに、どういうつもりかと訝しむアイリスに、彼はにやっと笑った。
「難しいのは家庭教師だからだ。役職にこだわらなければ手はある」
「……他の役職、ですか」
たしかに一理ある。
ただし、フィオナ王女殿下と密接な関係になる役職はやはり敬遠されるはずだ。アルヴィン王子は一体どんな役職を考えているのだろうかと、アイリスは首を傾げた。
「その役職、教えてはくださらないのですか?」
「いま教えたら、おまえは自分で手に入れようとするではないか。それでは取り引きにならない。ゆえに、これは成功報酬だ」
「なるほど。では少しだけ確認させてください。その役職は、いまと比べて、どの程度フィオナ王女殿下の側にいることが出来ますか?」
「まったく同じとはいかないが、明らかに減る、ということはないはずだ。ただし、いまよりも忙しくなる、ということはあるかもしれないがな」
「それは別にかまいません」
フィオナ王女殿下の側にいられるのなら安い対価である。
(アルヴィン王子ならわたくしに害を為すことはないでしょう。それに、気に入らない内容であれば報酬を蹴って、自分でなんとかするという手もあります)
いまは選択肢が一つでも欲しい。そんな思惑で話を聞くことにする。
「ではその対価に、アルヴィン王子は具体的にはなにを望まれるのですか?」
「この混乱を収めることだ。陛下は俺とフィオナの婚姻を考えていない。それは、先日の宣言からしても明らかだ。俺にとっては予想していたことであるが、俺を支持していた者達には動揺が広がっている。このままという訳にはいかぬのだ」
「それは、そうでしょうね」
この国の貴族達の多くは、フィオナ王女殿下を支持する者と、アルヴィン王子を支持する者に別れていた。だが、フィオナ王女殿下が女王になり、アルヴィン王子が王配になるのなら、どちらについても同じ勢力という認識の下で纏まっていた。
だが、アルヴィン王子が王配にならないのならその前提は崩れることになる。グラニス王の思惑は不明だが、このままでは二つの勢力がぶつかり合うことにもなりかねない。
「その混乱を収めるのは望むところですが、アルヴィン王子はわたくしになにをさせるおつもりですか? わたくしが説得しても、彼らは納得しないと思うのですが……?」
アルヴィン王子派を納得させるには、フィオナ王女殿下が即位後も、アルヴィン王子にそれ相応の地位が保証されることを示すしかないだろう。
そしてそれが出来るのはグラニス王かフィオナ王女殿下だけだ。
「無論、おまえに説得を頼むつもりはない。ただ、おまえの協力を得られているのといないので、各方面への交渉難易度が大きく変わってくるのだ」
アルヴィン王子が、フィオナにとってマイナスになることをするとは思えない。けれど、アルヴィン王子の言葉を鵜呑みにするには情報が少なすぎる。
「仰るとおりの事情であれば、フィオナ王女殿下の側にいられるようにしていただくことを条件に、アルヴィン王子に協力することもやぶさかではありません」
「そうか」
含みを持ったアイリスの言い回しに対し、アルヴィン王子はふっと表情を和らげて、いつの間にか用意された紅茶に手を伸ばした。
そうして一息入れる姿をまえに、アイリスはところで――と口を開いた。
「グラニス王が名君であることは存じております。ですが、それならばなぜ、各方面へ根回しをせずに、あのようなことを仰ったのでしょうか?」
アイリスの疑問に、アルヴィン王子は答えずに口の端を吊り上げた。
「……なんですか?」
「いやなに、おまえは案外鈍感なのだな」
「わたくしが、ですか?」
初めて言われたと目を瞬いた。賢姫であるアイリスにとっては受け入れがたい評価だが、そのように言われるのは、自分の気付いていない理由があるからだろうと考えを巡らす。
「……アルヴィン王子は、なにかご存じなのですね?」
「ここ最近は飛び回っていたから、想像でしかないがな」
ここしばらくは王都を離れて各地を飛び回っていた。その間に、陛下に心変わりが訪れるようななにかがあった。そう受け取ったアイリスはグラニス王の周辺を調べることにする。
「貴重なご意見をありがとうございます。それでは――」
さっそく調査に乗り出そうと席を立つ。その瞬間、同時に立ったアルヴィン王子に手首を摑まれた。彼はローテーブルを回り込み、アイリスをぐいっと引き寄せる。
不意打ちにバランスを崩した――というか、アルヴィン王子の柔術によってバランスを崩されたアイリスは、よろめいてアルヴィン王子の腕の中に寄りかかる。
「……なんですか?」
「ふむ、今日のおまえは甘い香りがするな」
「ぶっとばしますよ」
「褒めているだけなのに理不尽な」
「褒めればなにをしてもいいとでも思っているのですか?」
手首を摑まれている腕を持ち上げ、そこから小手を返して手を振り払おうとする――が、アルヴィン王子は巧みにそれを押さえ込んだ。
「……むっ、ではこれでどうですか?」
二人のあいだにあるわずかな隙間、そこを通して掌底を振り上げる。だが、アルヴィン王子の手によって逸らされてしまった。彼の顎を掠めて伸びた掌底は、アルヴィン王子の首に腕を回しているような形になった。
とっさに引き戻そうとするが、その腕も摑まれてしまう。押さえ込まれているのはアイリスだが、傍目にはアイリスから抱きついているように見えるだろう。
「どうした? ずいぶんと情熱的ではないか」
「ぐぬっ。……アルヴィン王子、最近、反応速度が速くなりましたね?」
以前の彼ならば、回避は出来ても、それを逆手に取るまでには至らなかったはずだ。そう指摘するアイリスに対し、アルヴィン王子はにやっと口の端を吊り上げた。
「俺も以前のままではない、ということだ」
「……以前のままではない?」
アルヴィン王子が訓練を欠かさないことは知っている。だが、それだけではないような気がする――と、アイリスの中でなにかが引っかかった。
だけど、
「アイリスに聞きたい。おまえはフィオナのためなら何処まで出来る?」
アルヴィン王子に質問され、アイリスは即座に意識を切り替えた。
「無論、必要ならば何処まででも」
アメシストの瞳で、アルヴィン王子をまっすぐに見つめる。しばしその視線を受け止めていたアルヴィン王子は小さく頷き、アイリスを腕の中から解放した。
「では、フィオナの即位を円滑におこなうために協力してくれるか?」
「望むところです――と言いたいところですが、少し保留にしていただいてもかまいませんか? グラニス王にもお話を伺うつもりですので」
「ああ、もちろんだ。返事はその後でかまわない」
「感謝します」
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